1.滅びこそ祝福の始まり
・イザヤ4:2以下の言葉は、イザヤ2:2-3に続く言葉と見られる。終末の日には、諸国の民がエルサレム神殿を目指して、シオンの丘を登ってくる。それは今の現実ではない。今、イスラエルも諸国も神に頼らず自己の武力に頼っている。イスラエルの現実に何の希望も見えない。その中で終末の日の希望をイザヤは歌う。
-イザヤ2:2-3「終わりの日に、主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち、どの峰よりも高くそびえる。国々はこぞって大河のようにそこに向かい、多くの民が来て言う『主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主は私たちに道を示される。私たちはその道を歩もう』と。主の教えはシオンから、御言葉はエルサレムから出る」。
・その日が来るためには、イスラエルは撃たれねばならない。人は砕かれないと、罪を悔い改めないからだ。
-イザヤ4:2「その日には、イスラエルの生き残った者にとって主の若枝は麗しさとなり、栄光となる。この地の結んだ実は誇りとなり、輝きとなる」。
・日本は1945年に戦争に負けた。平和憲法が公布され、砲弾にするために兵器工場に集められた鉄が鋳られ、釜や鍬が作られた。戦争に負けたからこそ、日本人はイザヤの預言を理解できた。
-イザヤ2:4「主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない」。
・滅びこそ祝福の始まりである。若者は戦場で死に、老人や女や子どもだけが残された。しかし、イスラエルの残った者は聖なる民と呼ばれる。彼らから新しい命が生まれていく。
-イザヤ4:3-4「そしてシオンの残りの者、エルサレムの残された者は、聖なる者と呼ばれる。彼らはすべて、エルサレムで命を得る者として書き記されている。主は必ず、裁きの霊と焼き尽くす霊をもってシオンの娘たちの汚れを洗い、エルサレムの血をその中からすすぎ清めてくださる」。
・今日の教会に集う者も、老人と婦人と子どもだけだ。壮年男子は企業集団という戦場で戦い、青年は予備軍として学校の場で生存競争を繰り広げる。しかし、ここから主は新しい命を起こされる。だから教会に失望しない。
-イザヤ11:1-3「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで、その根からひとつの若枝が育ち、その上に主の霊がとどまる。知恵と識別の霊、思慮と勇気の霊、主を知り、畏れ敬う霊。彼は主を畏れ敬う霊に満たされる」。
2.神の異なる業
・出エジプトの荒野の中で民を守られた主は、再び民のために働かれるとイザヤは預言する。
−イザヤ4:5「主は、昼のためには雲、夜のためには煙と燃えて輝く火を造って、シオンの山の全域とそこで行われる集会を覆われる。それはそのすべてを覆う栄光に満ちた天蓋となる」。
−出エジプト記13:21「主は彼らに先立って進み、昼は雲の柱をもって導き、夜は火の柱をもって彼らを照らされたので、彼らは昼も夜も行進することができた」
・イザヤが体験した神は「隠されたる神」であった。神はイザヤを預言者として立たされたが、その目的は民の心をかたくなにすることであった。
−イザヤ6:9-10「主は言われた『行け、この民に言うがよい。よく聞け、しかし理解するな。よく見よ、しかし悟るな、と。この民の心をかたくなにし、耳を鈍く、目を暗くせよ。目で見ることなく、耳で聞くことなく、その心で理解することなく、悔い改めていやされることのないために』」。
・何故民の心をかたくなにされるのか。救うためにまず滅ぼす。神は民を愛される故にまず懲らしめられる。
−イザヤ28:21「主はペラジム山で立たれたように立ちあがり、ギベオンの谷で憤られたように憤られて、その行いをなされる。その行いは類のないものである。またその業をなされる。その業は異なったものである」(口語訳)。
・異なった業、これこそがルターが苦闘の結果見出した神の業であった。失うことなしに人は神に出会えない。十字架を経なければ復活の喜びはない。復活を喜ぶためには、まず十字架の絶望が必要なのだ。
−ルター・ローマ書講解「神はその力を示すためにパウロを立たせたもうた。なぜなら、神はその選びたもうたものに、あらかじめ彼らの無力を示し、彼らの力をかくして全く無に返せしめ、そのことによって、彼らが自己本来の力を誇ることのないようにせずには、み力を彼らにあらわし得たまわぬからである。」
・イザヤの言葉を民は聞かず、王も聞かず、イザヤは失意のうちに死んでいった。預言者の生涯はこの世的には報われない。しかし、イザヤの言葉は残り、後世の人々のために記録された。それで十分なのだ。
−イザヤ8:16-17「私は弟子たちと共に、証しの書を守り、教えを封じておこう。私は主を待ち望む。主は御顔をヤコブの家に隠しておられるが、なお私は、彼に望みをかける」。