江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2015年4月22日祈祷会(ヨハネ福音書8:31‐59、真理はあなたたちを自由にする)

投稿日:2019年8月21日 更新日:

1.真理はあなたたちを自由にする

・イエスは「私の言葉に留まるならば、あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」と言われた。ここで「自由」として使われている言葉は「エレウセロス=自由人」という言葉で、奴隷(ドウーロス)に対応する言葉だ。真理を知れば「あなたたちも奴隷ではなく、自由人になる」とイエスは言われた。だから、聞いているユダヤ人たちは反論した「私たちは自由人だ。誰の奴隷でもない」。
−ヨハネ8:31‐33「イエスは、御自分を信じたユダヤ人に言われた。『私の言葉に留まるならば、あなたたちは本当に私の弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。』すると、彼らは言った。『私たちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません。「あなたたちは自由になる」とどうして言われるのですか。』
・彼らは社会的には自由人だ。誰かの奴隷ではない。でも「あなたたちは本当に自由なのか。あなたたちは罪の奴隷ではないのか、罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である」とイエスは問われる。
−ヨハネ8:34‐36「イエスはお答えになった。『はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。奴隷は家にいつまでもいるわけにはいかないが、子はいつまでもいる。だから、もし、子があなたがたを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる。』」
・私たちは本当に自由なのか。私たちは罪の縄目の中でもがいているのではないか。聖書では罪とは神から離れることを意味する(罪=ハマルテイア、的から外れる)。神なき場所では、人間は人間しか見えない。他者が自分より良いものを持っていれば欲しくなり(=貪り)、他者が自分より高く評価されれば妬ましくなり(=妬み)、他者が自分に危害を加えれば恨む(=怒り、恨み)。神なき世界では、この貪りや妬み、恨みという人間の本性がむき出しになり、それが他者との争いを生み出していく。罪の思いが争いとなり、争いが死を招き、死が新しい罪を生んでいく。神なき世界では、この罪―死―罪という悪循環を断ち切ることが出来ない。この罪の縄目から自由になるためには、人間が再び神を見上げることしかない。
―ローマ3:10-18「正しい者はいない。一人もいない。悟る者もなく、神を探し求める者もいない。皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。彼らののどは開いた墓のようであり、彼らは舌で人を欺き、その唇には蝮の毒がある。口は、呪いと苦味で満ち、足は血を流すのに速く、その道には破壊と悲惨がある。彼らは平和の道を知らない。彼らの目には神への畏れがない。」
・戦後、日本は自由になった。しかし、私たちは、その自由を「何をして良い自由」だと誤解した。その結果起こったことは、みんなが勝手にやりたいことを行い、社会においては地域が崩壊して、隣に誰が住んでいるのかも知らない社会になってしまった。家庭においてもみんなが勝手に行為するために、家族はばらばらになり、離婚が増え、子供たちの犯罪が増えた。私たちは行動の自由を得たかもしれないが、少しも自由になっていない。「あなたたちは自分が自由だと思っているが、実はまだ罪の縄目の中に閉じ込められているのではないのか」というイエスの問いかけに、私たちはどのように答えるのだろうか。

