1.空の墓
・イースター礼拝の日を迎えました。イースターはキリストの復活を祝う時です。そして復活はキリスト教信仰の中核です。パウロが語るように、「キリストが復活しなかったのなら、私たちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄」(1コリント15:14)です。「キリストが死から復活された」、だから私たちも永遠の命をいただくことが出来る、それが私たちの希望です。しかし、復活は人間の理解を超えた出来事であり、信じることが難しい出来事でもあります。今日はマルコ福音を読みながら、復活の問題を考えていきます。
・イエスは金曜日の午後3時に亡くなられたとマルコは記します(15:34)。弟子たちは逃げていなくなっており、婦人たちだけが十字架を遠くから見ていました。金曜日の日没と共に、安息日が始まり、イエスの遺体はあわただしく葬られました。婦人たちは何も出来ず、ただ遺体が納められた墓を見つめていました(15:47)。安息日が終わった日曜日の夜明けと共に、婦人たちはイエスの遺体に塗るための香料を買い整え、墓に向かいます。
・婦人たちは墓に急ぎます。しかし、墓の入り口には大きな石のふたが置かれており、どうすれば石を取り除くことが出来るか、婦人たちにはわかりません。ところが、墓に着くと、石は既に転がしてありました。ユダヤの墓は岩をくりぬいて作る横穴式の墓です。婦人たちが中に入りますと、右側に天使が座っているのを見て、婦人たちは驚き、怖れたとマルコは伝えます。婦人たちは天使の声を聞きます「あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である」(16:6)。「あの方は復活なさった」、原文では「あの方は起された」と受動形で書かれています。「神がイエスを起された」とマルコは暗示しています。天使の語りは続きます「さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と」(16:7)。
・このマルコの記事は二つの事柄を私たちに知らせます。一つはイエスの遺体を納めた墓が空になっていたという伝承があり、二つ目は弟子たちがガリラヤで復活のイエスと出会ったという伝承があることです。最初に「空の墓の伝承」を見てみましょう。マルコでは「婦人たちは墓を出て逃げ去った・・・そして、だれにも何も言わなかった」(16:8)とありますが、その後の消息を伝えると思われる記事がルカ24章にあります。ルカは述べます「婦人たちはこれらのことを使徒たちに話したが、使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった。しかし、ペトロは立ち上がって墓へ走り、身をかがめて中をのぞくと、亜麻布しかなかったので、この出来事に驚きながら家に帰った」(ルカ 24:11-12)。婦人たちは「イエスの遺体がなくなっている」と弟子たちに伝え、弟子たちは墓が空であることは確認しましたが、「まさかイエスが復活されたとは誰も考えもしなかった」とルカは報告しています。復活は弟子たちでさえ、信じることができなかった事柄だったのです。
・ここで、マルコが空の墓の事実を指し示して復活を宣べ伝えたことは極めて重要です。「墓が空になっていた」という事実は、復活がイエスの身に起こった具体的な出来事であることを示しています。マルコは弟子たちの内面的な体験や確信を宣べ伝えるだけでなく、物理的に復活が起こったと主張しています。復活が弟子たちの内面的な出来事、幻覚や幻視であれば、「空の墓」を必要としないからです。
・その後、弟子たちはどうしたのでしょうか。おそらく故郷のガリラヤに戻ったと思われます。その間の事情を伝える記事がヨハネ21章にあります。「シモン・ペトロが『私は漁に行く』と言うと、彼らは『私たちも一緒に行こう』と言った。彼らは出て行って、舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。だが、弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった・・・イエスは言われた『舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ』。そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった。イエスの愛しておられたあの弟子がペトロに『主だ』と言った。シモン・ペトロは『主だ』と聞くと、裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ」(ヨハネ21:3-7)。同じ記事がルカ5:1-11にもあります。弟子たちはガリラヤで復活のイエスと出会ったと聖書は証言します。
2.復活顕現の証言
・今日の招詞に1コリント15:3-5を選びました。次のような言葉です「最も大切なこととして私があなたがたに伝えたのは、私も受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおり私たちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです」。パウロはコリント教会への手紙の中で、キリストの復活について証言しており、これは紀元55年頃に書かれた最古の復活証言です。この記事に書かれているのは、復活のイエスがペテロに現れ、次に弟子たちに現れたという証言です。復活は歴史的には起こったかどうかを証明出来ない出来事です。しかし弟子たちは復活のイエスに出会ったと証言しています。復活とはこの証言を信じるかどうかを私たちに迫ります。
