江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2016年3月17日祈祷会(創世記32章、神と格闘するヤコブ)

投稿日:2019年8月21日 更新日:

1.兄エソウを恐れるヤコブ

・ヤコブはラバンの家での20年間の労働奉仕を終え、帰郷する。神は彼の帰郷を励まされた。冨を築き成功したヤコブの帰郷は、「故郷に錦を飾る」ことになるはずだった。しかし、ヤコブにその喜びはない。彼はかつて自分がだました兄の復讐を恐れている。そのヤコブはマハナイム(二組の陣営の意味)で神のみ使いたちに出会った。
―創世記32:2-3「ヤコブが旅を続けていると、突然、神の御使いたちが現れた。ヤコブは彼らを見た時、『ここは神の陣営だ』と言い、その場所をマハナイム(二組の陣営)と名付けた。」
・ヤコブは兄エソウの様子を探らせる為に使者を派遣し、エソウが400人を連れてこちらに向かっている事を知り、恐怖に包まれる。
―創世記32:4-7「ヤコブは、あらかじめ、セイル地方、すなわちエドムの野にいる兄エサウのもとに使いの者を遣わすことにし、お前たちは私の主人エサウにこう言いなさいと命じた『あなたの僕ヤコブはこう申しております。私はラバンのもとに滞在し今日に至りましたが、牛、ろば、羊、男女の奴隷を所有するようになりました。そこで、使いの者を御主人様のもとに送って御報告し、御機嫌をお伺いいたします』。使いの者はヤコブの所に帰って来て『兄上のエサウ様の所へ行って参りました。兄上様の方でも、あなたを迎えるため、四百人のお供を連れてこちらへおいでになる途中でございます』と報告した」。
・ヤコブはエソウを恐れ、襲われても家族の群れのどちらかが助かるように、群れを二つに分ける。マハナイム(二組の陣営)はその故事から生まれた地名であろう。
−創世記32:8-9「ヤコブは非常に恐れ、思い悩んだ末、連れている人々を、羊、牛、らくだなどと共に二組に分けた。エサウがやって来て、一方の組に攻撃を仕掛けても、残りの組は助かると思ったのである」。
・ヤコブは恐怖の中で主の助けを祈り求めた。
―創世記32:10-13「ヤコブは祈った『私の父アブラハムの神、私の父イサクの神、主よ、あなたは私にこう言われました“あなたは生まれ故郷に帰りなさい。私はあなたに幸いを与える”と。私は、あなたが僕に示して下さったすべての慈しみとまことを受けるに足りない者です。かつて私は、一本の杖を頼りにこのヨルダン川を渡りましたが、今は二組の陣営を持つまでになりました。どうか、兄エサウの手から救って下さい。私は兄が恐ろしいのです。兄は攻めて来て、私をはじめ母も子供も殺すかもしれません。あなたは、かつてこう言われました。“私は必ずあなたに幸いを与え、あなたの子孫を海辺の砂のように数えきれないほど多くする”と」。
・祈りによってヤコブは変えられていく。彼は群れの最良のものをエソウへの贈り物として分けた。ヤコブは約束の地に入る為にその財産の最良のものを捧げる覚悟をした。
―創世記32:14-16「その夜、ヤコブはそこに野宿して、自分の持ち物の中から兄エサウへの贈り物を選んだ。それは、雌山羊二百匹、雄山羊二十匹、雌羊二百匹、雄羊二十匹、乳らくだ三十頭とその子供、雌牛四十頭、雄牛十頭、雌ろば二十頭、雄ろば十頭であった』」。
・ヤコブはイサクとリベカの間に生まれた双子の次男だった。彼は抜け目がなく、兄エサウの空腹につけこんで、一皿の煮物と引き換えに長子権を手に入れ(25:34)、父イサクから、兄が受けるはずの祝福を騙し取った(27:18−29)。祝福を奪い取られたエソウは怒り、ヤコブを殺すと脅し、ヤコブは母の手引きで、母の生まれ故郷ハランへ逃げた。ハランを出る時も、伯父一族の追跡を受け、途中で和解している。今ヤコブは兄エサウとの再会を恐れている。人は自分の行った行為の報いを自分で刈り取る必要がある。
−ガラテヤ6:7-8「神は、人から侮られることはありません。人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです。自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、霊に蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取ります」。

