1.ピラトから尋問される
・木曜日の深夜、イエスはエルサレム郊外のゲッセマネで捕らえられ、大祭司の屋敷に連行された。大祭司はイエスを「神を冒涜する者」として死刑宣告を行うが、当時のユダヤはローマ支配の下にあり、彼らは死刑執行権を持たなかったため、イエスをローマ総督官邸に連れて行った。金曜日の明け方のことである。しかし、彼らは異邦人の家に入って汚れることを嫌い、官邸には入らなかった。
−ヨハネ18:28‐30「人々は、イエスをカイアファのところから総督官邸へ連れて行った。明け方であった。しかし、彼らは自分では官邸に入らなかった。汚れないで過越の食事をするためである。そこで、ピラトが彼らの所に出て来て、『どういう罪でこの男を訴えるのか』と言った。彼らは答えて、『この男が悪いことをしていなかったら、あなたに引き渡しはしなかったでしょう』と言った。」
・イエスが逮捕されたのは、ニサンの月の十四日であった。その日の夕方から過越しの食事が行われるので、イエスを総督官邸に連行したユダヤ人たちは過越しの食事に障りなく参加できるように、総督官邸に入ろうとしなかった。異教徒ピラトの官邸に入れば、汚れて過越しの食事ができなくなると思ったからだ。
・ユダヤ人たちはイエスを「ローマに対する反逆者」として告発した。ピラトはユダヤ人たちの仲間内の争いで、イエスが捕らえられたことを知っていた。だから言った「お前たちが自分の法に従って裁け」。ユダヤ人たちは反論した「私たちには死刑執行権がない」。やむなくピラトがイエスを裁くことになった。
−ヨハネ18:31‐32「ピラトが、『あなたたちが引き取って自分たちの律法に従って裁け』と言うと、ユダヤ人たちは、『私たちには、人を死刑にする顕限はありません』と言った。それは、御自分がどのような死を遂げられるかを示そうとして、イエスの言われた言葉が実現するためであった。」
2.お前はユダヤ人の王なのか
・ピラトが最初にイエスに聞いたのは「お前はユダヤ人の王なのか」という問いだった。イエスが「そうだ」と答えれば、彼はローマへの反逆者として有罪になる。この後も、ピラトがイエスに繰り返し尋ねるのは「あなたはユダヤ人の王であるか」の一点だけだった。そのピラトの問いに対してイエスは逆に問われる「あなたは自分の考えでそう言うのか、それとも他の人の考えか」。ピラトの考えであれば、彼はイエスをローマに反逆する政治的王と考えているわけであり、イエスはそうではないから、これを否定される。他方、ユダヤ人の言う意味での王であれば、それはメシヤ=救い主という意味であり、イエスはそうであるから、これを肯定される。イエスはその意味をピラトに問い返された。しかし、ピラトはそのような問題には関心はない。関心があるのは、イエスがローマに反逆しているかどうかだ。
−ヨハネ18:33‐35「そこで、ピラトはもう一度官邸に入り、イエスを呼び出して、『お前がユダヤ人の王なのか』と言った。イエスはお答えになった。『あなたは自分の考えで、そう言うのですか。それとも、ほかの者が私について、あなたにそう言ったのですか。』ピラトは言い返した。『私はユダヤ人なのか。お前の同朋や祭司長たちが、お前を私に引き渡したのだ、一体何をしたのか。』」
・ピラトの「お前がユダヤ人の王なのか」で始まる尋問は、共観福音書、ヨハネ福音書、共通の記事である(マタイ27:1‐2,マルコ15:1‐5,ルカ23:1‐5)。四福音書に共通の記事であるということは、ピラトの尋問と、それに続く過程が、初代キリスト教徒にとって、極めて重要な意味を持っていたことを示す。なぜなら、初代キリスト教徒にとって、ロ−マ皇帝に忠誠を誓うか、誓わないかが繰り返し、迫害の争点になっていたからである。ヨハネ福音書はイエスを死に追いやったのはローマ総督ではなく、ユダヤ教指導者だという護教的視点から描かれている。
3.私の国は、この世に属していない
