江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2015年5月13日祈祷会(ヨハネ福音書11:1‐44、ラザロの死と復活)

投稿日:2019年8月21日 更新日:

1.ラザロの死

・ラザロ復活の記事は、共観福音書にはなく、ヨハネ福音書のみの記事である。マルタからラザロの死を知らされたイエスは、ベタニアに行き、死んだラザロを蘇らせる。物語の発端はイエスのもとに使いが来る場面だ。
−ヨハネ11:1‐4「ある病人がいた。マリアとその姉妹マルタの村、ベタニアの出身で、ラザロと言った。このマリアは主に香油を塗り、髪の毛で主の足をぬぐった女である。その兄弟ラザロが病気であった。姉妹たちはイエスのもとに人をやって、『主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです』と言わせた。イエスはそれを聞いて言われた。『この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。』」
・ユダヤでは祭司長たちがイエスの命を狙っていた。ラザロの死を伝えられたイエスは、それでもユダヤへ行かれる。イエスの旅の安否を気遣う弟子たちに、イエスは昼間歩く者の譬えで、神の守りのある限り、身に危害が及ぶことはないと説き、ユダヤへ行く決意を示す。
−ヨハネ11:9‐13「イエスはお答えになった。『昼間は十二時間あるではないか。昼のうちに歩けば、つまずくことはない。この世の光を見ているからだ。しかし、夜歩けば、つまずく。その人の内に光がないからである。・・・私たちの友ラザロが眠っている。しかし、私は彼を起こしに行く。』弟子たちは、『主よ、眠っているのであれば、助かるでしょう』と言った。イエスはラザロの死について話されたのだが、弟子たちは、ただ眠りについて話されたものと思ったのである。」
・この物語は歴史的にあった出来事なのだろうか。聖書学者の間でも意見が分かれている。ドイツで、ある牧師が子供の葬儀でこの箇所を説教した折、遺族から反論があったことが伝えられている。「イエスが『ラザロよ、出て来い』と叫ばれた時、ラザロは死んで4日も経っていたのに墓から出てきたと言われる。私は自分の子のよみがえりを必死でイエスに祈ったが、子どもはよみがえらなかった。どうしてなのか」。私たちはこの問いに応える責任がある。

2.イエスは復活と命

・イエスがラザロの家に着いたとき、ラザロの遺体は埋葬され、すでに四日経っていた。
―ヨハネ11:17‐19「さて、イエスが行って御覧になると、ラザロが墓に葬られて既に四日も経っていた。ベタニアはエルサレムに近く、十五スタディオンほどのところにあった。マルタとマリアのところには、多くのユダヤ人が、兄弟ラザロのことで慰めに来ていた。」
・イエスはマルタに会い、「ラザロは復活する」と言われた。マルタは信じられない。
−ヨハネ11:20‐24「マルタは、イエスが来られたと聞いて、迎えに行ったが、マリアは家の中に座っていた。マルタはイエスに言った。『主よ、もしここにいてくださいましたら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、私は今でも承知しています。』イエスが、『あなたの兄弟は復活する』と言われると、マルタは、『終わりの日の復活の時に復活することは存じております』と言った」。
・「私を信じる者は死んでも生きる。信じるか」とイエスから重ねて復活の信仰を問われたマルタは、「信じます」と答えたが、ラザロの復活に結びつけるには至らなかった。
−ヨハネ11:25‐27「イエスが言われた。『私は復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる。生きていて私を信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。』マルタは言った。『はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであると私は信じております。』」
・マルタの復活信仰は、遠い未来(終末時)の、観念的な復活だった。マルタでなくても、死んだ者が生き返ることなど、誰にも信じられない。しかしイエスは神にとってはそうではないと言われた。
−ヨハネ5:19-21「そこで、イエスは彼らに言われた。すなわち、父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も、与えたいと思う者に生命を与える。」
・ラザロの復活は、ドストエフスキーの小説「罪と罰」の主題として用いられている。貧しい学生ラスコリニコフは、才能のある若者が極貧にあえぎ、何の将来性もない金貸しの老婆が沢山のお金を持っているのは不合理であるとの思い上がった気持ちから、老婆を殺して金を奪う。しかし、良心に責められ、盗んだお金を使うことも出来ない。彼は娼婦ソーニャと出会い、彼女の部屋で、この物語をソーニャに読んで貰う。聞いたラスコリニコフは、「どのような人の命も勝手に奪うことはできない。命は神のものである」ことを知り、自分の犯した罪をソーニャに打ち明け、自首し、シベリヤの流刑地に送られる。ソーニャはシベリヤまで彼について行く。地の果てのような所で数年を過ごした後、復活祭過ぎのある朝、蒼白くやせた二人は、川のほとりでものも言わずに腰を下ろしていた。突然、ラスコリニコフは泣いてソーニャの膝を抱きしめる。「二人の目には涙が浮かんでいた・・・愛が彼らを復活させたのである」とドストエフスキーは書く。
・「愛が彼らを復活させた」、イエスの愛は、ラザロのよみがえりを通して、悲しみに沈むマルタとマリアの姉妹を復活させた。イエスの愛は十字架で逃げ去った弟子たちの前に再び現れることを通して、弟子たちの信仰を復活させた。イエスの愛はソーニャの信仰を通して、殺人者ラスコリニコフを復活させた。イエスは言われた。「私は復活であり、命である。私を信じる者は、たとい死んでも生きる。このことを信じるか」。復活信仰とは、どのような状況に置かれても、私たちはやり直すことが出来るという再生を信じる信仰だ。「このことを信じるか」。復活を愚かなこと、信じるに値しないこととして捨てることは簡単だ。しかし、捨てても何も生まれない。この復活の出来事の中に真理があるのではないかと求め始めた時、そこに何事かが起こる。
-1コリント15:54「この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。『死は勝利にのみ込まれた』」。

