1.現在の苦しみ
・パウロは8章前半において、「聖霊があなたがたの内に宿り、あなたがたを守る」と聖霊の働きを述べ、さらに、「あなたたちは神の子であり、神の相続人でもある」と語った。彼は「人は神とキリストと一体なのだ」と教示したうえで、「来るべき苦難をも一体となって耐えていこう」と励ます。
−ロ−マ8:17「もし(神)の子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら共にその栄光をも受けるからです。」
・「神の子とされる」とは、永遠の命が約束されたということだ。しかし現実の私たちはまだ肉の体をまとって、地上の生を生きている。そしてこの地上はイエスを十字架で磔にした場所、罪が支配している場所だ。だからキリスト者になることは世からの苦しみを受けることを意味する。しかしパウロは「キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受ける」と語る。
―ローマ8:18「現在の苦しみは、将来私たちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないと私は思います。」
・当時の社会において、キリストを信じることは、「迫害と苦しみ」を意味していた。キリストを信じるユダヤ人はユダヤ社会から異端として排斥され、キリストを信じる異邦人は皇帝礼拝を拒否する者としてローマ帝国からの迫害を受けていた。この世でキリスト者として生きることはキリストと共に受難の人生を送ることだ。しかし「現在の苦しみは、将来私たちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りない」とパウロは語る。
―ローマ8:19-20「被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています。」
・聞く私たちはパウロの言葉にたじろぐ。誰も苦難など受けたくない、私たちが求めるのは現在の幸福だ。世の宗教は現世利益を説く故に、多くの人々が集まる。しかし、このような宗教は病の癒しは説いても、死からの救済は説かない。最大の苦難である死と向き合おうとしない信仰は永続しない。パウロは神との関係を人間だけではなく、神が創造した地上のすべての被造物に拡大して説く。「すべての生物は、今は空しく生きているが、神の子たちの来臨を待っている」と彼は述べる。
―ローマ8:21-22「つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。被造物がすべて今日まで、共に呻き、共に産みの苦しみを味わっていることを、私たちは知っています。」
・「すべての被造物は滅びの隷属から解放されるという望みがあるから、今は呻きながら耐え、解放の時を待っている。今は産みの苦しみを耐えていく時だ」とパウロは語る。
−ローマ8:23-25「被造物だけでなく、“霊”の初穂をいただいている私たちも神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。私たちはこのような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものを誰がなお望むでしょうか。」
2.将来の栄光
・今現在、私たちの救いは目に見えない。現実の世界では、苦難が繰り返し襲い、私たちは疲れ果てて祈ることさえできない。しかし神は霊を通して、私たちの呻きを聞きとって下さる。私たちが祈れない時には霊が共に祈って下さる。
―ローマ8:26「同様に、“霊”も弱い私たちを助けてくださいます。私たちはどう祈るべきか知りませんが“霊”自らが、言葉に表されないまたうめきをもって執り成してくださるからです。」
・神の国はまだ来ていないが、必ず来ることを私たちは知っている。私たちに与えられる苦しみは、良いものを生み出すための「産みの苦しみ」だ。この希望を私たちは持つ。
―ローマ8:27-28「人の心を見抜く方は、“霊”の思いが何であるかを知っておられます。“霊”は、神の御心に従って聖なる者たちのために執り成してくださるからです。神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを私たちは知っています。」
・神の霊が私たちを支えてくれるゆえに、不信仰な私たちも神の約束を信じて人生を歩み続ける。その時、私たちは「万事が益となって働く」ことを経験する。
―ローマ8:29-30「神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似た者にしょうとあらかじめ定められました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです。神はあらかじめ定められた者を召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです。」
3.神の愛に生かされて
・パウロはキリスト者を襲う迫害、不安にどう対処すべきかを教える。
−ローマ8:31-32「ではこれらのことについて何と言ったらよいだろうか。もし神が私たちの味方であるならば、だれが私たちに敵対できますか。私たちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一諸にすべてのものを私たちに賜らないはずがありましょうか。」
・これらのこと、キリスト者が出会う苦難と迫害について、いたずらに不安にかられることはない。なぜなら、神が我々の味方であるなら、誰も敵対できないからだ。
―ローマ8:33-34「だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。だれが私たちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるイエス・キリストが、神の右に座っていて、私たちのために執り成してくださるのです。」
・私たちは神に選ばれている。神に選ばれた者を、誰も神の前に訴えることはできないし、罪に定めることなどできるはずがない。復活のキリストが神の右の座にいて私たちのために執り成しをしてくださる。
―ローマ8:35-36「だれが、キリストの愛から私たちを引き離すことができましょう。艱難か、苦しみか、迫害か、飢えか、裸か、危険か、剣か。『私たちは、あなたのために、一日中死にさらされ、屠られる羊のようにみられている』と書いてある通りです。」
・キリストの愛から私達を引き離せる者は誰もいない。だから信頼してよい。詩編44:23は述べる「我らはあなたゆえに、絶えることなく殺される者となり、屠るための羊と見なされています」。信徒もまた死を前にした羊と同様な不安にさらされている。しかし、パウロは「どのようなものも、神の愛から私たちを引き離すことはできない」と高らかに宣言する。
―ローマ8:37-38「しかし、これらすべてのことにおいて、私たちは、私たちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。私は確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高いところにいるものも、低いところにいるものも、他のどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、私たちを引き離すことはできない。」
・この地上で理解されず、人々から捨てられ、一人にされても良いではないか。人を義としてくださるのは神なのだ。神は共にいて下さり、私たちを知っておられるのだから。
−イザヤ49:4「私は思った。私はいたずらに骨折り、うつろに、空しく、力を使い果たした、と。しかし、私を裁いてくださるのは主であり、働きに報いてくださるのも私の神である」。
・私たちの生活は困苦と艱難に満ち、障害と誘惑に囲まれている。苦しみそのものは決して良いものではないが、それが私たちのために最善に用いられることを知るゆえに、私たちは困苦や艱難を喜ぶことが出来る。三浦綾子さんは、「癌さえも喜ぶことが出来る」ようになったと書いている
−三浦綾子「泉への招待」から「私は癌になった時、ティーリッヒの“神は癌をもつくられた”という言葉を読んだ。その時、文字どおり天から一閃の光芒が放たれたのを感じた。神を信じる者にとって、神は愛なのである。その愛なる神が癌をつくられたとしたら、その癌は人間にとって必ずしも悪いものとはいえないのではないか。“神の下さるものに悪いものはない”、私はベッドの上で幾度もそうつぶやいた。すると癌が神からのすばらしい贈り物に変わっていた」。
・肉体の病も肉体の死も神がお与えになる、だからそれは祝福なのだと受け止めていく時、人生に怖いものはなくなる。この信仰をいただいたものは他に何も要らない。神は私たちの味方であることを知る時、何があっても、私たちはくじけない。神共にいましたもう。それで十分だ。