2.反対者の父

・ユダヤ人たちはアブラハムの子孫であり、選びの民である。しかし、彼らはイエスを殺そうとしている。それは、イエスが神から来たことを信じないからだ。
−ヨハネ8:37‐41「『あなたたちがアブラハムの子孫だということは、分かっている。だが、あなたたちは私を殺そうとしている。私の言葉を受け入れないからである。私は父のもとで見たことを話している。ところがあなたたちは父から聞いたことを行っている。』彼らが答えて、『私たちの父はアブラハムです』と言うと、イエスは言われた。『アブラハムの子なら、アブラハムと同じ業をするはずだ。ところが、今、あなたたちは、神から聞いた真理をあなたたちに語っているこの私を、殺そうとしている。アブラハムはそんなことはしなかった。あなたたちは自分の父と同じ業をしている。』そこで彼らが『私たちは姦淫によって生まれたのではありません。私たちにはただ一人の父がいます。それは神です。』と言う。」
・「神がユダヤ人の父なら、その神から遣わされ、神の使信を伝えているイエスを受け入れるはずである。しかし受け入れない。それによってあなた方の父が神ではないことは明らかだ」とヨハネは反論する。
−ヨハネ8:42‐43「イエスは言われた。『神があなたたちの父であれば、あなたたちは私を愛するはずである。なぜなら、私は神のもとから来て、ここにいるからだ。私は自分勝手に来たのではなく、神が私をお遣わしになったのである。私の言っていることが、なぜ分からないのか。それは、私の言葉を聞くことができないからだ。』」
・イエスは「あなた方の父は神ではなく、悪魔なのだ」と言われたとヨハネは伝える。これは明らかに教会の迫害者であるユダヤ教徒に対するヨハネ教団の言葉であろう。ヨハネ福音書がユダヤ教からの迫害に苦しむ信徒たちのために書かれたことを覚える必要がある。
−ヨハネ8:44‐47「『あなたたちは、悪魔である父から出た者であって、その父の欲望を満たしたいと思っている。悪魔は最初から人殺しであって、真理をよりどころとしていない。彼の内には真理がないからだ。悪魔が偽りを言うときは、その本性から言っている。自分が偽り者であり、その父だからである。しかし、私が真理を語るから、あなたたちは私を信じない。あなたたちのうち、いったいだれが、私に罪があると責めることができるのか。私は真理を語っているのに、なぜ私を信じないのか。神に属する者は神の言葉を聞く。あなたたちが聞かないのは神に属していないからだ。』」
・イエスは十字架上で「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ23:34)と、自分を殺す者のために祈られた。ここに罪−死−罪の終わりなき循環を打ち切る神の業が為された。赦すことにより、敵との和解が可能になった。私たちはこの十字架の言葉を聞くことによって、自分の心の中の思い=罪から解放されるのだ。

3.アブラハムが生まれる前から「私はある」

・ユダヤ人はイエスが悪霊に取り憑かれていると攻撃した。しかしイエスは反論される。
−ヨハネ8:48‐51「ユダヤ人たちが、『あなたはサマリア人で悪霊に取りつかれていると、われわれが言うのも当然ではないか』と言い返すと、イエスはお答えになった。『私は悪霊に取りつかれてはいない。私は父を重んじているのに、あなたたちは私を重んじない。私は、自分の栄光は求めていない。私の栄光を求め、裁きをなさる方が、ほかにおられる。はっきり言っておく。私の言葉を守るなら、その人は決して死ぬことがない。』」
・「私の言葉を守るなら、その人は決して死ぬことがない」という言葉に、ユダヤ人たちは「アブラハムでさえ死んだのにあなたは死なないと言うのか」と反論する。ユダヤ人の目から見れば、自分をアブラハムや預言者の上に置くイエスの言葉は、サタンにとりつかれた者の言葉としか聞こえないだろう。
−ヨハネ8:52‐53「ユダヤ人たちは言った。『あなたが悪霊に取りつかれていることが、今はっきりした。アブラハムは死んだし、預言者たちも死んだ。ところが、あなたは、「私の言葉を守るなら、その人は決して死を味わうことがない」と言う。私たちの父アブラハムよりも、あなたは偉大なのか。彼は死んだではないか。預言者たちも死んだ。いったい、あなたは自分を何者だと思っているのか。』」
・イエスは「アブラハムの生まれる前から自分は存在していた」と言われる。アブラハムは偉大な預言者ではあるが人間に過ぎない。しかしユダヤ人には理解できない。アブラハムの子であることを誇るユダヤ人にはこの言葉は許しがたい冒涜の言葉であった。
−ヨハネ8:56‐59「『あなたたちの父アブラハムは、私の日を見るのを楽しみにしていた。そして、それを見て、喜んだのである。ユダヤ人たちが、『あなたはまだ五十歳にもならないのに、アブラハムを見たのか』と言うと、イエスは言われた。『はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から「私はある」』。するとユダヤ人たちは、石を取りあげ、イエスに投げつけようようとした。しかし、イエスは身を隠して、神殿の境内から出て行かれた。」
・「イエスは復活を通して神の子であることが明らかにされた」と信じるヨハネ教会と、「イエスは偽メシアに過ぎない」とするユダヤ教会では対話は成り立たない。イエスをどのような方として受け入れるか、今日の教会でも議論は分かれる。しかしヨハネは明確に言う「イエスは神の子であった」と。
−ヨハネ1:1-5「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」。

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