1.天の国で一番偉いもの(18:1‐5)
・弟子たちはしばしば「弟子の中で誰が一番偉いか」を問題にした。その発言がマタイ18章1節である。
―マタイ18:1「弟子たちがイエスのもとにきて言った『一体、天国ではだれがいちばん偉いのですか』」。
・最期の晩餐の席上でさえ、弟子たちは誰が偉いかを論じている。教会の中で「誰が一番偉いのか」をめぐって争いがあったことを反映しているのであろう。
―ルカ22:24「自分たちの中で誰が一番偉いだろうかと言って、争論が彼らの間に、起った。そこでイエスが言われた・・・あなたがたの中で一番偉い人は一番若い者のように、指導する人は仕える者のようになるべきである。」
・弟子たちは偉い人の基準を求めた。イエスは幼な子のようになる者こそ天国で一番偉いと言われた。
―マタイ18:2-4「よく聞きなさい。心をいれかえて幼な子のようにならなければ、天国にはいることはできないであろう。この幼な子のように自分を低くする者が、天国でいちばん偉いのである。」
・弟子たちは子供を無力な、無価値のものとしていた。それに対しイエスは、子供は自分が無力であることを知るから親の保護を求める。あなたたちも自分を低くして父なる神を求める時、天国を受け継ぐのだと言われる。
―マタイ19:13-14「イエスに手をおいて祈っていただくために、人々が幼な子らをみもとに連れてきた。ところが、弟子たちは彼らをたしなめた。するとイエスは言われた『幼な子らをそのままにしておきなさい。私のところに来るのをとめてはならない。天国はこのような者の国である』」。
・人間は神の目から見れば誰でも子供のようなものだ。私たちは神から赦されなければどうすることも出来ない存在なのだ。礼拝共同体である教会が人間を見始めた時に、人間共同体になって行く。
2.人をつまずかせるもの(18:6‐9)
・6節から子供(年齢的の小さい者)を巡る議論が、小さい者(信仰的に未熟な者)を巡る議論に展開していく。
―マタイ18:6-7「私を信ずるこれらの小さい者の一人をつまずかせる者は、大きなひきうすを首にかけられて海の深みに沈められる方が、その人の益になる。この世は、罪の誘惑があるから、わざわいである。罪の誘惑は必ず来る。しかし、それをきたらせる人は、わざわいである。」
・教会の中に教える者と教えられる者、尊敬される者と軽視される者、強い信徒と弱い信徒が出来、この教会の現実が新しく加入してきた者をつまずかせる。その時どうするのか、大きな課題である。
―?ヨハネ1:9-10「私は少しばかり教会に書き送っておいたが、みんなの頭になりたがっているデオテレペスが、私たちを受けいれてくれない。私がそちらへ行った時、彼のしわざを指摘しようと思う。彼は口ぎたなく私たちをののしり、兄弟たちを受けいれようともせず、受けいれようとする人たちを妨げて、教会から追い出している。」
・マタイは兄弟姉妹をつまずかせるのであれば、その人たちを教会から切りなさいとさえ勧めている。
―マタイ18:8-9「もしあなたの片手または片足が、罪を犯させるなら、それを切って捨てなさい。・・・もしあなたの片目が罪を犯させるなら、それを抜き出して捨てなさい。」
3.迷い出た羊の例え(18:10‐14)
・18章全体が教会の働きについての言説である。迷い出た羊=教会から離れて行った者を捜し求めていくのが教会の指導者の役割だとイエスは言われる。
―マタイ18:10-12「あなたがたは、これらの小さい者の一人をも軽んじないように、気をつけなさい。あなたがたに言うが、彼らの御使たちは天にあって、天にいます私の父のみ顔をいつも仰いでいるのである。〔人の子は、滅びる者を救うためにきたのである。〕あなたがたはどう思うか。ある人に百匹の羊があり、その中の一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、その迷い出ている羊を捜しに出かけないであろうか。」
・教会は、世とは違う価値基準に立つ。能率を追い、業績を求める世においては、一匹の羊のために九十九匹を危険に置くことは許されないだろう。しかし、教会においては違う。教会はこの一人が大切だと考えるところだ。
―マタイ18:13-14「もしそれを見つけたなら・・・迷わないでいる九十九匹のためよりもむしろその一匹のために喜ぶであろう。これらの小さい者の一人が滅びることは、天にいますあなたがたの父の御心ではない。」
・教会が教会員の数の増加や受洗者数を追い求めるようになった時、教会では無くなる。教会は問題を抱えて助けを求めている人のために全力を尽くせ、それが教会だとここで言われている。