江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2013年9月22日説教(マルコ14:26-31、弱さを知る者の強さ)

投稿日:2013年9月22日 更新日:

1.弟子たちのつまずき予告

・マルコ福音書受難物語を読み進めています。木曜日の夜、イエスと弟子たちは、エルサレムで最期の晩餐を共にとられた後、祈るためにオリーブ山に向かわれました。時刻は深夜、数時間後にイエスは捕らえられ、裁かれ、処刑されます。最後の時が迫っています。その道中で、イエスは弟子たちに言われます「あなたがたは皆、私につまずく」(14:27)。衝撃的な言葉です。「ユダは祭司長たちの所へ出て行った。やがて祭司長たちが兵士を連れてやって来るだろう。その時、あなたがたは私を見捨てて逃げ出すだろう」と言われたのです。その時、イエスが引用されたのがゼカリヤ13:7「私は羊飼いを打つ。すると、羊は散ってしまう」という言葉でした。
・イエスの時代から300年前の預言者ゼカリヤは、「主はイスラエルの清めのために、民の指導者を撃たれ、民の多くは死ぬ。しかし残った者から新しい国が生まれてくる」と預言します。ゼカリヤは預言します「剣よ、起きよ、私の羊飼いに立ち向かえ。私の同僚であった男に立ち向かえと万軍の主は言われる。羊飼いを撃て、羊の群れは散らされるがよい」(ゼカリヤ13:7)。ゼカリヤ書9章以下はゼカリヤ黙示録と呼ばれ、終末(世の終わり)に起こるであろうカオス(混沌)を預言します。終末になれば激しい戦乱が起こり、戦いの中で指導者が殺され、民のある者は剣で撃たれ、あるいは捕虜となる、その混乱の中で神の国が立てられるであろうと預言します。その預言を思い起こしながら、イエスは「主が指導者を撃たれる」時が近づいている、自分が逮捕され、処刑される時が切迫していると感じておられます。神の国の宣教は道半ばであり「まだ死ねない」とイエスは思っておられますが、同時に「父なる神が与える杯ならば飲もう」とも決意しておられます(10:38)。ただその時、弟子たちが自分を棄てて逃げ出してしまうだろうと予期されています。イエスの言葉には「おまえたちは逃げても良い」というニュアンスがあります。
・しかし、弟子たちには伝わりません。ペテロは憤慨して言います「たとえ、みんながつまずいても、私はつまずきません」(14:29)。そのペテロにイエスは語られます「はっきり言っておくが、あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度私のことを知らないと言うだろう」(14:30)。ペテロはむきになって反論します「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」(14:31)。弟子たちはイエスと共に死ぬ覚悟は出来ていました。しかし、いざとなると、弟子たちはイエスを見捨てて逃げ出します(14:50)。預言通りの出来事がこの後に起こります。

2.つまずいた弟子たちはその後どうしたのだろうか

・マルコはイエスのつまずき預言とペテロの応答の間に言葉を挿入しています「しかし、私は復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く」(14:28)。この言葉は、イエスご自身の言葉と言うよりも、初代教会の信仰を反映したものと言われています。古い写本にはこの部分がないものもあり、何よりも十字架上で絶叫して無念の死を死んで行かれた方が(15:34)、死後すぐに復活して弟子たちに会おうと考えておられたとは思えないからです。
・イエスの復活伝承にはガリラヤ伝承とエルサレム伝承の双方があります。マルコ、マタイは、弟子たちはガリラヤでイエスと再会したと伝え、他方ルカ、ヨハネはエルサレムでの顕現を記しています。この両者の記事の矛盾は調和することは不可能です。混乱した情報、様々な伝承を福音書は伝えます。その中で、史実といわれているのは、「イエスの逮捕・処刑を目撃した弟子たちは絶望して故郷ガリラヤに戻り、その地で復活のイエスと出会い、エルサレムに戻った」というものです。イエスの十字架刑の時、弟子たちはイエスの復活を予期してはいません。ルカでは婦人たちがイエスの復活を報告した時、弟子たちは「この話をたわごとのように思った」(ルカ24:11)とありますし、マタイではガリラヤでの顕現の時、「疑う者もいた」(マタイ28:17)と報告しています。イエスが事前に復活予告をされたのであれば、弟子たちの「信じなかった」という出来事も起こらなかったでしょう。
・それにもかかわらず、マルコ14:28の言葉は重要です。それは初代教会が自分たちの裏切りにもかかわらず、イエスはそれを赦してくださったと理解したことを示唆しているからです。福音書はいずれも弟子たちがイエスを見捨てて逃げたが、やがて彼らは戻ってきたと記します。弟子たちはイエスと一緒に死ぬ覚悟は出来ていました。仮に弟子たちがイエスを守るために共に戦い、共に捕らえられて処刑されたとしたら、そこに殉教という美談が生まれたかも知れませんが、教会は生まれなかったでしょう。何故なら弟子たちは逃げたからこそ復活の証人になったのです。神は「弟子たちの裏切りという悪を、復活の証人になるという善に変える力」を示されたのです(創世記50:20)。
・弟子たちは皆イエスを裏切って逃げました。彼らは最も大事な人を裏切ってしまったという罪責感に苦しめられたことでしょう。その苦しみが復活のイエスとの出会いを生み、イエスが自分たちを既に赦しておられることを知り、もう一度立ち上がり、以後は再びイエスを裏切らない存在に変えられていったのです。マルコ14:28はその弟子たちの信仰告白の大事な言葉なのです。人は自分の弱さを知る時に最も強くなることが出来ます。弟子たちは十字架を前にして逃亡し、逃亡先でイエスと出会い、その真理を知りました。人間的な覚悟や勇気は、まさかの時には何の役にも立ちません。人は一度精錬されて(砕かれ、溶かされて)、新しく鋳造されることを通して、神の子とされていくのです。イエスが引用されたゼカリヤは次のように続きます「三分の二は死に絶え、三分の一が残る。この三分の一を私は火に入れ、銀を精錬するように精錬し、金を試すように試す。彼がわが名を呼べば、私は彼に答え、『彼こそ私の民』と言い、彼は『主こそ私の神』と答えるであろう」(ゼカリヤ13:8-9)。残された者から神の国が形成される。イエスを裏切り、自分の弱さを知った弟子たちによって、新しい教会が形成されていくのです。

