1.一粒の麦、地に落ちて死なずば
・イエスの評判が高まり、ギリシア人がイエスに教えを乞いに来た。ユダヤ教に改宗した異邦人だった。彼らはイエスに会うために来た。
−ヨハネ12:20‐22「さて、祭のとき礼拝するためにエルサレムに上って来た人々の中に、何人かのギリシア人がいた。彼らは、ガリラヤのべトサイダ出身のフィリポのもとへ来て、『お願いです。イエスにお目にかかりたいのです』と頼んだ。フィリポは行ってアンデレに話し、アンデレとフィリポは行って、イエスに話した。」
・イエスは異邦人来訪を通して、終わりの時が来た事を悟られる。福音が異邦人にも伝えられるのは最後の時(救いはユダヤ人から始まるとイエスは理解されていた)、その時には、言葉でなく、十字架を通して福音が宣教される。だからイエスは「自分は死ぬ」であろうことを「一粒の麦」として示される。
−ヨハネ12:23‐24「イエスはこうお答えになった。『人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば多くの実を結ぶ』」。
・「一粒の麦が死ぬ」、麦を地に蒔けば、その麦は地の中で、壊され、形を無くして行く。そのことによって種から芽が生え、育ち、やがて多くの実を結ぶ。蒔かずに貯蔵しておけば今は死なないが、やがて死に、後に何も残さない。イエスが十字架で死ぬことによって、そこから多くの命が生まれていく。
−ヨハネ12:25-26「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。私に仕えようとする者は、私に従え。そうすれば、私のいる所に、私に仕える者もいることになる。私に仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。』」
・ここで「自分の命を愛する」と言われている「命」は、ギリシア語プシュケー=肉的、自然的命である。それに対して、永遠の命は「ゾーエー」という言葉だ。私たちが、古い地上の命(プシュケー)に死んで、新しい天上の命(ゾーエー)に生きる時、私たちは天の国の住人として、この地上の国を生きる。命ほど大事なものはない。船が難破して海に投げ出された人が、持ち物や荷物を捨てなければ助からないとしたら、その人は命以外のものは惜しげなく捨てるだろう。私たちも同じ状況にある。世の命(プシュケー)を手放そうとしないことが、本当の命(ゾーエー)を危険にしているのだ。だからプシュケー、自己を捨てよ、そうすればゾーエーを得ると聖書は主張する。
2.人の子は上げられる
・十字架の死を前にイエスは心騒ぎ祈られる。イエスは内心の苦悩を隠さずに祈られる。ヨハネ福音書のゲッセマネの祈りだ。すると天から応答があった。
−ヨハネ12:27‐29「今、私は心騒ぐ、何と言おうか。『父よ、私をこの時から救ってください』と言おうか。しかし、私はまさにこの時のために来たのだ。父よ、御名の栄光を現わしてください。」すると、天から声が聞こえた。『私はすでに栄栄光を現わした。再び栄光を現わそう。』そばにいた群衆は、これを聞いて、『雷が鳴った』と言い、ほかの者たちは、『天使がこの人に話しかけたのだ』と言った。」
・天からの声は群衆にも聞こえた。裁かれ、処刑され、葬られたイエスは、敗北したように見えるが、やがて墓を破って復活し、昇天される。
−ヨハネ12:30‐33「イエスは答えて言われた。『この声が聞こえたのは、私のためではなく、あなたがたのためだ。今こそ、この世が裁かれる時。今、この世の支配者が追放される。私は地上から上げられる時、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。』イエスは、御自分がどのような死を遂げられるかを示そうとして、こう言われたのである。」
・群衆は栄光のメシアを求めた。人々のために自らを犠牲にする苦難のメシアなど彼らは信じられない。
−ヨハネ12:34「すると群衆が言葉を返した。『私たちは律法によって、メシアは永遠にいつもおられると聞いていました。それなのに、人の子は上げられなければならない、とどうして言われるのですか。その「人の子」とはだれのことですか。』」
・イエスは、「光のあるうちに光を信じなさい」と言い残しその場を去る。