2.神の使いと格闘するヤコブ

・ヤコブは家族と群れをヤボクで渡らせた後、一人残る。夜の闇の中で、彼がエソウに行った数々の悪事の記憶が甦り、エソウに殺されるかもしれないという恐怖に怯える。その時、神の使いが彼を襲った。
―創世記32:23-25「その夜、ヤコブは起きて、二人の妻と二人の側女、それに十一人の子供を連れてヤボクの渡しを渡った。皆を導いて川を渡らせ、持ち物も渡してしまうと、ヤコブは独り後に残った。そのとき、何者かが夜明けまでヤコブと格闘した」。
・ヤコブがここで経験したものは祈りの格闘であった。ヤコブの祈りに神が答えられ、自分の智恵と力に頼るヤコブの腿のつがいを外して、ヤコブを無力な者にされた。
―創世記32:26「ところが、その人はヤコブに勝てないとみて、ヤコブの腿の関節を打ったので、格闘をしているうちに腿の関節がはずれた」。
・ヤコブはあくまでも神の祝福を求め、神はそれに答えて、ヤコブに名を変えるように言われた。ヤコブ=かかとをつかみ、押しのける者が、イスラエル=神と戦って勝つ者に変えられていく。兄を押しのけ、叔父を押しのけて、ヤコブは富を築いたが、心の中には不安と恐れがあった。彼は神と格闘することによって弱くされ、自分ではなく神に頼るものとされた。
―創世記32:27-30「『もう去らせてくれ。夜が明けてしまうから』とその人は言ったが、ヤコブは答えた『いいえ、祝福してくださるまでは離しません』。『お前の名は何というのか』とその人が尋ね、『ヤコブです』と答えると、その人は言った『お前の名はもうヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる。お前は神と人と闘って勝ったからだ』。『どうか、あなたのお名前を教えてください』とヤコブが尋ねると、『どうして、私の名を尋ねるのか』と言って、ヤコブをその場で祝福した」。
・ヤコブはその場所をペヌエルと名付ける。神と顔(ペヌエル)を合わせた場所だからである。
−創世記32:31「ヤコブは『私は顔と顔とを合わせて神を見たのに、なお生きている』と言って、その場所をペヌエル(神の顔)と名付けた」。
・神は恐れまどうヤコブを励まされた。多くの人が苦難の中で神に祈り、応答を受けている。
−詩編34:5-9「私は主に求め、主は答えてくださった。脅かす者から常に救い出して下さった。主を仰ぎ見る人は光と輝き、辱めに顔を伏せることはない。この貧しい人が呼び求める声を主は聞き、苦難から常に救って下さった。主の使いはその周りに陣を敷き、主を畏れる人を守り助けて下さった。味わい、見よ、主の恵み深さを。いかに幸いなことか、御もとに身を寄せる人は」。

3.物語の意味するもの

・この「ヤボクの渡し」での格闘は何を意味しているのだろうか。おそらくヤコブは「夢の中で神と格闘した」。前に夢の中で「天からの梯子」を見た時のように、である。彼は人間と格闘するように神と格闘をした、その生々しい出会いの伝承を創世記記者は物語化している。ヤコブは兄エソウとの再会を前にして不安におびえていた。兄は報復するに違いない、自分だけでなく、妻や子供たちも殺されるかもしれない。何とかしてこの危機を乗り越えなければいけない、その潜在意識がヤコブにこの夢を見させ、ヤコブの帰郷を阻む何者かと格闘した。格闘するうちに、その方が神であることがわかり、その神と対等に戦えたことで、ヤコブは一つの安心を与えられた。エソウとの再会を前に、不安を募らせるヤコブを励まし、自信を持たせるために神が現れて下さった、ヤコブはそう信じた。自己に無力にされた後のヤコブは、もうエソウを恐れない。彼は群れの先頭に立ってエソウと対面していく。
―創世記33:1-3「ヤコブが目を上げると、エサウが四百人の者を引き連れて来るのが見えた。ヤコブは子供たちをそれぞれ、レアとラケルと二人の側女とに分け、側女とその子供たちを前に、レアとその子供たちをその後に、ラケルとヨセフを最後に置いた。ヤコブはそれから、先頭に進み出た」。
・エソウは走ってきてヤコブを抱きしめ、口づけする。もはやエソウにはヤコブに対する恨みはなかった。
−創世記33:4「エサウは走って来てヤコブを迎え、抱き締め、首を抱えて口づけし、共に泣いた」。
・イエスが放蕩息子の喩えを語られた時、おそらく、このエソウとヤコブの再会を念頭に置かれていたのではないかと思われる。なぜならばそっくりの物語がそこにあるからだ。
-ルカ15:20「そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した」。
・神の無条件の赦しがここにある。ヤコブはエソウの中に神の姿を見ている。彼は告白する。
−創世記33:10「兄上のお顔は、私には神の御顔のように見えます。この私を温かく迎えて下さったのですから」。
・ヤコブは無我夢中で神を求め、祝福を請い願い、与えられた。この赦しをいただいた者はもう以前のような生き方は出来ない。これ以降のヤコブは、「イスラエル」、神が共に戦う者、神の器となっていく。
―ヘブル5:7「キリストは、肉において生きておられた時、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました」。

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