1.会堂司の娘のいやし
・会堂司がイエスの前にひれ伏し、娘のいやしを求めた。死を前にすれば地位も資格も身分も無力である。
―マタイ9:18「これらのことを彼らに話しておられると、そこに一人の会堂司がきて、イエスを拝して言った、「私の娘がただ今死にました。おいでになって手をその上においてやって下さい。娘は生き返るでしょう」。
・イエスは「娘は眠っているだけだ」と言われ、娘を死より回復させられた。信仰者にとって死は眠りである。
―?コリント15:51-52「ここで、あなたがたに奥義を告げよう。私達すべては、眠り続けるのではない。終りのラッパの響きと共に、またたく間に、一瞬にして変えられる。というのは、ラッパが響いて、死人は朽ちない者によみがえらされ、私達は変えられるのである。」
2.長血を患う女のいやし
・長血を患う女がいやしを求めてイエスに触れた。血は汚れであり、女は長い間苦しんでいた。
―マルコ5:26「多くの医者にかかって、さんざん苦しめられ、その持ち物をみな費してしまったが、なんのかいもないばかりか、かえってますます悪くなる一方であった。」
・イエスは身体をいやされただけでなく、女を救われた。求めるべきものは「いやし」ではなく「救い」である。
―マタイ9:22「イエスは振り向いて、この女を見て言われた、『娘よ、しっかりしなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです』。するとこの女はその時に、いやされた。」
3.盲人のいやしと口の利けない人のいやし
・盲人が「ダビデの子よ、憐れみたまえ」とイエスの救いを求めてきた。ユダヤの伝統ではメシヤ(ダビデの子)は救国者であるが、マタイではイエスが「ダビデの子」と呼ばれるのは、病人をいやす時である。
―イザヤ35:3-6「神は来て、あなたがたを救われる。その時、見えない人の目は開かれ、聞えない人の耳は聞えるようになる。その時、足の不自由な人は、しかのように飛び走り、口のきけない人の舌は喜び歌う。それは荒野に水がわきいで、さばくに川が流れるからである。」
・イエスはいやしを言い広めてはいけないと言われる(9:30)。いやしが目的化するとき、信仰が呪術になる。
―ダニエル3:17-18「神は、その火の燃える炉から、私達を救い出すことができます。・・・たといそうでなくても、王よ、ご承知ください。私達はあなたの神々に仕えず、またあなたの立てた金の像を拝みません」。
4.飼う者のない羊のような群衆を憐れまれる。
・イエスが人々をいやし、憐れまれたのは、民衆が飼う者のない羊のように弱っていたからである(9:36)。
―エゼキエル34:4-23「あなたがたは弱った者を強くせず、病んでいる者をいやさず、傷ついた者をつつまず、迷い出た者を引き返らせず、うせた者を尋ねず、彼らを手荒く、きびしく治めている。彼らは牧者がないために散り、野のもろもろの獣のえじきになる。」
・今日においても情況は同じである。人々は一人で生きていけると思っているが、実は不自由であることが解った時、人は主を求め始める。
―黙示録3:17「あなたは、自分は富んでいる。豊かになった、なんの不自由もないと言っているが、実は、あなた自身がみじめな者、あわれむべき者、貧しい者、目の見えない者、裸な者であることに気がついていない。」
・苦しみが多い時ほど収穫は多い。今日は福音の収穫の時、多くのものが解放される出来事が起こる時である。
―マタイ11:4-5「行って、あなたがたが見聞きしていることをヨハネに報告しなさい。盲人は見え、足なえは歩き、らい病人はきよまり、耳しいは聞え、死人は生きかえり、貧しい人々は福音を聞かされている。」
・聖書の時代は食べることが問題であり「餓えている人に食べさせ、渇いている人に飲ませ、宿のない人に宿を提供する」ことが福音だった。今日の日本においては飢餓や貧困の問題は概ね解決され、問題は「愛情に餓え、同情に渇き、人間関係の不安に震える」人々であり、必要なものは「いやし」ではなく「救い」、「呪術」ではなく「信仰」である。
―ヨハネ5:24「私の言葉を聞いて、私を遣わされたかたを信じる者は、永遠の命を受け、またさばかれることがなく、死から命に移っているのである。」