1.イエスを通して神を知る
・ヨハネの手紙は、紀元90年ごろ、エペソで書かれたと言われている。十字架から60年、信徒たちは二代目、三代目になり、「ナザレのイエスは本当にキリストだったのか」という疑問が教会内に起きてきた。その人々に対し、使徒ヨハネは「私たちは神の子をこの目で見て、そのお声を聴き、その方に触れた」と証しする。
―?ヨハネ1:1-2「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言について。この命は現れました。御父と共にあったが、私たちに現れたこの永遠の命を、私たちは見て、あなたがたに証しし、伝えるのです」。
・ヨハネ書冒頭の言葉は、ヨハネ福音書冒頭と同じだ。命の言葉が受肉した、救いはキリストにありと主張する。
―ヨハネ1:1-14「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。・・・言は肉となって、私たちの間に宿られた。私たちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」。
・神はナザレのイエスを通して、自らの存在と人間に対する愛を示された。これが聖書の信仰であり、救いはキリストのみ、仏教やイスラム教の中にも救いがあるとする宗教多元主義を私たちはとらない。
―使徒言行録4:10-12「この人が良くなって、皆さんの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人イエス・キリストの名によるものです。・・・他の誰によっても、救いは得られません。私たちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」
・目に見えない方をどのように信じていくのか。それは私たち自身が、キリストに出会い、キリストを通して、神を知ること以外にはない。
―?ヨハネ1:3-4「私たちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなた方も私たちとの交わりを持つようになるためです。私たちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。私たちがこれらのことを書くのは、私たちの喜びが満ちあふれるようになるためです」。
2.神に出会った者は生き方を決定的に変えられる
・キリストに出会った時、人は生き方を決定的に変えられる。もし、前と同じように、自己中心の生き方をしているとしたら、キリストに出会っていないのだ。
―?ヨハネ1:5-6「私たちがイエスから既に聞いていて、あなたがたに伝える知らせとは、神は光であり、神には闇が全くないということです。私たちが、神との交わりを持っていると言いながら、闇の中を歩むなら、それはうそをついているのであり、真理を行ってはいません」。
・人が自己中心の生き方をするのは、自分の罪を知らないからだ。自分が罪人であり、キリストの十字架によって赦されたことを知る者は、他者を貶めない。自らを罪無しとするものは、闇を照らす光に出会っていない。
―?ヨハネ1:7-8「神が光の中におられるように、私たちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理は私たちの内にありません」。
・罪を認め、告白することによって救いは始まる。罪を自覚し、悔い改めた者を、神は赦される。
―使徒言行録2:36-38「『あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです』。人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに『兄弟たち、私たちはどうしたらよいのですか』と言った。すると、ペトロは彼らに言った。『悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます』」。
・私たちは光に出会うことによって自らが罪人であることを知る。その光には苦難を通して出会う。苦難こそ人をキリストへ、神へ導く道しるべだ。
―ルカ6:20-22「貧しい人々は、幸いである。神の国はあなたがたのものである。今飢えている人々は、幸いである。あなたがたは満たされる。今泣いている人々は、幸いである。あなたがたは笑うようになる。人々に憎まれる時、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられる時、あなたがたは幸いである」。
・罪を告白した者は神の前に頭を下げる。神の前にひざまずく者は、他者の前に誇らない。私たちが他者との人間関係が破れているとしたら、まず神との関係の破れを考えるべきだ。
―?ヨハネ1:9-10「自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とすることであり、神の言葉は私たちの内にありません」。