1.兄弟を訴える者への叱責
・コリント人への手紙を読んでおります。この手紙は教会内で起きる様々の問題解決のために、パウロが助言のために書いた手紙です。そこには生々しい教会の現実が書かれています。1~4章で取り上げられた問題は教会内の分派争い、主導権争いに関する問題でした。5章で取り上げられたのは教会内で生じた不品行の問題です。そして今日読みます6章の主題は、教会で起こった金銭にまつわる争いの問題です。教会は「聖徒の集まり」ですが、聖徒とは正しいから聖徒ではなく、神に赦されたから「聖なる者」にしていただいた存在です。言わば、「赦された罪人」の集まりであり、それゆえに教会内において、この世と同じ罪の出来事が起こります。特に「性とお金」にまつわる問題は対応が難しい問題です。
・コリント6章では、教会内において金銭をめぐる争いが起こり、被害を受けた人が救済をローマの裁判所に訴えるという出来事が起こったと記されています。パウロは教会内でこのような出来事が起こったことに衝撃を感じています。彼は書きます「あなたがたの間で、一人が仲間の者と争いを起こしたとき、聖なる者たちに訴え出ないで、正しくない人々に訴え出るようなことを、なぜするのです」(6:1)。具体的に何が起こったかは不明ですが「日常の生活にかかわる争い」(6:4)とありますから、おそらくは金銭貸借を巡る争いであったと思われます。お金を貸したのに返してくれない、そのお金が相当の金額であったため、訴訟ということになったのでしょう。「聖なる者たちに訴え出ないで、正しくない人々に訴え出る」、何故問題を教会内で解決できなかったのかと彼は批判しています。
・コリント教会で起こったような争いは日本の教会でも起きています。日本では、金銭貸借に伴う裁判は少ないようですが、使途不明金が明るみになって牧師が辞任するとか、一部のカルト的教会においては献金の強制とその返還訴訟等が生じています。日本の教会でより深刻なのはセクハラ関係です。2008年4月に週刊誌アエラが「教会における性犯罪」事件を特集し、その中でキリスト教団熊本白川教会、ホーリネス教団平塚教会、聖公会高田キリスト教会で起きたセクハラ訴訟を特集していました。カルト的な教会は別にして、そうでない教会でもセクハラ事件が起きていることに衝撃を受けました。私たちの属するバプテスト連盟では「セクシャル・ハラスメント防止委員会」を設け、防止活動を行っています。コリント教会の出来事は私たちの問題でもあるのです。
・手紙で留意すべきは、パウロがスキャンダラスな出来事が起きたことを批判しているのではないということです。そのような問題は起こるのです。しかし、教会がそのような出来事を信仰に基いて解決できなかったことを、彼は問題にしています。パウロは語ります「あなたがたは知らないのですか。聖なる者たちが世を裁くのです。世があなたがたによって裁かれるはずなのに、あなたがたにはささいな事件すら裁く力がないのですか。私たちが天使たちさえ裁く者だということを、知らないのですか。まして、日常の生活にかかわる事は言うまでもありません。それなのに、あなたがたは、日常の生活にかかわる争いが起きると、教会では疎んじられている人たちを裁判官の席に着かせるのですか」(6:2-4)。
・パウロの考え方の基本にあるのは、教会は自浄能力を持つべきだということです。教会の長老たちが集まって知恵を絞り、争う当事者たちを和解させるべきだというのです。おそらくコリント教会でもそのような和解勧告が為されたのでしょうが、当事者が納得出来ずに、裁判になったと思われます。パウロは教会内の争いを解決できないあなた方の信仰とはなにかと問います。「あなたがたを恥じ入らせるために、私は言っています。あなたがたの中には、兄弟を仲裁できるような知恵のある者が、一人もいないのですか」(6:5)。あなた方の信仰はどこに行ったのか、あなたがたは神に従う者としてこの世をさえ裁く権能を与えられているのに、実際は世に裁かれているではないかと言います。「そもそも、あなたがたの間に裁判沙汰があること自体、既にあなたがたの負けです」(6:7a)。
・教会は世にありますが、世に支配されず、むしろ、世を裁く権能を与えられています。教会はこの世における神の国の代表であり、神がこの世を支配しておられるのであれば、あなたがたはこの世の裁き主ではないかとパウロは語るのです。教会は「地の塩」、「世の光」と言われます。教会は世の良心たるべき存在なのです。その教会が自身の争いを解決できずに、世の権力者の出先である裁判所に訴えるとしたら、世の人々は「教会もこの世と同じ人間集団に過ぎないと思うだろう、それが信仰の証になるのか」とパウロは語っています。
2.あなた方がどのようにして救われたかを考えてみよ
・パウロは「裁判というこの世の権力を通して自分の損を取り戻す行為を神は喜ばれるのか」、考えてみよと教会の人々に語ります「なぜ、むしろ不義を甘んじて受けないのです。なぜ、むしろ奪われるままでいないのです」(6:7b)。イエスは「 返してもらうことを当てにして貸したところで、どんな恵みがあろうか」(ルカ6:34)と言われました。返済を求めて外部機関に訴えること自体が、兄弟を赦し愛するというキリストの教えに対する失敗ではないのかとパウロは語ります。パウロは裁判制度を否定するものではありません。それはそれで意味があります。しかし、キリスト者はこの世の基準とは別な基準に動かされる存在ではないかと彼は語るのです。裁判をするということは、「不義を行い、奪い取る。しかも、兄弟たちに対してそういうことをしている」(6:8)行為なのだと彼は語ります。