・イエスは王であるが、この世の王ではない。イエスは神の国のことを話され、ピラトは地の国のことを考えている。イエスとピラト、それぞれが考える国が異なる故に、話がかみ合わない。イエスは地の国の王ではないが、神の国の王である。神の国は見えない、神の国はこの世のものではない。しかし、この世に存在している。
−ヨハネ18:36‐39「イエスはお答えになった。『私の国は、この世には属していない。もし、私の国がこの世に属していれば、私がユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、私の国はこの世には属していない。』そこでピラトが、『それでは、やはり王なのか』と言うと。イエスはお答えになった。『私が王だとはあなたが言っていることです。私は真理について証しするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、私の声を聞く。』」
・ピラトは確認する「それでは王なのだな」。イエスは答えられる「その通り、私は王である」。イエスは真理の国の王である。イエスは「真理について証をするために生まれ、そのために世に来た」。イエスは父なる神から遣わされて世に来た。そして、父がどのような方であるかを語った。イエスの言われる真理とは神のことだ。ローマは力によりその帝国を拡大していく。イエスは真理を証しすることを通して、神の国を広げていく。ピラトには理解できない。そして彼は尋ねる「真理とは何か」。
-ヨハネ18:38a「ピラトは言った『真理とは何か』」
4.死刑の判決を受ける
・ピラトは、何が真理かについて関心はない。彼の関心は誰が支配者であり、誰が力を持っているかだ。ローマ総督として、彼の目はローマを向いている。従って、ここで本国の不興を買うような騒動を起こしたくない。だから、彼はユダヤ人たちを怒らせるようなことはしない。他方、行政官として、彼はイエスが処罰すべき反逆者でないことはわかった。だから、イエスを釈放しようとする。この二つの欲求を彼は調和させようと試みる。ピラトはユダヤ人たちのところへ行き「イエスは無罪だ。釈放しよう」と提案する。しかし、ユダヤ人たちは納得せず「イエスを死刑にしろ」と要求する。
−ヨハネ18:38b‐40「ピラトはこう言ってからもう一度、ユダヤ人の前に出て来て言った。『私はあの男に何の罪も見いだせない。ところで、過越祭にはだれか一人を釈放するのが慣例になっている。あのユダヤ人の王を釈放してほしいか。』すると、彼らは、『その男ではない。バラバを』と大声で言い返した。バラバは強盗であった。」
・バラバは「都に起こった暴動と殺人のかどで投獄されていた」(ルカ23:19)。彼はローマへの抵抗運動の指導者であり、民衆にとっては英雄的存在であった。バラバは暴行の人、流血の人であり、目的のためには手段を選ばない。民衆はいつの時代でも、バラバを選ぶ。バラバの目指すものは目に見えるからだ。他方、イエスの目指すものは目に見えない。このバラバを選択したことが、ユダヤ亡国の始まりになった。この後、ユダヤ人たちは、ローマへの抵抗運動を強め、終にはローマに対する独立戦争を始め、負けて国は滅びる。紀元70年、イエスの十字架死の40年後だ。
・ユダヤ人たちは真理を知ろうとしなかった。だから、彼らはイエスを捨てて、バラバを選んだ。その結果、国を滅ぼした。ピラトも真理を知らず、また関心も示さなかった。彼は「真理とは何か」と聞きながら、その答えを聞こうともせず、部屋を出て行った。ピラトはやがて失脚し、流刑地で自殺したと伝承は伝える。真理を聞こうとしない者は滅びる。
・真理こそ、国を造り、社会を造り、私たちの人生を完成させる力だ。ローマは軍隊と法律によって、当時の世界を征服し、大帝国を建設した。しかし、外敵の侵入と内部の堕落により、400年後に滅ぶ。キリスト教はイエスの死後、弟子たちが真理を証しする伝道を始め、やがて全世界に普及していく。権力による征服は華々しいが一時的であり、真理による伝道は地味であるが、永続的である。イエスに勝ったかに見えたローマが、やがてイエスの弟子たちにより滅ぼされていく。人間の歴史の中に、神は働いておられる。