2019年7月21日説教(創世記39:1-23、主が共におられた)
1.エジプトに売られたヨセフ
・ヨセフ物語を読み続けています。ヨセフの父ヤコブはヨセフを偏愛し、ヨセフには兄たちと違う特別の着物を着せ、羊飼いの仕事をさせないで手元に置いて、秘書の仕事をさせていました。父親の偏愛を受けたヨセフは次第に兄たちを見下すようになり、兄たちはヨセフを憎み、商人たちに売り渡し、ヨセフはエジプトに奴隷として売られて行きます。その売られた先は、エジプト王の侍従長ポティファルの家でした(新聖書協会訳“親衛隊長”)。「主が共におられたので、ヨセフはポティファルの信頼を得た」と創世記は語ります。「ヨセフはエジプトに連れて来られた。ヨセフをエジプトへ連れて来たイシュマエル人の手から彼を買い取ったのは、ファラオの宮廷の役人で、侍従長のエジプト人ポティファルであった。主がヨセフと共におられたので、彼はうまく事を運んだ。彼はエジプト人の主人の家にいた。主が共におられ、主が彼のすることをすべてうまく計らわれるのを見た主人は、ヨセフに目をかけて身近に仕えさせ、家の管理をゆだね、財産をすべて彼の手に任せた」(39:1-4)。ヨセフはポティパルの家で10年間働き、17歳の青白い少年が今や20代の堂々の青年になっています。
・ヨセフはその能力と忠実さによって主人の信頼を得て、家令(財産管理人)に任じられました。彼は奴隷ではあっても安定した生活に満足しています。そこに思わぬ出来事が起こります。主人の妻が美貌のヨセフに思いをかけて来たのです。「主人は全財産をヨセフの手に委ねてしまい、自分が食べるもの以外は全く気を遣わなかった。ヨセフは顔も美しく、体つきも優れていた。これらのことの後で、主人の妻はヨセフに目を注ぎながら言った。『私の床に入りなさい』」(39:5-7)。しかし、ヨセフは拒んで、主人の妻に語ります。「ご存じのように、御主人は私を側に置き、家の中のことには一切気をお遣いになりません。財産もすべて私の手に委ねてくださいました。この家では、私の上に立つ者はいませんから、私の意のままにならないものもありません。ただ、あなたは別です。あなたは御主人の妻ですから。私は、どうしてそのように大きな悪を働いて、神に罪を犯すことができましょう」(37:8-9)。
・主人の妻はそれでも毎日ヨセフに言い寄り、あるとき強引にヨセフに関係を迫り、ヨセフは彼女の手に着物を残して逃げます。「彼女は毎日ヨセフに言い寄ったが、ヨセフは耳を貸さず、彼女の傍らに寝ることも、共にいることもしなかった。こうして、ある日、ヨセフが仕事をしようと家に入ると、家の者が一人も家の中にいなかったので、彼女はヨセフの着物をつかんで言った。『私の床に入りなさい』。ヨセフは着物を彼女の手に残し、逃げて外へ出た」(39:10-12)。
・主人の妻にとってヨセフと寝ることは快楽の追求でした。しかし、ヨセフにとってそれは命にかかわる出来事、破滅への道でした。ヨセフは彼女から逃げます。拒絶された妻は腹いせにヨセフを告発し(39:13-18)、怒った主人はヨセフを投獄します「『あなたの奴隷が私にこんなことをしたのです』と訴える妻の言葉を聞いて、主人は怒り、ヨセフを捕らえて、王の囚人をつなぐ監獄に入れた。ヨセフはこうして、監獄にいた」(39:19-20)。この事件を通してヨセフはイスラエルの知恵の言葉を思い起こしたでしょう。「彼女の美しさを心に慕うな。そのまなざしのとりこになるな。遊女への支払いは一塊のパン程度だが、人妻は貴い命を要求する」(箴言6:25-26)、「彼女(人妻)の家は陰府への道、死の部屋へ下る」(箴言7:27)。「人妻は貴い命を要求する」、姦淫は人と人の関係を破壊する毒なのです。
2.主が共におられた
・ヨセフは不当な姦淫の誘いを断った故に投獄されますが、創世記39章は37章と連続しており、間に38章が挿入されています。38章はヨセフの兄弟ユダが嫁のタマルと過ちを犯し、その結果嫁タマルの妊娠を通して子が生まれるという姦淫の物語です。何故直接的にはヨセフ物語と関係しないユダ物語がここに唐突に挿入されているのでしょうか。多くの注解者は、ヨセフの兄ユダは姦淫の罪を犯したが、弟ヨセフはそれを拒否した、その対比を見よと創世記編集者が語っていると理解します。だから38章もまた大事なヨセフ物語の一部なのです。そして後代の私たちは、この創世記38章の出来事がマタイによってイエスの系図の中に挿入され、タマルの生んだペレツがイエスの系図を構成している事実を知ります(マタイ1:3)。私たちの信じる神は姦淫の罪を犯さざるを得なかったユダとタマルの弱さを赦し、タマルの子をダビデの祖先の一人に、そして神の子イエスの系図に入れて下さった。創世記38章に福音が隠されています。
