1.召命の再確認
・エジプトに派遣されたモーセは、ファラオに要求を拒否され、そのことによって民の信頼も失い、神に苦情を言う。そのモーセに神は再度、約束を繰り返される。
―出エジプト6:1「今や、あなたは、わたしがファラオにすることを見るであろう。わたしの強い手によって、ファラオはついに彼らを去らせる。わたしの強い手によって、ついに彼らを国から追い出すようになる。」
・モーセへの召命は前になされている(3:10)。その召命がここで再確認される。状況が変化したからだ。まず、召されて派遣されたモーセが神の力に疑問を持っている。
―出エジプト5:22-23「わが主よ。あなたはなぜ、この民に災いをくだされるのですか。わたしを遣わされたのは、一体なぜですか。わたしがあなたの御名によって語るため、ファラオのもとに行ってから、彼はますますこの民を苦しめています。それなのに、あなたは御自分の民を全く救い出そうとされません。」
・民は、一旦はモーセを神からの使者として認めたのに、今は疑いを持っている。
―出エジプト5:21「どうか、主があなたたちに現れてお裁きになるように。あなたたちのお陰で、我々はファラオとその家来たちに嫌われてしまった。我々を殺す剣を彼らの手に渡したのと同じです。」
・ファラオはモーセの予想以上にかたくなである。
―出エジプト5:2 「主とは一体何者なのか。どうして、その言うことをわたしが聞いて、イスラエルを去らせねばならないのか。わたしは主など知らないし、イスラエルを去らせはしない」。
・モーセは神の召命の再確認をした後、また民に語ったが、民は現実の厳しさを見て、モーセの言葉を聞かなかった。人は自分の思いを超えた言葉を聞くことは出来ない。聞けるとしたら、自分を無にしたときだ。
―出エジプト6:9「モーセは、そのとおりイスラエルの人々に語ったが、彼らは厳しい重労働のため意欲を失って、モーセの言うことを聞こうとはしなかった。」
・その民の不従順を見て、モーセの信仰もまた揺らぐ。モーセでさえ、最初は不信仰であったのだ。
―出エジプト6:10-12「主はモーセに仰せになった。「エジプトの王ファラオのもとに行って、イスラエルの人々を国から去らせるように説得しなさい。」モーセは主に訴えた。「御覧のとおり、イスラエルの人々でさえわたしに聞こうとしないのに、どうしてファラオが唇に割礼のないわたしの言うことを聞くでしょうか。」
2.出エジプト記における福音
・モーセも民もファラオも従わない状況下で、神は約束を繰り返される。そこには新旧約聖書を貫く福音がある。
―出エジプト6:6-7「イスラエルの人々に言いなさい。わたしは主である。わたしはエジプトの重労働の下からあなたたちを導き出し、奴隷の身分から救い出す。腕を伸ばし、大いなる審判によってあなたたちを贖う。そして、わたしはあなたたちをわたしの民とし、わたしはあなたたちの神となる。あなたたちはこうして、わたしがあなたたちの神、主であり、あなたたちをエジプトの重労働の下から導き出すことを知る。」
・約束の地に入った民は、この言葉に答えて信仰告白を行った。
―申命記26:5-9「私の先祖は、滅びゆく一アラム人であり、わずかな人を伴ってエジプトに下り、そこに寄留しました。しかしそこで、強くて数の多い、大いなる国民になりました。エジプト人はこの私たちを虐げ、苦しめ、重労働を課しました。私たちが先祖の神、主に助けを求めると、主は私たちの声を聞き、私たちの受けた苦しみと労苦と虐げを御覧になり、力ある御手と御腕を伸ばし、大いなる恐るべきこととしるしと奇跡をもって私たちをエジプトから導き出し、この所に導き入れて乳と蜜の流れるこの土地を与えられました。」
・その約束は国が滅ぼされた捕囚期に再度思い起こされる。
―エレミヤ31:33「来るべき日に、私がイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、私の律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。私は彼らの神となり、彼らは私の民となる。」
・それは新約聖書においても貫かれている福音である。
―ヨハネ3:16「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」
・パウロもこの言葉を大事にした。
―?コリント3:3「 あなたがたは、キリストがわたしたちを用いてお書きになった手紙として公にされています。墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく人の心の板に、書きつけられた手紙です。」