1.悔い改めない民への嘆き
・ヨシヤ王死後、イスラエルの人々は戦争が近づいたことを悟り、エルサレム神殿に行き、国の安泰を祈る。しかしエレミヤは「お前たちが悔い改めない限り、主の神殿、主の神殿と叫んでも何にもならない。主自らが神殿を破壊される」と預言した。祭司たちは怒り、エレミヤを死刑にしようとする。エレミヤは支持者の助命で救われるが、彼は倦むことなく預言を続ける。その預言が8−10章にある。彼は言う「人は倒れても起き上がり、道を迷ってもまた帰ってくる。それなのに、このかたくなな民は帰ろうとはしない」。
-エレミヤ8:4-5「倒れて、起き上がらない者があろうか。離れて、立ち帰らない者があろうか。どうして、この民エルサレムは背く者となり、いつまでも背いているのか。偽りに固執して、立ち帰ることを拒む」。
・「自分たちは罪を犯した。自分たちは滅びるしかない」と自覚し、嘆き求めるならば、主は憐れんで下さるだろう。しかしイスラエルの民は罪の自覚がない。自分たちの置かれている場が彼らには見えない。
-エレミヤ8:6-7「自分の悪を悔いる者もなく、私は何ということをしたのかと言う者もない。馬が戦場に突進するように、それぞれ自分の道を去って行く。空を飛ぶこうのとりもその季節を知っている。山鳩もつばめも鶴も、渡るときを守る。しかし、わが民は主の定めを知ろうとしない」。
・「馬が戦場に突進するように、それぞれ自分の道を去って行く」、人が罪を認めるのは、自分の足場が崩され、どうしようもなくなった時だ。破滅までいかないと彼は罪がわからない。自然のままの人間には悔い改めは不可能なのだ。だから神が行為され、彼を打ち、彼を死の淵まで連れて行かれる。
-エレミヤ8:14-15「集まって、城塞に逃れ、黙ってそこにいよう。我々の神、主が我々を黙らせ、毒の水を飲ませられる。我々が主に罪を犯したからだ。平和を望んでも、幸いはなく、癒しのときを望んでも、見よ恐怖のみ」。
・河野進は歌う「病まなければ捧げえない祈りがある」。これは真実の叫びだ。人は苦難をとおして神に出会う。
−河野進詩集から「病まなければ、ささげ得ない祈りがある。病まなければ信じ得ない奇跡がある。病まなければ、聴き得ない御言がある。・・・おお病まなければ、私は人間でさえもあり得なかった」。
2.民の悲しみがわが悲しみとなる
・その民の状況を知りながら、神殿書記たちは、律法の偽りの解釈で、民や自分たちの行為を正当化し、平和がないのに「平和、平和」と呼ぶ。このような偽預言者たちは捕らえられ、断罪されるとエレミヤは告発する。
-エレミヤ8:8-9「どうしてお前たちは言えようか『我々は賢者といわれる者で、主の律法を持っている』と。まことに見よ、書記が偽る筆をもって書き、それを偽りとした。賢者は恥を受け、打ちのめされ、捕らえられる。見よ、主の言葉を侮っていながら、どんな知恵を持っているというのか」。
・この告発はイエスの律法学者批判と同じだ。神の戒め=律法を知りながら、彼らはそれを行おうとはしない。
-マタイ23:1-4「律法学者たち・・・は、モーセの座に着いている。だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである。彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない』」。
・エレミヤは民を告発し、破滅を預言しながら、共に泣く。民の嘆きの声は預言者の嘆きの声となる。
-エレミヤ8:18-23「私の嘆きはつのり、私の心は弱り果てる・・・刈り入れの時は過ぎ、夏は終わった。しかし、我々は救われなかった。娘なるわが民の破滅のゆえに、私は打ち砕かれ、嘆き、恐怖に襲われる・・・私の頭が大水の源となり、私の目が涙の源となればよいのに。昼も夜も私は泣こう、娘なるわが民の倒れた者のために」。
・預言者は告発し、悔い改めを求め、裁く。それでも民が悔い改めない時、真の預言者は自らを神の前に犠牲として差し出す。エレミヤもイエスと同じように、民の赦しを求めて、自らを差し出していく。
-マタイ12:15-20「イエスは皆の病気をいやして・・・言いふらさないようにと戒められた。それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった『見よ、私の選んだ僕。私の心に適った愛する者・・・彼は争わず、叫ばず、その声を聞く者は大通りにはいない。彼は傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さない』」。
・共観福音書には115の癒しの記事がある。イエスが癒されたのは、多くの場合、当時の社会において罪人、穢れた者とされていた人々だった。らい病者に触れることは禁止されていたのに、イエスは「深く憐れみ」、「手を差し伸べてその人に触れ」、「清くなれ」と宣言し、癒される(マルコ1:40-45)。また一人息子の死を悲しむ母親を「憐れに思い」、死者に触れることを禁止されていたのに、「棺に手を触れ」、彼を生き返らせる(ルカ7:11-17)。「癒し」の行為は、禁止されていた安息日にも行われた(マルコ3:1-6)。イエスは自らが痛む(社会的制裁を受ける)ことにより、病む者たちの痛みを共有されたのだ。救いは救済者の痛みを伴うのだ。