3.弱さを知る故に強い

・今日の招詞に第二コリント13:4を選びました。次のような言葉です「キリストは、弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力によって生きておられるのです。私たちもキリストに結ばれた者として弱い者ですが、しかし、あなたがたに対しては、神の力によってキリストと共に生きています」。パウロがコリント教会に送った手紙ですが、「キリストは弱さの故に十字架につけられた」という大胆な発言をしています。イエスが十字架につけられた時、その場所には兵士たちや祭司長たちが並び、木に掛けられたイエスを侮辱して言いました「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、十字架から降りて自分を救ってみろ」(15:29-30)、「他人は救ったのに自分は救えない。メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう」(15:31-32)。強い者であれば十字架から降りてその強さを誇示するでしょう。しかし、イエスは十字架上で絶叫して死んで行かれました。それはこの世の基準から見れば「弱く、愚かな死」でした。
・しかし神はこのキリストを死から「起こされた」。今やキリストは復活して強い。私パウロもあなた方から見ると、風采は上がらず、弁舌もさわやかではないだろうが、キリストと共に死に、キリストと共に起こされた、だから今は強いとパウロは主張します。そしてパウロは言います「力は弱さの中でこそ十分に発揮される」(2コリント12:9)。これこそが「弱さの中の強さ」、信仰者の強さです。
・イエスがゲッセマネの園で捕えられた時、弟子たちはみな逃げました。ペテロも逃げましたが、イエスのことが気にかかり、遠くからイエスについて行きます。彼が大祭司の邸の中庭まで入り込み、イエスの様子をうかがっていた所、大祭司の女中がペテロを見て、「あなたはナザレ人イエスと一緒にいた」と言います。ペテロはあわてて、「私は知らない」と応答します。ペテロは臆病ではありません。イエスが捕えられた時、彼は剣をもって相手に立ち向かい、他の弟子たちが逃げ去っていった中で、危険を冒して大祭司の邸まで来ました。そのペテロの勇気が女中の一言で吹き飛んでしまいます。女中はペテロを再度見つめ、「やっぱり仲間だ」とそばの人々に言い、ペテロは重ねて否定します。他の人たちもペテロを見て言います「確かにあなたも仲間だ。言葉にはガリラヤなまりがある」。ペテロは呪いの言葉を吐きながらそれを否定しました。
・その時、鶏が鳴き、その鳴き声でペテロは我に帰り、イエスが言われた言葉を思い出します。「にわとりが二度鳴く前に、三度私を知らないと言うであろう」(14:30)と。ペテロは外に出て泣いた(14:72)とマルコは伝えます。ペテロはイエスを裏切りました。その自責と後悔の念がペテロに涙をもたらし、その涙によってペテロは砕かれ、精錬されて行きました。ペテロがイエスを知らないと嘘をついたように、人はいつも嘘をつきます。人は他人の目を気にしながら生きています。他人が自分をどう見ているか、そのことで人は幸せになったり不幸になったりします。人から拒絶されたくないばかりに、人から良く見られようとして自分を偽ります。そこに人の弱さがあり、その弱さを見つめよと聖書は言います。聖書は弱さを否定しません。むしろ弱さを認めることによって、本当に強い人間になれると主張します。
・神は全てをご存知です。私たちがいざと言う時には最も大事な人さえ裏切る存在であることもご存知です。神が全てをご存知であれば、私たちはもう偽装する必要はなく、嘘をつくことも、自分を良く見せることも不要です。罪あるままで赦されたのですから、もう自分を正当化するために嘘をつくことも不要であり、全てを無かったことのように忘れ去る必要もありません。何よりも、私たちがイエスを捨ててもイエスは私たちを捨てられない。この赦しによって回復は始まります。人は弱い、過ちを犯す存在です。しかし神はその過ちを責められません。その弱さを通して神は行為されます。自分が弱いことを認め、その弱さをも神が受け入れ、赦してくださる事を知る時に、人は挫折から立ち直ることが出来ることを、弟子たちの裏切り体験は私たちに教えます。

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