−ヨハネ12:35‐36「イエスは言われた。『光は、今、しばらく、あなたがたの間にある。暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。暗闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのか分からない。光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。』イエスはこれらのことを話してから、立ち去って彼らから身を隠された。」
・私たちはいつも「父よ、どうか救ってください。この苦しみを取り除いてください」と祈る。そう祈っている間は、苦しみは取り除かれない。何故ならば、私たちの根本問題は私たちに病気や失業や挫折等の重荷があることではなく、私たちがその重荷に負けてしまっていることだからだ。もし私たちが「この苦しみが必要であれば、取り除かないで下さい。御心であれば背負いますから」と祈り始めた時、私たちを取り巻く外的状況は変らなくとも、重荷が重荷のままであっても、癒されていく。
3.イエスを信じられない人たち
・イザヤ書六章は、預言者イザヤが神に召し出された時の厳粛な様子を伝えている。しかし、ヨハネは、この詩の中に、使命を帯びたイエスの存在を見た。
−ヨハネ12:37‐40「このように多くのしるしを彼らの目の前で行われたが、彼らはイエスを信じなかった。預言者イザヤの言葉が実現するためであった。彼はこう言っている。『主よ、だれが私たちの知らせを信じましたか。主の御腕は、だれに示されましたか。』彼らが信じることができなかった理由を、イザヤはまた次のように言っている。『神は彼らの目を見えなくし、その心をかたくなにされた。こうして、彼らは目で見ることなく、心で悟らず、立ち帰らない。私は彼らを癒さない。』」
・信じることはイエスの正しさを承認すると同時に、自分の側にも悔い改めが起こることだ。悔い改めた時、その人の生き方は世と対立する。神の真理は、世の真理とは異なるからだ。
−ヨハネ12:41‐43「イザヤは、イエスの栄光を見たので、このように言い、イエスについて語ったのである。とはいえ、議員の中にもイエスを信じる者は多かった。ただ会堂から追放されるのを恐れ、ファリサイ派の人々をはばかって公けに言い表さなかった。彼らは、神からの誉れよりも、人間からの誉れを好んだのである。」
・イエスは信じることの出来ないユダヤ人を前に叫ぶ「私を信じなさい。私を信じる者は私を遣わした神を信じるのであり、信じる者は世の闇の中から、神の光の中へ救い出されるのだ」、と。
―ヨハネ12:44‐46「イエスは叫んで、こう言われた。『私を信じる者は、私を信じるのではなくて、私を遣わされた方を信じるのである。私を見る者は、私を遣わされた方を見るのである。私を信じる者が、だれも暗闇の中に留まることのないように、私は光として世に来た。』」
・イエスが世に来られたのは、人を裁くためではなく、人を救うためであった。しかし、結局イエスが人を裁くことになるのは、イエスの言葉を人が受け入れないからである。
−ヨハネ12:47‐50「『私の言葉を聞いて、それを守らない者がいても、私はその者を裁かない。私は、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである。私を拒み、私の言葉を受け入れない者に対しては、裁くものがある。私の語った言葉が、終わりの日にその者を裁く。なぜなら、私は自分勝手に語ったのではなく、私をお遣わしになった父が、私の言うべきこと、語るべきことをお命じになったからである。父の命令は永遠の命であることを、私は知っている。だから、私が語ることは、父が私に命じられたままに語っているのである。』」
・「一粒の麦死なずば」という言葉は、多くの人の心を揺さぶる。昭和45年(1970)年3月、羽田発福岡行きの日航機がハイジャックされた「よど号」事件で、人質となった乗客の中に、聖路加国際病院理事長の日野原重明さんがいた。日野原さんは監禁されている間、犯人から借りたドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』を読みふけっていた。「一粒の麦もし地に落ちて死なずば唯一つにてあらん。もし死なば多くの実を結ぶべし」。ゾシマ長老が、末弟のアリョーシャたちに語った講話のなかで、引用した聖書の一節がことさら心にしみたという。今まで懸命に生きてきたから、ここで死んでも悔いはない。もし、生きて帰ることができたら、世の中にお返しをしよう。その思いが、日野原さんの医師としての後半生を決定づけたという。