・復活の出来事をイメージするために音楽を考えてみます。例えば、ある人にとってベートーベンは天才です。彼の書いた楽曲、例えば交響曲9番「喜びの歌」を聞いて、魂が揺さぶられる思いをした人は、「ベートーベンは天才だ」と信じるでしょう。他方、関心のない人にとっては、その音楽は騒音に過ぎず、彼は「ベートーベンは天才だ」とは考えないでしょう。ベートーベンが天才であるか否かは歴史学的には証明出来ません。「キリストの復活」も同じです。ある人にとっては「人生を根底から覆す」出来事であり、他の人々には「愚かな出来事」なのです。
・キリスト者は復活を信じます。それは復活のイエスと出会い、人生を変えられた人々の証言を聖書から聞くからです。最初の証言者はケファ(ペテロ)です。ペテロは3年間イエスに従い、「イエスのためであれば死んでもよい」と公言していました(14:31)。そのペテロが、イエスが捕らえられた時に、大祭司の屋敷で「お前も仲間だろう」と問われ、「そんな人は知らない」と繰り返し否認します。そしてイエス処刑時には逃げ出してしまいました。その彼が処刑後50日目のペンテコステの時には、「神はイエスを復活させられた。私たちはその証人だ」と公衆の前で説教し(使徒2:32)、祭司長たちに呼び出されて説教を止めるよう命令された時答えます「神に従わないであなた方に従うことはできない」(使徒4:19)。弱かったペテロを変えたものは何だったのでしょうか。パウロが証言するように、「ケファ(ペテロ)にイエスが現れ」という復活顕現体験をしたからです。
・同じことが復活の証言者パウロにも言えます。彼はキリスト教の迫害者でした。その彼がダマスコ近郊で劇的な回心を経験します。彼は証言します「そして最後に(キリストは)、月足らずで生まれたような私にも現れました。私は、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でもいちばん小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です」(1コリント15:8-9)。パウロを変えたのも復活者との出会いです。
3.私たちに取って復活とはなにか
・イエス復活の確かさは、彼が「生ける者」として、人に出会われることの中にあります。私たちも自身も復活者に出会う時、復活は私たちの出来事になります。どのようにして「生けるイエスと出会うのか」、「ガリラヤに行く」ことによってです。弟子たちはイエス逮捕時にはこれを否認し、処刑時には逃げました。しかし、イエスはその弟子たちを見棄てられなかった。そして弟子たちに言われます「ガリラヤに行きなさい。そこで私と出会うであろう」と。そのガリラヤとはイエスが「時が満ちた。神の国は近づいた」(1:15)と宣教された場所、社会から排除された罪人や娼婦たちと食卓を共にされた場所、泣く者に「泣かなくとも良い」といわれ、貧しい人々に「私こそ命のパンである。私を食べよ」と言われた場所です。私たちは、「その場所に、ガリラヤに行きなさい、そこでイエスと出会うであろう」と招かれています。
・私たちのガリラヤはどこなのか、トルストイの描いた童話「靴屋のマルチン」が一つの示唆を与えます。マルチンは妻や子供に先立たれ、辛い出来事の中で生きる希望を失いかけています。ある日、神父が傷んだ革の聖書を修理してほしいと持ってきます。マルチンは今までの辛い経験から神への不満をもっていましたが、それでも神父が置いていった聖書を読みはじめます。ある日の夜、夢の中に現れたキリストがマルチンにこう言います「マルチン、明日、おまえのところに行く」。次の日、マルチンは仕事をしながら窓の外の様子をうかがいます。外には寒そうに雪かきをしているおじいさんがいます。マルチンはおじいさんを家に迎え入れてお茶をご馳走します。今度は赤ちゃんを抱えた貧しいお母さんに目がとまります。マルチンは出て行って、親子を家に迎え、ショールをあげました。今度はおばあさんの籠から一人の少年がリンゴを奪っていくのが見えました。マルチンは少年のために代金を立て替えます。一日が終りましたが、期待していたキリストは現れませんでした。がっかりしているマルチンに、キリストが現れます「マルチン、今日私がお前のところに行ったのがわかったか」。そう言い終わると、キリストの姿は雪かきの老人や貧しい親子やリンゴを盗んだ少年の姿に次々と変わりました。そして最後にキリストの言葉が響きます「私の兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、私にしてくれたことなのである」(マタイ25:40)。
・ガリラヤはガーリール(周辺)という意味です。中心であるエルサレムから見れば周辺の地です。「周辺で生きる」、「自分のため」だけではなく、「隣人と共に生きる」生活を私たちが始めた時、私たちは「生けるイエス」と出会います。その人生はこの世的には「幸福な人生」ではないかもしれません。ペテロもパウロも殉教したと伝えられています。しかし「意味のある人生」だった。キリストに出会うことを通して、私たちは「意味のある人生」に招かれます。国連が調査した世界幸福度調査(2013年)によりますと、幸福度1位はデンマーク、2位ノルウェー、3位スイス、以下17位アメリカ、22位イギリス、日本は43位です。これはシンガポール(30位)、タイ(36位)より下で、先進国では最低レベルです。OECD調査も同じ傾向を示しています。「日本は経済的に豊かなのに、日本人は幸福ではない」、これは何を意味するのでしょうか。「人はパンだけで生きるのではない」(マタイ4:4)、私たちはパン=物質的な豊かさを求めすぎて、不幸になっていると思われます。本当の命はどこにあるのか、復活のイエスはガリラヤで弟子たちを招かれ、弟子たちはイエスの業を継承するために教会を形成しました。私たちも復活のイエスと出会い、召命を受け、それぞれの持ち場に遣わされていきます。「ガリラヤに行きなさい」、私たちも弟子たちと同じ経験をすることによって、真の豊かさに巡り会えるのではないかでしょうか。