・そして姦淫を拒否した故に獄に入れられるヨセフがその苦難を通して、新しい希望を見出す物語が39章後半から展開していきます。別の福音の物語がここから始まります。主人ポティファルはヨセフを投獄しましたが、その投獄された先は王の囚人をつなぐ獄舎であり、そのことが、ヨセフが王の側近と知り合い、エジプト王に仕える契機となります。しかし投獄されたヨセフには先のことは見えません。ただ創世記は監獄の中でも主はヨセフと共におられたため、看守長もヨセフを信頼して全てを任せるようになったと記します。「主がヨセフと共におられ、恵みを施し、監守長の目にかなうように導かれたので、監守長は監獄にいる囚人を皆、ヨセフの手に委ね、獄中の人のすることはすべてヨセフが取りしきるようになった。監守長は、ヨセフの手に委ねたことには、一切目を配らなくてもよかった。主がヨセフと共におられ、ヨセフがすることを主がうまく計らわれたからである」(39:21-23)。
・創世記39章には「主が共におられた」という言葉が5回も出て来ます(2,3,5,21,23節)。全ての出来事を「主の導き」と信じる時に、出来事の意味が見えてきます。詩篇105は歌います「主はこの地に飢饉を呼び、パンの備えをことごとく絶やされたが、あらかじめ一人の人を遣わしておかれた。奴隷として売られたヨセフ。主は、人々が彼を卑しめて足枷をはめ、首に鉄の枷をはめることを許された。主の仰せが彼を火で練り清め、御言葉が実現する時まで」(詩編105:16-19)。「御言葉が実現する時まで」、ヨセフは「首に鉄の枷をはめられ」、「火で練り清められ」ます。
3.神の経綸に従う
・ヨセフは主人の妻から言いがかりをつけられた時も、無言で主人の妻の罪を自ら担います。神の摂理を信じる者は未来を神に委ねて生きることが出来るゆえに、苦難の中でも平静です。今日の招詞に詩編119:71-72を選びました。次のような言葉です「卑しめられたのは私のために良いことでした。私はあなたの掟を学ぶようになりました。あなたの口から出る律法は私にとって、幾千の金銀にまさる恵みです」。ヨセフの獄中生活は3年間にも及びました(41:1)。無実の罪での3年間の投獄は長い。ヨセフの気持ちの中では希望と失望が交互していたであろうと思えます。
・それに対して創世記注解者リュティは語ります「バプテスマのヨハネは荒野で生活し、ヘロデ王の城内にある地下牢で処刑されます。パウロは多くの刑罰を受けながらも福音伝道を続け、最後はローマで処刑されました。神は十字架上から『わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか』と叫ばれた御子イエスを十字架に残されました。しかし神はそこにおられました・・・艱難、災難、失望、欠乏は神が我々と共におられることへの反証ではない。むしろ、神が我々と共におられることの証拠です」(ヴァルター・リュティ「創世記講解25-50章」223p)。
・与えられた出来事を災いと思う時、その出来事は人の心を苦しめます。しかし出来事を神の摂理と理解した時、新しい道が開けます。ヨセフは不当な罪で投獄されましたが、その投獄された先は王の囚人をつなぐ獄舎で、この投獄がやがてヨセフが王の側近と知り合い、エジプト王に仕える契機となります。その時のヨセフには先は見えませんでしたが、主の導きを信じて待ちました。
・今日の招詞、詩編119編はバビロン捕囚時の詩と言われています。イスラエルの民は、エルサレムが占領され、信仰の中心だった神殿も破壊され、自分たちも遠いバビロンに連れ去られた時、神の導きが分からなかった。捕囚は七十年にも及んだため、「主よ、何故、私たちをこのように苦しめるのですか」と嘆いて、死んで行った人も多かった。しかし、この70年の試練を経て、イスラエル人は神の民として自立していきます。旧約聖書が編集され、ユダヤ教が宗教として成立したのも、捕囚の時代でした。イスラエル人を捕囚したバビロン人は滅び、バビロンを滅ぼしたペルシャ人も滅び、そのペルシャを制圧したローマ人も滅びましたが、ユダヤの民は今日でも民族として残り、その時代に編集された旧約聖書は、今なお読み続けられ、人々に生きる力を与え続けています。
・「卑しめられたのは私のために良いことでした。私はあなたの掟を学ぶようになりました」と詩編作者は歌いました。人は卑しめられなければ、底の底まで落ちなければ、神を求めない存在なのです。地獄を経験した故に、ヨセフは兄弟たちに語ることが出来ました「今は、私をここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神が私をあなたたちより先にお遣わしになったのです・・・私をここへ遣わしたのは、あなたたちではなく、神です」(45:4-8)。この言葉をヨセフが言えたのは、途上において様々な試練があったからです。「御言葉が実現する時まで」、「首に鉄の枷をはめられ」、「火で練り清められた」からです。リュティが語るように、「艱難、災難、失望、欠乏は神が我々と共におられることの証拠」なのです。これを知らされた者は幸いです。