1.異言を語っても愛がなければ虚しい
・コリント教会では、霊的賜物としての異言が重視され、異言を語らない者は、霊的賜物が少ないと軽蔑された。パウロは、それはおかしいとして、14章で異言をあまりにも重視する教会の姿勢を戒めている。
―?コリ14:1-4「愛を追い求めなさい。霊的な賜物、特に預言するための賜物を熱心に求めなさい。異言を語る者は、人に向かってではなく、神に向かって語っています。それはだれにも分かりません。彼は霊によって神秘を語っているのです。しかし、預言する者は、人に向かって語っているので、人を造り上げ、励まし、慰めます。異言を語る者が自分を造り上げるのに対して、預言する者は教会を造り上げます」。
・今日の言葉で言えば、異言は霊的熱狂、預言は説教の言葉である。異言はその人を満たすが、教会を作り上げない。預言は人に神の言葉を伝える。パウロは異言を無視するのではないが、それは教会を形成しないという。
―?コリ14:18-19「私は、あなたがたのだれよりも多くの異言を語れることを、神に感謝します。しかし、私は他の人たちをも教えるために、教会では異言で一万の言葉を語るより、理性によって五つの言葉を語る方をとります」。
・13章の愛についての言説も、その文脈で語られていることを理解する必要がある。ここでは人間的な愛が讃美されているのではなく、異言も預言さえも、愛がなければ虚しいことが語られている。
―?コリ13:1-2「たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい」。
・霊に酔って恍惚状態になって語る言葉は誰も理解できない。それは騒がしいどら、やかましいシンバルと同じだ。人に仕えない言葉に何の意味があるのかとパウロは言う。
―?コリ14:13-17「異言を語る者は、それを解釈できるように祈りなさい。・・・仮にあなたが霊で賛美の祈りを唱えても、教会に来て間もない人は、どうしてあなたの感謝に「アーメン」と言えるでしょうか。あなたが何を言っているのか、彼には分からないからです。あなたが感謝するのは結構ですが、そのことで他の人が造り上げられるわけではありません」。
・聖霊に満たされた言葉は、人に行動を迫る。ペンテコステの日に起きたことは、人々を救うための熱心から、預言が語られたのであり、異言ではない。ペテロの言葉は人々に悔い改めをもたらしたではないか。
―使徒行伝2:37「人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、『兄弟たち、私たちはどうしたらよいのですか』と言った」。
2.愛は教会を造り上げる
・コリントの人々は、分派を形成して争っていた。彼らは、自分たちの知識や信仰を誇り、高ぶっていた。金持ちは自分たちだけで食事をして貧しい人々のことを考えなかった。これは全て愛の欠如によるとパウロは迫る。
―?コリ13:4-7「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」。
・ここにおいて愛とは誰かを愛するという感情的なものではなく、相手に仕えるという信仰の出来事であることがわかる。感情は消えるが、信仰に基づく愛は永続する。終末の時、異言も説教もすたれるが、愛は滅びない。
―?コリ13:8-10「愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、私たちの知識は一部分、預言も一部分だから。完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう」。
・イエスが教えてくれたことは、愛とは他者のために死ぬことだということだ。
―ヨハネ15:12-13「私があなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これが私の掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」。
・霊的賜物を受けて、天上の世界を垣間見たとしても、それは不完全であり、私たちには全てはわからない。それを完全に知っているように話すことは誤りだ。愛がなければ、異言も神学も無益である。
―?コリ13:12-13「私たちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。私は、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である」。