3.ラザロの復活

・マルタからイエス到着の知らせを受けたマリアは、一人立ってイエスを迎えに出た。
−ヨハネ11:28‐30「マルタはこう言ってから、家に帰って姉妹のマリアを呼び、『先生がいらして、あなたをお呼びです』と耳打ちした。マリアはこれを聞くと、すぐに立ち上がり、イエスのもとに行った。イエスはまだ村には入らず、マルタが出迎えた場所におられた。」
・イエスはマリアの涙を見て、憤り、興奮され、「墓は何処か」とマリアに尋ねられた。
−ヨハネ11:32‐34「マリアはイエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足元にひれ伏し、『主よ、もし、ここにいてくださいましたら、私の兄弟は死ななかったでしょうに』と言った。イエスは彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して言われた。『どこに葬ったのか。』彼らは、『主よ、来て、御覧ください』と言った。」
・ラザロの墓前でイエスは涙された。イエスの悲しみを見た弔問客の中には、盲人を癒しても、ラザロの死は防げなかったと陰口する者がいた。
−11:35‐37「イエスは涙を流された。ユダヤ人たちは、『御覧なさい。どんなにラザロを愛しておられたことか』と言った。しかし、中には、『盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか』と言う者もいた。」
・当時の墓は洞窟を掘って入り口に石を置く。イエスは墓の石を取り除くように言われたが、マルタは「もう臭います」と言ってためらった。
−ヨハネ11:38-39「イエスは、再び心に憤りを覚えて、墓に来られた。墓は洞穴で、石でふさがれていた。イエスが、『その石を取りのけなさい』と言われると、死んだラザロの姉妹マルタが、『主よ、四日も経っていますから、もう臭います』と言った。」
・マルタは死人のよみがえりを信じていない。イエスは「信じるならば、神の栄光を見ると言ったではないか」とマルタを叱責された。人々はイエスの言葉に従って石を取り除いた。その行為を見て、イエスは神が願いを聞かれたことを知り、感謝して祈られた。石を取り除くという行為が奇跡を招いた。
−ヨハネ11:41「人々が石を取りのけると、イエスは天を仰いで言われた。『父よ、私の願いを聞き入れてくださって感謝します。』」
・そして、墓に向かって「ラザロ、出てきなさい」と言われた。死んだラザロがよみがえって出てきた。
−ヨハネ11:43-44「『ラザロ、出て来なさい』と大声で叫ばれた。すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、『ほどいてやって、行かせなさい』と言われた。」
・この記事は、伝承を元にヨハネが編集して物語化したと言われている。ある人がイエスにより死の病から癒されたという伝承があり、ルカ福音書の伝承と合わせてヨハネが編集したものであろうと。「マルタとマリア」はルカ福音書に出てくる姉妹であり(ルカ10:38-42)、「ラザロ」もルカ16章19−31節に登場する。ヨハネ11章における主役はイエスとマルタであり、ラザロは脇役だ。この物語はラザロの物語ではない。さらにヨハネは11章において、「命」に、「ゾーエー」という言葉を用いる。ギリシャ語では、ビオスは生物学的命、ゾーエーは人格的な命を指す。ヨハネはここでゾーエー、人格的な命のよみがえりを問題にしている。ヨハネが強調したいのはラザロのよみがえりではない。ラザロが仮によみがえっても、彼は再び死ぬ。ヨハネの時代、ラザロは既に亡くなっていた。その程度のことは書くに値しない。そうではなくラザロのよみがえりを通じて、マルタとマリアが命(ゾーエー)であるキリストに出会ったことを彼は書いた。ヨハネの強調点はイエスの復活にある。イエスはヨハネ福音書が書かれた70年前に十字架で死なれたが、今そのイエスは復活されてここにおられる。そのことをヨハネは70年前に起こったとされる伝承を用いて訴えているのではないか。

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