1.霊にある生活への招き
・キリストにある者は、もはや罪と死の法則から解放され、霊と命の法則の下にある。
−ローマ8:1-2「キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです」。
・人間の本性は他者と競って、自分の生存を確保することだ。従って、必然的に争いが生じ、その争いが様々な罪を生んでいた。かつての私たちは罪と死の法則下にあった。
−エペソ2:1-3「あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです。この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました。私たちも皆、こういう者たちの中にいて、以前は肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していたのであり、ほかの人々と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした」。
・しかし、キリストが私のために来て、私のために死んで下さった事により、私たちはこの地獄から解放された。
−ローマ8:3「肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです」。
・肉に従う者は肉に属することを思い、霊に従う者は霊に属することを思う。私たちは戦争を止めることが出来ないが、どのような悲惨の中にも、霊に従う者が起こされている。
−ローマ8:5-11「肉に従って歩む者は、肉に属することを考え、霊に従って歩む者は、霊に属することを考えます。肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります。・・・キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう」。
・私たちはもはや肉の奴隷ではない。だからふさわしく生きる。それは禁欲の生活ではない。性は汚らしいものではなく、命を継承するための神の祝福だ。貪りをやめ、本来の物としていただくことが霊に生きることだ。キリストが処女から生まれられたのは性による罪を避けるためではなく、出生に悩む者たちを憐れむためだ。
−ローマ8:12-13「私たちには一つの義務がありますが、それは、肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務ではありません。肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます」。
2.希望の中に生きる
・霊に生かされる生活は、この世的には十字架を負って生きることだ。神の救いは始まったが完成していない。
−ローマ8:22-23「被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、私たちは知っています。被造物だけでなく、“霊”の初穂をいただいている私たちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます」。
・神の国がまだ来ていないこと、しかし必ず来ることを私たちは知っている。私たちに与えられる苦しみは生みの苦しみだ。この希望の中に私たちはある。
−ローマ8:24-25「私たちは、このような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。私たちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです」。
・神は私たちの味方だとパウロは言う。これを知るとき、何があっても、私たちはくじけない。神共にいましたもう。それで十分だ。
−ローマ8:31-35「もし神が私たちの味方であるならば、誰が私たちに敵対できますか。私たちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものを私たちに賜らないはずがありましょうか。誰が神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。 誰が私たちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、私たちのために執り成してくださるのです。誰がキリストの愛から私たちを引き離すことができましょう」。
・この地上で理解されず、人々から捨てられ、一人にされても良いではないか。神は共にいて下さり、私たちを知っておられるのだから。
−イザヤ49:4「私は思った。私はいたずらに骨折り、うつろに、空しく、力を使い果たした、と。しかし、私を裁いてくださるのは主であり、働きに報いてくださるのも私の神である」。