1.災いの続出
・最初になされた業はナイル川の水を血に変えることであった。これによって、すべての魚は死に、水は飲めなくなったが、エジプトの魔術師も同じことができた(7:20−22)。次の災いは蛙の大量出現である。エジプトの魔術師も同じことができたが、彼らは災いを取り去ることができなかったので、ファラオの心は軟化した。
―出エジプト記8:4「ファラオはモーセとアロンを呼んで『主に祈願して、蛙がわたしとわたしの民のもとから退くようにしてもらいたい。そうすれば、民を去らせ、主に犠牲をささげさせよう』と言った。」
・そのため、モーセは主に願い、蛙はすべて死に絶えた。
―出エジプト記8:8-10「モーセはファラオを悩ました蛙のことで主に訴えた。主はモーセの願いどおりにされ、蛙は家からも庭からも畑からも死に絶えた。人々はその死骸を幾山にも積み上げたので、国中に悪臭が満ちた。」
・しかし、ファラオの心はかたくなであったため、今度はぶよが地に満ちた。
―出エジプト記8:12-13「『杖を差し伸べて土の塵を打ち、ぶよにさせてエジプト全土に及ぼせ』と。彼らは言われたとおりにし、アロンが杖を持った手を差し伸べ土の塵を打つと、土の塵はすべてぶよとなり、エジプト全土に広がって人と家畜を襲った。」
・今度はエジプトの魔術師もこれを出来なかったので、彼らはこれが神の業であることを認めた。
―出エジプト記8:14-15「魔術師も秘術を用いて同じようにぶよを出そうとしたが、できなかった。ぶよが人と家畜を襲ったので、魔術師はファラオに、「これは神の指の働きでございます」と言った」
2.何故災いは与えられるのか
・ぶよでさえ、ファラオの心を変えることができなかったので、今度はあぶの害が及ぶ。この害はエジプト全土に及んだが、ファラオはまだ、神の業に屈しなかった。
―出エジプト記8:17「もしあなたがわたしの民を去らせないならば、見よ、わたしはあなたとあなたの家臣とあなたの民とあなたの家にあぶを送る。エジプトの人家にも人が働いている畑地にもあぶが満ちるであろう。」
・この災いに神の手が働いていることをファラオはわかったはずだ。何故ならば、その災いは人間にはできない事であり、しかもその害はイスラエルの住むゴシェンの地には及ばなかったからだ。
―出エジプト記8:18「しかし、その日、わたしはわたしの民の住むゴシェン地方を区別し、そこにあぶを入り込ませない。あなたはこうして、主なるわたしがこの地のただ中にいることを知るようになる。」
・これはファラオと神の争いであった。誰がこの地を支配しているのか、誰が創造者で誰が被造物であるかをはっきりさせるための戦いであった。
―出エジプト記9:13-16「今度こそ、わたしはあなた自身とあなたの家臣とあなたの民に、あらゆる災害をくだす。わたしのような神は、地上のどこにもいないことを、あなたに分からせるためである。・・・わたしは、あなたにわたしの力を示してわたしの名を全地に語り告げさせるため、あなたを生かしておいた。』
・一連の災いは神の創造の業を示す。創造とは混沌(カオス)の中に秩序(コスモス)を与える行為であり、その秩序は神が働き続けることによってのみ保たれている。
―創世記1:1-3「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。」
・災いとはこの秩序を神が取り去られる行為なのだ。神が水を制御し、日を支配し、他の生き物を管理しておられる。この神の手が離れたとき、水は洪水となり、日は日照りや闇をもたらし、他の生き物は無秩序になる。
―エレミヤ4:23-26「私は見た。見よ、大地は混沌とし/空には光がなかった。私は見た。見よ、山は揺れ動き/すべての丘は震えていた。私は見た。見よ、人はうせ/空の鳥はことごとく逃げ去っていた。私は見た。見よ、実り豊かな地は荒れ野に変わり/町々はことごとく、主の御前に/主の激しい怒りによって打ち倒されていた。」
・人間は被造物でありながら自らが神に取って代わろうとする。その時、創造の秩序は崩され、地はあえぐ(今日の農薬や毒物等の環境災害、ウランやプルトニウムの廃棄の問題、受胎調節の問題等の根源はここにある)。何をなすべきか。自分の限界を知り、創造者を覚えることである。
―ローマ1:20-21「世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。従って、彼らには弁解の余地がありません。なぜなら、神を知りながら、神としてあがめることも感謝することもせず、かえって、むなしい思いにふけり、心が鈍く暗くなったからです。」