1.創造の神からの懲罰に抗議するヨブ
・9章からヨブの抗議が続く。ヨブは自分が無罪だと信じているのに神の懲罰は続く。ヨブは苦難の中にあるからだけで苦しむのではない。彼の生が神からも人からも拒否され、否定されていることこそ最大の苦しみだ。
-ヨブ記10:1-3「私の魂は生きることをいとう。嘆きに身をゆだね、悩み嘆いて語ろう。神にこう言おう『私に罪があると言わないでください。なぜ私と争われるのかを教えてください。手ずから造られたこの私を虐げ退けて、あなたに背く者のたくらみには光を当てられる。それでいいのでしょうか』」。
・ヨブは言う「あなたは神であるのに、何故人と同じように、些細な罪を厳しく咎め立てをされるのか」と。
-ヨブ記10:4-7「あなたも肉の目を持ち、人間と同じ見方をなさるのですか。人間同様に一生を送り、男の一生に似た歳月を送られるのですか。なぜ私をとがめ立てし、過ちを追及なさるのですか。私が背く者ではないと知りながら、あなたの手から私を救いうる者はないと知りながら」。
・8節から創造しながら被造物を捨てようとされる神に対する抗議が始まる。10節以降の「乳のように注ぎ出し、チーズのように固め」という表現は、古代人の胎児形成観を示す。すなわち、精液が体内で凝固し、枠が造られ、それに骨と肉がつけられるという考え方である。ここには「被造物を殺そうとする神に対する激しい抗議」がある。
-ヨブ記10:8-12「御手をもって私を形づくってくださったのに、あなたは私を取り巻くすべてのものをも、私をも、呑み込んでしまわれる。心に留めてください、土くれとして私を造り、塵に戻されるのだということを。あなたは私を乳のように注ぎ出し、チーズのように固め、骨と筋を編み合わせ、それに皮と肉を着せてくださった。私に命と恵みを約束し、あなたの加護によって、私の霊は保たれていました」。
2.因果応報という教義が人を苦しめる
・ヨブは「神は何故こんなにも私を苦しめるのか」と問う。ヨブの苦しみは彼が「因果応報」を、その基礎にある「義と罪の教義」を信じているからだ。「私は罪を犯していない」とヨブは主張するが、旧約においては「不幸に苛まれ、重病に悩まされている」そのことが「罪あり」の証拠にされた。「罪がないのに苦しめられることがあろうか」、それは友人たちが論じたことであり、ヨブも信じていることだ。ヨブにとって真の敵は、神でも友人でもなく、この因果応報という教義であった。
-ヨブ記10:13-17「あなたの心に隠しておられたことが、今、私に分かりました。もし過ちを犯そうものなら、あなたはその私に目をつけ、悪から清めてはくださらないのです。逆らおうものなら、私は災いを受け、正しくても、頭を上げることはできず、辱めに飽き、苦しみを見ています。私が頭をもたげようものなら、あなたは獅子のように襲いかかり、繰り返し、私を圧倒し、私に対して次々と証人を繰り出し、いよいよ激しく怒り、新たな苦役を私に課せられます」。
・最後にヨブは再び生まれた日を呪う。彼は1日も早く残虐な神の手を離れ、神の支配の及ばない陰府の国に行くことを願う。しかし、そのヨブが最後まで自殺しないことは注目される。神への抗議であれ、呪いであれ、神と繋がっていることがヨブを生かしている。自殺者が減らない日本において、このことは注目すべき事柄だ。
-ヨブ記10:18-22「なぜ、私を母の胎から引き出したのですか。私など、だれの目にも止まらぬうちに、死んでしまえばよかったものを。あたかも存在しなかったかのように、母の胎から墓へと運ばれていればよかったのに。私の人生など何ほどのこともないのです。私から離れ去り、立ち直らせてください。二度と帰って来られない暗黒の死の闇の国に、私が行ってしまう前に。その国の暗さは全くの闇で、死の闇に閉ざされ、秩序はなく、闇がその光となるほどなのだ」。
・「教義が人を不幸にする。人を救うべき宗教が人を苦しめる桎梏に変わりうる」、私たちはこの現実を見つめるべきだ。後期ユダヤ教においては神殿の聖性が日常の場に持ち込まれ、浄・不浄によって罪が定められた。そこでは罪人とは犯罪人のことではなく、神の戒め=律法を守るかどうかで判別された。血は不浄とされ、血を流す女性や血に関わる職業(皮なめし、食肉業)は不浄とされ、人や動物の流失物に触れる職業(羊飼いやろば飼い)も罪人とされ、汚れた外国人と交わる職業(徴税人、娼婦)も排斥された。イエスが人は外部からのものによっては汚されないと言われ(マルコ7:15)、「罪人を招くために来た」と言われた。これ正にタブーへの挑戦、福音であった。
-マルコ2:17「私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」。
・イエスは「神のほかに良い者はいない」(マルコ10:18)として、義人と罪人の区別を廃された。しかし、イエスの後継者は「信じる者は義とされる」として、信仰の有無を救済の条件とした。ここに新たな義人(信じる者)と罪人(信じない者)の差別構造が出来上がっていく。「信じなければいけない」時、福音は福音ではなくなる。
-?コリント1:18「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、私たち救われる者には神の力です」。