1.神が人となって来られた
・クリスマス礼拝の日を迎えています。今日、私たちに与えられました聖書箇所はヨハネ1:1-13、ヨハネ福音書の最初の言葉(序文)です。この序文は初代教会の讃美歌であったと言われています。最初にヨハネは語ります「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」(1:1)。この言葉=ロゴスをキリストと読み替えると意味がはっきりします。「初めにキリストがおられた。キリストは神と共におられた。キリストは神であった」。そして、「言(キリスト)は肉となって私たちの間に宿られた」(1:14)。神が人となって世に来られた、それがクリスマスの出来事であるとヨハネは語ります。ここにはベツレヘムの羊飼いも、三人の博士も、マリアも登場しません。ヨハネは、クリスマスの本質とは「神が人となって私たちの所へ来られた」、その一点にあると考えているからです。
・ヨハネ福音書冒頭は、「初めに=エン・アルケー」と言う言葉で始まります。その時、ヨハネの心には、創世記1章1節が浮かんでいたと思います。当時、ヨハネが読んでいた聖書は70人訳と呼ばれるギリシャ語聖書で、その最初の創世記は、「初めに=エン・アルケー」で始まります。「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた“光あれ”。こうして、光があった」(創世記1: 1-3)。天地が創造される前、地は混沌であった、何も見えない闇の中にあった。しかし、神が「光あれと言われると光があった」。創世記はバビロン捕囚地で書かれたと言われています。イスラエルは戦争に負けて国が滅ぼされ、住民は捕虜として敵国の首都バビロンに囚われています。彼らの前途は真っ暗の闇でした。しかし彼らがその地の礼拝の中で、バビロンにも自分たちの神が共におられる事を知った時、彼らは闇の中に一筋の光を見出しました。その思いが創世記1章1節「地は混沌であって、闇が深淵の面にあった。しかし、神が“光あれ”と言われると、光があった」という言葉の中に示されています。その言葉をヨハネも今、聞いています。ヨハネの教会も迫害の中にあります。しかし、神はかつて言葉で天地を創造されたように、今、言葉を用いて新しい創造をされた、キリストが人となることによって新しい時代が始まったとヨハネは語っているのです。
・ヨハネは言います「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」(1:4-5)。「暗闇は光を理解しなかった」、神は一人子イエスを世に送られたが、闇の中に住む人々はイエスが神から来られたことを認めなかった。そしてヨハネの教会の人々を迫害しています。何故、世の人々はキリスト・イエスを殺したのみならず、私たちをも迫害するのか。何故、「イエスこそキリスト(救い主)である」と信仰告白することによって、異端とされ、殺されねばならないのか。「暗闇は光を理解しなかった」、この言葉の中に厳しい現実の中にあるヨハネの教会の叫びがあります。
・この認識は現代の私たちも抱いている認識です。カトリック神学者の阿部仲麻呂氏はこのような喩えを語ります「幼稚園のクラスの中で、爪弾きにされ、誰からも声を掛けてもらえぬ園児がいた。彼は一人寂しく砂場にうずくまっていた。毎日が闇、時が止まり、生き地獄となる。しかし背後から、自分の名前を呼んでくれる相手が近づいてきた時、闇は一挙に照らされた。灰色の人生が瞬時にバラ色になった。愛情に満ちた時が流れ始める。実に創造の業は、相手を大切に呼ぶ声から始まる」(福音と世界、2014年1月号から)。この園児のような経験を、私たちも学校や職場で経験するのではないでしょうか。学校や職場や地域で仲間はずれにされた、一人ぼっちだった、そのような経験を私たちも多かれ少なかれしています。その時「光あれ」という言葉が響く。ヨハネの言う通り、「創造は言葉から始まる」のです。
・ヨハネは続けます「言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった」(1:10-11)。イエスを十字架につけたのは、ユダヤ教の祭司や律法学者でした。祭司たちは「神殿に礼拝し、十分の一の献げ物をすれば救われる」と人々に教えました。しかし、その献げ物は祭司が生活を立てるための物になり、彼らは宗教貴族として贅沢三昧の暮らをしていました。祭司は神のためではなく、自分のための献げ物を人々に要求していたのです。律法学者たちは神の言葉である律法を守るように教えましたが、自らは「宴会では上座、会堂では上席に座ることを好み、また、広場で挨拶されたり、『先生』と呼ばれたりすることを好」みました(マタイ23:6-7)。律法学者もまた仕えられることを求めていたのです。祭司や律法学者たちは、自分たちは神に仕え、光の中にあると思っていましが、実は彼ら自身も闇の中にいたのです。そのことをイエスが批判されると、彼らはイエスを憎み、殺しました。
2.神の子となるとはなにか