・そしてコリント教会の人々にあなたたちが救われる前、この世の生活の中にあった時、どうであったかをもう一度思い起こせと語ります。それが9節からの言葉です「正しくない者が神の国を受け継げないことを、知らないのですか。思い違いをしてはいけない。みだらな者、偶像を礼拝する者、姦通する者、男娼、男色をする者、泥棒、強欲な者、酒におぼれる者、人を悪く言う者、人の物を奪う者は、決して神の国を受け継ぐことができません。あなたがたの中にはそのような者もいました」(6:9-11a)。「あなたがたの中にはそのような者もいました」、厳しい指摘です。しかしそのあなた方が、「主イエス・キリストの名と私たちの神の霊によって洗われ、聖なる者とされ、義とされています」(6:9b)。あなた方はかっては罪の中にあった。しかし、キリストの死に預かるバプテスマを受けて清められた。古いあなたは死んだのに、まだ前と同じことをしているとすれば、どこにキリストの血の証しがあるのかとパウロは語ります。
3.自分の体で神の栄光を現しなさい
・今日の招詞に1コリント6:12を選びました。次のような言葉です「私には、すべてのことが許されている。しかし、すべてのことが益になるわけではない。私には、すべてのことが許されている。しかし、私は何事にも支配されはしない」。パウロは教会内の問題の解決をこの世の裁判所に訴える愚かさを6章で説いてきました。しかし、これは裁判制度を否定する趣旨ではありません。パウロ自身しばしば法定に被告として立たされていますし、不当な判決に対してはローマ皇帝に上訴さえしています(使徒25:11)。信仰を証しするために必要であれば裁判を行うこともパウロは認めています。
・キリスト教徒がその信仰を守るために裁判を起こした事例も幾つかあります。日本基督教団小岩教会の牧師であった澤正彦先生が起こされた「日曜日訴訟」もその一つです。澤先生の娘(小学6年生)は教会の日曜学校に出席していましたが、昭和57年当時の江戸川区では授業参観を日曜日に行っており、礼拝に参加するため休んだ所、指導要録に欠席と記載され、両親が「日曜日午前中の授業参観を義務付け、それを宗教上の理由から履行しなかった娘に対して「欠席記載」という不利益を与えたことは憲法20条の信教の自由を冒す」として裁判を起こされたものです。そこまでする必要があるのかという議論はありますが、キリスト者が「日曜日の礼拝をどれほど大事にしているのか」を示すことは、大きな意味があったと思います。
・もう一つの裁判は「ピースリボン裁判」と呼ばれるものです。国立市で音楽科教員をしていた一人の女性キリスト者に対し、小学校校長が卒業式に君が代を伴奏することを命じ、女性は「君が代は過去の戦争の反省から伴奏できない」と断った所、文書訓告処分を受け、他校への転勤が命じられました。女性はこのような処分は信教の自由を冒すとして処分取り消しを裁判所に求めました。その際、平和の象徴として「ピースリボン」を付けたため、「ピースリボン裁判」と呼ばれました。このような女性の行為にも賛否両論があると思います。しかし信仰を大事にしたいという思いの中で生まれた訴訟であり、多くの教会が支援活動を行いました。
・何がキリスト者としてふさわしい行為であるのか、何がそうでないかを見極めるためには知恵が必要です。その知恵のあり方をパウロは私たちに提示していると思います。「私には、すべてのことが許されている。しかし、すべてのことが益になるわけではない。私には、すべてのことが許されている。しかし、私は何事にも支配されはしない」、ぜひ覚えていただきたい言葉です。私たちキリスト者は少数者です。毎週日曜日に、この教会に三十人か四十人の方が集まり、礼拝を持っていることを、世の大半の方は知らないでしょうし、知っても価値を認めないでしょう。しかし神がこの世界をも統治され、教会が神の地上の代表者であるとしたら、この礼拝は世の人々にとっても意味ある礼拝なのです。カール・バルトは「キリスト者共同体と市民共同体」という小論文の中で「市民共同体という大きな外円の中に、キリスト者共同体という内円があり、教会は社会の庇護のもとに、世の光としての役割を与えられている存在」語ります。社会も教会も同一の同心円の中にありますから教会は外円の社会を尊重しますが、同時に自分たちが内円であることを深く認識します。彼は言います「教会とても、やはり国家と同じく、いまだ救われざる世界にあるのであり、教会は市民共同体の只中にあって、神の国を想起させる役割を持つ」。教会は神に奉仕することによって世の人々に奉仕する存在なのです。自己の利益を求めて争う裁判は愚かですが、神のために戦う裁判は信仰の行為でもあります。私たちが毎日曜日にこの教会に集まり、礼拝を持っていることこそ、社会の中において大事な意味ある働きをしていることを自覚したいと思います。