1. 神を亡くした人々の無倫理
・ミカ6章はアッシリア戦役(前705-701年)にかろうじて勝利したが(列王下19:35-37)、戦乱の中で疲弊した国土で行われた様々の不正を告発する神の法廷を描く。ユダヤはアッシリアとの戦いでは全土が戦火にさらされ、耕地は荒廃し、復興は進まない。その中で多くの不正が横行し、神は預言者を通じて、イスラエルを告発される。
−ミカ6:1-3「聞け、主の言われることを。立って、告発せよ、山々の前で。峰々にお前の声を聞かせよ。聞け、山々よ、主の告発を。とこしえの地の基よ。主は御自分の民を告発し、イスラエルと争われる『わが民よ。私はお前に何をしたというのか。何をもってお前を疲れさせたのか。私に答えよ』」。
・神はかつて人々をエジプトから救い出し、このたびはアッシリアから救い出した。それなのに民は感謝して、ふさわしい生活をしようとはしない。それは何故かと告発される。
-ミカ6:4-5「私はお前をエジプトの国から導き上り、奴隷の家から贖った。また、モーセとアロンとミリアムをお前の前に遣わした。わが民よ、思い起こすがよい。モアブの王バラクが何をたくらみ、ベオルの子バラムがそれに何と答えたかを。シティムからギルガルまでのことを思い起こし、主の恵みの御業をわきまえるがよい」。
・有力者たちは主の前に犠牲の動物を捧げ、油や収穫物を捧げて、罪の赦しを嘆願するが、彼らは一方で貧しい人々を搾取し、贅沢な暮らしをしている。ミカは彼らを告発する「捧げるべきは信仰者の生き様ではないのか。正義を行い、慈しみを愛し、神の前にへりくだること、それこそ本当の捧げものではないのか」と。
-ミカ6:6-8「何をもって、私は主の御前に出で、いと高き神にぬかずくべきか。焼き尽くす献げ物として、当歳の子牛をもって御前に出るべきか。主は喜ばれるだろうか、幾千の雄羊、幾万の油の流れを。わが咎を償うために長子を、自分の罪のために胎の実をささげるべきか。人よ、何が善であり、主が何をお前に求めておられるかは、お前に告げられている。正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩むこと、これである」。
・現代の中国では国土開発のために、年間2万件の農地の強制収用が行われ、僅かな補償金で土地を追われた農民たちが都市に流入し、貧困の再生産が行われている。そこには「正義を行い、慈しみを愛す」政治はない。何故ならば「へりくだって神と共に歩むこと」をやめた時、倫理は崩壊するからだ。
-近藤剛・神の探求「現代人は神の秩序の束縛に息苦しさを感じ、それからの解放を願って、神を放逐した。しかし、その結果生まれたのは何だったのか。神の名において守られてきたものが見失われ、価値の根幹が揺るがされた。神の存在に根差した道徳心、倫理観、規範意識は廃れた。人間の自由は恣意と化した。人間同士が取り決めた法律は遵守しても、心の法は蔑ろにされた。合法ならばすべてが許されるとうそぶいた。人間から良心が棄て去られたら、そこに出現するのは「人間は人間に対して狼である」という原初状態しかない」。
2. 正義と公正と憐れみと
・「へりくだって神と共に歩むことをやめる」、自分を超えた超越者を認めない時、人は倫理を忘れる。その時、人は升を小さくして売却する小麦の量をごまかし、錘を重くして受け取る銀の量をごまかす。神の目がない時、悪の制止は聞かない。現代日本でも外国産牛肉を国産と偽り、ブランド品を偽装販売する悪徳業者は絶えない。
-ミカ6:10-12「まだ、私は忍ばねばならないのか。神に逆らう者の家、不正に蓄えた富、呪われた、容量の足りない升を。私は認めえようか、不正な天秤、偽りの重り石の袋を。都の金持ちは不法で満ち、住民は偽りを語る。彼らの口には欺く舌がある」。
・倫理の喪失は、貸付金の返済ができない債務者の農地を強制的に取り上げる行為にもつながる。この世の経済慣行では許されても、神の国では許されない。何故ならば、土地を取り上げられた農民は生きていけないからだ。何よりも、全ての土地は神から貸与されたもの(嗣業)であることがここでは忘れられている。
-ミカ2:2「彼らは貪欲に畑を奪い、家々を取り上げる。住人から家を、人々から嗣業を強奪する」。
・ユダはその悪徳故に滅んだ北イスラエル(オムリ、アハブは北イスラエルの王たち、前721年にアッシリアに滅ぼされる)と同じ罪を犯した。彼らはその報いとして疫病と旱魃、外国軍の侵入と支配を受けるであろうとミカは預言する。
-ミカ6:13-16「私もお前を撃って病気にかからせ、罪のゆえに滅ぼす。お前は食べても飽くことなく、空腹が取りつく。持ち物を運び出してもそれを救いえず、救い出しても私はそれを剣に渡す。お前は種を蒔いても刈り入れることなく、オリーブの実を踏んでもその油を身に塗ることはない。新しいぶどうを搾ってもその酒を飲むことはない。お前はオムリの定めたこと、アハブの家のすべてのならわしを保ち、そのたくらみに従って歩んだ。そのため、私はお前を荒れるにまかせ、都の住民を嘲りの的とした。お前たちはわが民の恥を負わねばならぬ」。
