1.教会を出て行った人々とどのように交際するのか
・ヨハネの教会ではグノーシスと呼ばれる分派の人々が教会を割って出て行った。ヨハネはこの人たちを「私たちの仲間ではなかった」と指摘する。
―?ヨハネ2:19「彼らは私たちから去って行きましたが、もともと仲間ではなかったのです。仲間なら、私たちの元に留まっていたでしょう。しかし去って行き、誰も私たちの仲間ではないことが明らかになりました」。
・反キリストとはキリストの十字架に従う道ではなく、自分たちの願いの成就を祈る人々のことだ。病気が癒され、苦難は遠のき、幸福な人生を私たちは求める。しかし、イエスは十字架こそが救いだと繰り返し言われる。
―ルカ9:23-24「私について来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、私に従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、私のために命を失う者は、それを救うのである」。
・誰も十字架など背負いたくないが、ここに救いがあるのであれば背負おうというのが信仰だ。それを嫌って、教会を出て行った人々を私たちはどう評価するのか。ヨハネは、彼らはキリスト者ではないと言う。
―?ヨハネ1:7「このように書くのは、人を惑わす者が大勢世に出て来たからです。彼らは、イエス・キリストが肉となって来られたことを公に言い表そうとしません。こういう者は人を惑わす者、反キリストです」。
・テトスへの手紙の中でパウロも、分裂を引き起こす人々とは交際するなと述べる。
―テトス3:10-11「分裂を引き起こす人には一、二度訓戒し、従わなければ、係わりを持たないようにしなさい。あなたも知っている通り、このような人は心がすっかりゆがんでいて自ら悪いと知りつつ罪を犯しているのです」。
・マタイ福音書も同じ警告をする。マタイの教会でも分派の動きがあったのであろう。
―マタイ18:15-17「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである。それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい」。
2.神の国と地上の教会
・地上の教会は神の国ではない。私たちは無罪を宣告されても、本質は罪人のままだ。人間的な思いが教会を壊すこともある。その場合は腐敗が広がらないように、病根を分離することもやむをえない。
―?コリント5:6-7「あなたがたが誇っているのは、よくない。わずかなパン種が練り粉全体を膨らませることを、知らないのですか。いつも新しい練り粉のままでいられるように、古いパン種をきれいに取り除きなさい」。
・ヨハネは誤った信仰を持って教会から出て行った人々を「家に迎え入れるな、手助けするな」と警告する。
―?ヨハネ1:8-11「気をつけて、私たちが努力して得たものを失うことなく、豊かな報いを受けるようにしなさい。だれであろうと、キリストの教えを越えて、これにとどまらない者は、神に結ばれていません。その教えにとどまっている人にこそ、御父も御子もおられます。この教えを携えずにあなたがたのところに来る者は、家に入れてはなりません。挨拶してもなりません。そのような者に挨拶する人は、その悪い行いに加わるのです」。
・手紙のあて先教会でも分裂騒ぎが起きていた。真理に歩んでいない人々がいたことを手紙は示唆する。教会から出て行った人々と付き合わないのは、外的防御だ。しかし、もっと必要なことは内的防御だ。愛し合うことだ。
―?ヨハネ1:4-6「あなたの子供たちの中に、私たちが御父から受けた掟どおりに、真理に歩んでいる人がいるのを知って、大変うれしく思いました。さて、婦人よ、あなたにお願いしたいことがあります。私が書くのは新しい掟ではなく、初めから私たちが持っていた掟、つまり互いに愛し合うということです。愛とは、御父の掟に従って歩むことであり、この掟とは、あなたがたが初めから聞いていたように、愛に歩むことです」。
・愛し合うとは仲良くすることや飲食の交わりをすることではない。イエスが言われたように、相手の足を洗う、仕えていくことだ。
―ヨハネ13:14-15「主であり、師である私があなた方の足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。私があなた方にした通りに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである」。
・教会の争いはしばしば一人の人の強い個性から来る。彼は良かれと思って行為するが、その行為が教会を混乱させる。行為が教会を壊すのであれば、それは間違っている。成熟した信仰とは他者のために祈る信仰だ。
―?コリント10:23-24「すべてのことが許されている。しかし、すべてのことが益になるわけではない。すべてのことが許されている。しかし、すべてのことが私たちを造り上げるわけではない。だれでも、自分の利益ではなく他人の利益を追い求めなさい」。