・「世は言を認めなかった」、「民は光を受入れなかった」、ヨハネの教会は行き場のない苦難の中にいます。しかし、彼らは希望をなくしてはいません。多くの人々はイエスを拒絶しましたが、小数の者は信じました。そして「言は、自分を受入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた」(1:12)。神の子になるとは、命の根源である神によって生かされるという意味です。その人々は「血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである」(1:13)。血によってではなく=肉体的な遺伝によってではなく、肉の欲によってではなく=人間の性的欲望によってではなく、人の欲によってではなく=人間の意志によってではなく、人は生まれたとヨハネは言います。私たちはこの世的には肉の両親から生まれてきましたが、霊の目で見れば、「神によって生まれた」です。私たち人間は「在る」のではなく、「創造された」。ですから命は自分のものではなく、神のものです。キリスト教は妊娠中絶や自殺を否定しますが、それらの行為は「神のものである命を殺す」と考えるからです。そして全ての人が神の祝福を受けてこの世に生を受けたと理解します。全ての人です。身体や心に障害を持って生まれた人も、悪人としか思えないような人も、また神の祝福の中にあります。だから「兄弟を愛し、敵を愛しなさい」と命じられています。
・神の言葉は、それが自分に与えられた言葉であると受け止めた時に出来事になっていきます。マザーテレサは1910年アルバニアに生まれました。彼女の父は民族紛争の中で殺されました。何故、人と人が殺しあうのか、彼女は悩みの中で、聖フランシスの祈りを書いた書物に出会います。次のような祈りです「主よ、私をあなたの平和の道具としてください。憎しみのある所に愛を、侮辱のある所に許しを、・・・闇のある所にあなたの光を・・・慰められるよりも慰め、理解されるより理解し、愛されるよりも愛することを求めさせてください」。その言葉が彼女に修道女になる決心を促します。
・修道女となった彼女はインドに行きますが、そこで見たのは、ヒンズー教徒とイスラム教徒が対立し、殺し合う光景でした。そこにもまた闇が広がっていたのです。彼女は修道院を出て、道端で死んでいく人々を救済する活動を始めます。マザーは自分に出来ることを始めました。彼女は語ります「先日町を歩いているとドブに誰かが落ちていた。引揚げて見るとおばあちゃんで、体はネズミにかじられウジがわいていた。意識がなかった。それで体をきれいに拭いてあげた。そうしたら、おばあちゃんがパッと目を開いて、『Mother、 thank you 』と言って息を引き取りました。その顔は、それはきれいでした。あのおばあちゃんの体は、私にとって御聖体でした」(粕谷甲一「第二バチカン公会議と私達の歩む道」)。「御聖体」、カトリック用語でキリストの体を意味します。光を受け入れた者には「おばあちゃんの体」もキリストの体になります。言は受入れた人の人格を変え、闇の中に光をもたらすのです。
3.神の子の受肉を喜ぶ
・今日の招詞にヨハネ1:14を選びました。次のような言葉です「言は肉となって、私たちの間に宿られた。私たちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」。言が出来事になった、神が人となられたとヨハネは宣言します。肉体は限界をもつもの、不完全なもの、弱いものです。しかし神の子がその不完全な存在となることによって、私たちが救われる道が開けたとヨハネは言います。その救いとは、不完全な私たちが、神によって受入れられ、生きることを赦されていることを知ることから生れます。だからこそ、闇の世にあっても、マザーテレサのように、自分の出来ることを始める人が生まれてくるのです。
・私たち現代人は「神は死んだ」として、人間の知性や理性に信頼を置く生き方をしてきました。それを象徴する言葉がデカルトの「我思う、故に我あり」です。「我思う、故に我あり」、神は要らないという宣言です。多くの現代人は言います「神を語ることは迷信であり、愚かである」、「神なしでも生きていける」。私たちは神を排除し、神を見失いました。自分を越える存在を持たない世界では、人間が絶対化され、人は他者より優位に立つことを求め、能力の劣る者を障害者、敗者として排除するようになり、その結果この世は弱肉強食の社会になってきました。人間は争い合い、殺し合い、終には世界大戦という全世界的な殺し合いまでするようになりました。二度の世界大戦を経験した人間は、人間の中にこそ悪があり、闇を造り出すのは人間であることに気づきました。神のいない世界では、自己が優越するために他者を蹴落とすしかないのです。その時、人間の周りに闇が広がります。人間は神なしでは、善を行うことも、人を愛するもできない存在なのです。そのことに気づいた人々は神の名を呼び求め、神はそれに答えて独り子を送って下さった。それが私たちのクリスマス理解です。
・クリスマスは光の祭典です。私たちはろうそくの光を灯してそのことを象徴します。教会は伝統的に12月25日をイエス・キリストの誕生日として祝ってきましたが、歴史上はイエスがいつお生まれになったのか、わかっていません。12月25日をイエスの誕生日として祝うようになったのは、4世紀頃からで、当時行われていた冬至の祭りを、教会がキリストの誕生日に制定してからです。ローマ暦の冬至は12月25日、冬至は夜が一番長い時、闇が一番深まる時です。しかしまた、それ以上に闇は深まらず次第に光が長くなる時です。人々はこの冬至の日こそ、光である救い主の誕生日に最もふさわしいと考えるようになりました。「光は暗闇の中で輝いている」(1:5)。私たちは暗闇の中でこの言葉を聞き、その光に希望と慰めを託します。だから光の誕生を伝える。それが私たちのクリスマスです。