*ミカ6章参考資料1:ミカ書の時代背景(History of Israel : Ch.7南ユダの歴史から)
・アッシリアの王サルゴンが前705年に死んだ時、帝国内では至る所で反乱が頻発するようになった。バビロニアは、メロダク・バラダンのもとで独立を遂げた。これによってサルゴンの後継者セナケリブは、東方の支配を固めなければならなかった。このような状況の中で、ヒゼキヤ王はアッシリアへの貢を中止し、隷属関係を破棄した。そしてアハズがエルサレムに導入することを強いられたアッシリアの国家祭儀も排除した。このために彼は列王記の記者によって評価されている(列王下18・5)。
・ヒゼキヤはバビロニア、エジプトと関係を結び、南パレスチナ諸国による反アッシリア連合の盟主となった。この同盟には、ペリシテ人の都市国家アシケロンやエクロンも参加していた。ヒゼキヤはまた、エルサレムの町の防備を強化することに力を入れた。アッシリアは、しばらくの混乱の後、前701年には、セナケリブが支配を安定させ、反乱していたシリア・パレスチナの鎮圧を開始した。セナケリブはまず、フェニキアの都市国家を攻撃し、そこから南に転じて、アシドド、モアブ、アンモンなどを次々と屈服させた。彼はさらに、同盟軍を支援するために北上してきたエジプト軍をエルテケで撃破した。その後ユダの国に侵入し、46の町を征服した。その後彼は、エルサレムを包囲した。
・エルサレムは絶体絶命の危機に陥ったが、かろうじてこの危機を免れた。絶体絶命にあったエルサレムがとにかく滅びを免れたことは事実であり、これによって、エルサレムは不滅であるという迷信的な信仰が広がった。これ以後ユダは、再びアッシリアの属国となり、ヒゼキヤの後継者マナセ(前687−642)とアモン(642−640)は、ヒゼキヤが前705年の反乱で排除したアッシリアの国家祭儀を再びエルサレムに導入せねばならなかった。これと同時に、カナンの豊饒祭儀や天体神の崇拝がエルサレムでも行われるようになった。そのため両者は、列王紀の著者より非難されている(列王下21・2,20)。
*ミカ6章参考資料2 シーセル・ロス「ユダヤ人の歴史」
・ヘブライ人の王国の物語は、近隣数か国のそれと大きな違いはない。そこには三千年の時空を隔てたいま研究に値するものなど何一つなく、あるいはいくつかの大帝国がすでに忘却のかなたに消えて久しい今、民族の連続性を保証する縁よすがとてない。もしあのはるか遠い昔のアジア世界に生まれては消えていった弱小国家群の中で、唯一ユダ、サマリアの王国のみが他と同じ運命を免れたとすれば、その理由はただ一つ、ヘブライ人預言者である。
・ナビー、すなわち民衆の道徳意識を代弁する者としての預言者は、すでに早い時期に姿を現わす。モーセ自身がその原型と見なされた。士師の時代には女預言者デボラが一番の国民的英雄と認められていた。まぎれもない道徳力という徳によって、彼もしくは彼女は一部地域で、あるいは国民全体に認知を得ることができた。君主制時代が始まったころから預言者の群れが国民生活にたえず顔を出す。一朝ことある時には同胞たちの気持ちを奮い立たせようと努めた若者たちである。危機に直面した時はいつも『預言者』が現れ、自ら進み出て民衆の怯懦を叱責し、共通の敵に対して人心を鼓舞し、王自身の悪行を厳しく咎め、あるいは身近に迫った危険を阻む方法を助言した。預言者たちは主の大義を説いて敵対する神に抗した。それはしかし同時にヘブライ人の大義を擁護してその敵に抗うことであり、貧しき者の大義を守って圧制者を糾弾することであった。彼らの機能はたしかに宗教的なものではあったが、それは宗教が生活のすべてを包み込んでいて神学の問題にばかりかかずらうものではないという意味においてのみそうだったのである。
・名前が記憶されている預言者たちの『預言』のうち、今に残存するのはごく一部に過ぎないだろう。しかしそれだけでも十分それは人類の生活に、とりわけヘブライ民族の生活に不断に影響を与え続けることができた。それらのわずかに残された預言は、あらゆる民族の、そしてあらゆる国の夢想家や改革者たちがそれを範として、あの日から今日にいたるまで途切れることなく持ち続けてきた正義という理想を、具体的な形で表現している。もしその熱狂的な叫びが聖書の中の『預言の書』に残されている、これら一握りのヘブライ人著述家たちの影響がなかったなら、英国史や、アメリカ史はずいぶんと違ったものになっていた。彼等が吐く言葉の大いなる効果は内に燃えさかる道徳的義憤からのみ生まれてくるばかりではなく、それを綴った無類の文体に起因してもいる―散文と韻文の間を自由に行き交い、絵を見るように鮮やかな直喩に生命を吹き込まれ、時にわき道へそれて抒情詩や哀歌や風刺詩を組み込んでゆくといったその文体に。しかもそれら抒情詩、哀歌、風刺詩はいまなお世界文学の傑作に数えられているのである。