1.エペソ教会の誕生
・パウロはコリントからエルサレムに戻ると、すぐに第三回目の伝道旅行に出かける。今回は陸路経由でエペソに行くが、その地でパウロはヨハネのバブテスマしか知らない信徒と出会う。
−使徒言行録19:1-3「パウロは、内陸の地方を通ってエフェソに下って来て、何人かの弟子に出会い、彼らに『信仰に入った時、聖霊を受けましたか』と言うと、彼らは『いいえ、聖霊があるかどうか、聞いたこともありません』と言った。パウロが『それなら、どんな洗礼を受けたのですか』と言うと、『ヨハネの洗礼です』と言った」。
・パウロは人々に再洗礼を授ける。新約聖書における唯一の再洗礼の記述であり、再洗礼の是非について意見は分かれる。ルカは水の洗礼と霊の洗礼を区分する。確かに、私たちは罪の赦しだけでなく、生まれ変わる、新しく生きるという経験が必要だ。それが霊のバブテスマなのだろうか。
−使徒言行録19:4-6「そこで、パウロは言った『ヨハネは、自分の後から来る方、つまりイエスを信じるようにと、民に告げて、悔い改めの洗礼を授けたのです』。人々はこれを聞いて主イエスの名によって洗礼を受けた。パウロが彼らの上に手を置くと、聖霊が降り、その人たちは異言を話したり、預言をしたりした」。
・パウロは3年間エペソで伝道した後、異邦人教会からの献金を携えて、エルサレムに戻ることにした。彼はとりあえずエルサレムに戻るが、その後、帝国の首都であるローマに行く夢を持っている。
−使徒言行録19:21-22「このようなことがあった後、パウロは、マケドニア州とアカイア州を通りエルサレムに行こうと決心し、『私はそこへ行った後、ローマも見なくてはならない』と言った。そして、自分に仕えている者の中から、テモテとエラストの二人をマケドニア州に送り出し、彼自身はしばらくアジア州にとどまっていた」。
・イエスがエルサレムを目指されたように、パウロはローマを目指す。イエスがエルサレムで十字架につかれたように、パウロは囚人としてローマに行き、そこで殉教する。使徒言行録はパウロのローマ到着で終わる。
−使徒言行録28:14-16「こうして、私たちはローマに着いた。・・・私たちがローマに入ったとき、パウロは番兵を一人つけられたが、自分だけで住むことを許された」。
2.信仰に何を求めるのか
・エペソは魔術と迷信の地だった。パウロのいやしの業を見て、多くの人が金儲けのために、イエスの名前を、またパウロの名前を使って、いやしを行おうとする。
−使徒言行録19:11-13「神は、パウロの手を通して目覚ましい奇跡を行われた。彼が身に着けていた手ぬぐいや前掛けを持って行って病人に当てると、病気はいやされ、悪霊どもも出て行くほどであった。ところが、各地を巡り歩くユダヤ人の祈祷師たちの中にも、悪霊どもに取りつかれている人々に向かい、試みに、主イエスの名を唱えて、『パウロが宣べ伝えているイエスによって、お前たちに命じる』と言う者があった」。
・また、アルテミス神殿の銀細工を販売している者たちは、パウロの宣教によって、商売が邪魔されたとパウロを告発する。宗教はある人々にとっては生計の手段であり、妨害者は排除される。
−使徒言行録19:24-27「デメトリオという銀細工師が、アルテミスの神殿の模型を銀で造り、職人たちにかなり利益を得させていた。彼は、・・・同じような仕事をしている者たちを集めて言った『諸君、御承知のように、この仕事のお陰で、我々はもうけているのだが、諸君が見聞きしているとおり、あのパウロは手で造ったものなどは神ではないと言って、エフェソばかりでなくアジア州のほとんど全地域で、多くの人を説き伏せ、たぶらかしている。これでは、我々の仕事の評判が悪くなってしまうおそれがあるばかりでなく、偉大な女神アルテミスの神殿もないがしろにされ、アジア州全体、全世界があがめるこの女神の御威光さえも失われてしまうだろう』」。
・教会からの俸給で暮らしを立てる牧師もまた、宗教を生計の手段にしているのだろうか。聖書には、働く者が報酬を受けるのは当然だと言う考えと、出来れば自活伝道をすべきだとの双方の考えがある。
−?テモテ5:18「聖書には、『脱穀している牛に口籠をはめてはならない』と、また『働く者が報酬を受けるのは当然である』と書かれています」。
−?コリント9:18「では、私の報酬とは何でしょうか。それは、福音を告げ知らせるときにそれを無報酬で伝え、福音を伝える私が当然持っている権利を用いないということです」。
・宣教が信徒の生活に抵触する時、私たちはどうすれば良いのか。「剣を捨てよ」と言われたイエスは、職業としての軍人を否定されるのだろうか。「酒におぼれるな」と説く聖書は、酒屋という商売を禁止するのだろうか。
−ルカ20:24-25「『デナリオン銀貨を見せなさい。そこには、だれの肖像と銘があるか』。彼らが『皇帝のものです』と言うと、イエスは言われた『それならば、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい』」。