1.割礼と救い
・パウロ書簡を読み続けています。今日、読みますのは「ガラテヤの信徒への手紙」です。ガラテヤは当時の小アジア、今日のトルコ中央部(首都アンカラ周辺)を指しますが、パウロは二回目の伝道旅行(49~52年頃)の時にこの地を訪れて宣教し、そこに少人数の異邦人信徒の教会が設立されました(使徒16:1-5)。後にパウロの弟子となったテモテはこのガラテヤ出身です。数年後パウロはこの地方を再度訪れ(53~56年頃)、教会の人々を励ましています(使徒18:23)。ガラテヤの人々はパウロの語る福音に熱心に耳を傾け、まるでパウロが「神の使いであるかのように、また、キリスト・イエスででもあるかのように、受け入れてくれました」(4:14)。ところがその後、エルサレム教会から派遣された伝道者たちがガラテヤ教会を訪れ、「モーセの戒めに従って割礼を受けなければ救いは完成しない」として人々を説得し、教会の人々もこれを受け入れ、割礼を受ける人も出て来ました。パウロはそのことを知り、手紙を書き送ります。それがガラテヤ書です。
・パウロはガラテヤの人々がエルサレム教会の伝道者の勧めに従って割礼を受けようとしているのを聞き、驚いて手紙を書いています。彼は言います「キリストの恵みへ招いてくださった方から、あなたがたがこんなにも早く離れて、ほかの福音に乗り換えようとしていることに、私はあきれ果てています。ほかの福音といっても、もう一つ別の福音があるわけではなく、ある人々があなたがたを惑わし、キリストの福音を覆そうとしているにすぎないのです」(1:6-7)。エルサレムから来た伝道者たちはイエスの十字架と復活を否定したわけではありません。ただ、当時のエルサレム教会はまだユダヤ教の影響下にあり(ユダヤ教ナザレ派)、改宗のしるしとしての「割礼」と、信仰のあり方としての「律法遵守」を求めていました。しかしパウロはこれをとんでもないことだと拒否します「人が律法のお陰で義とされるとすれば、それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます」(2:21)。そして断言します「もし割礼を受けるなら、あなたがたにとってキリストは何の役にも立たない方になります」(5:2)。
・パウロはガラテヤの人々に割礼を勧める伝道者たちを激しく非難します「あなたがたをかき乱す者たちは、いっそのこと自ら去勢してしまえばよい」(5:12)。割礼は男性性器の包皮を切り取る行為で、元来は砂漠の不衛生の中で、体を清潔に保つために与えられた戒めです。神はユダヤ人の父祖アブラハムに「選びのしるしとして割礼を受けなさい」と言われ、それ以降、ユダヤ人の男子は生まれてから8日目に割礼を受けるようになりました。パウロの反対者たちはその割礼をガラテヤの異邦人信徒に強制しようとしています。パウロはそんなに肉のしるしがほしければ、去勢してしまえばよいとさえ言っています。「割礼」というユダヤ人が大事にする習慣を「去勢と同じだ」と断言する、この割礼をめぐる激しい議論の中で,ガラテヤ6章が語られています。
2.何故割礼にこだわるのか
・6章11節でパウロは「ここからは自分の手で大きな字で書きます」と言います。彼はここまで口述筆記で手紙を書き取らせていましたが、「ここからは自分の字で」書きます。何故ならば非常に大切なことを今から書くからです。パウロは続けます「肉において人からよく思われたがっている者たちが、ただキリストの十字架のゆえに迫害されたくないばかりに、あなたがたに無理やり割礼を受けさせようとしています」(6:12)。エルサレムに誕生したばかりの教会は、ユダヤ教側から異端の疑いで見られていました。教会はユダヤ教の教えである律法を守らないとして繰り返し迫害を受けています。そのためエルサレム教会は新しく生まれた異邦人教会の人々に割礼を受けさせ、律法を守らせることで、ユダヤ教からの迫害を避けたいと考えていました。そのため異邦諸教会に伝道者を派遣して、割礼を受けるように指導していたのです。エルサレム教会の伝道者にも言い分はありました「生まれたばかりの教会は厳しい環境の中にあり、その中でどのようにして教会を守り、広めていくかを考えると、無駄な軋轢は避けたほうが良い」。また、割礼は旧約聖書に定めてある契約のしるしです。彼らは言ったことでしょう「神はユダヤ人を選びの民とされ、しるしとして割礼を受けよと命じられた。私たちは良きユダヤ人であってこそ、初めて良きキリスト者になれるのではないか。割礼を受けることが何故反キリストになるのか」。
・同じ事を戦時中の日本の教会も言いました「良き日本人であることが良きキリスト者の基本だ。日本人として天皇陛下を敬うのは当然であり、国が東亜共栄圏の理想を推し進めているのであれば、教会も協力すべきだ」。戦時中の教会は、敵性宗教を信じる非国民として社会から排斥されていました。戦前の日本で異端視されていたのは、アカ(共産党)とヤソ(キリスト教)でした。教会は迫害を避けるために、戦争に積極的に賛同し、韓国や中国の反日キリスト者を説得するために宣教師の派遣も行いました。厳しい環境の中で教会を守りたいという行為が、戦争協力になって行ったのです。キリスト者であることより、自分の民族性を第一に考えた。そこに彼らの誤りがありました。エルサレム教会と同じ過ちを犯しています。パウロは教会のそのようなあり方を批判して言います「割礼を受けている者自身、実は律法を守っていませんが、あなたがたの肉について誇りたいために、あなたがたにも割礼を望んでいます」(6:13)。
・パウロはそのような姑息な手段では福音は伝えられないと考えています。彼自身、かつては律法に忠実なファリサイ人として律法を軽視するキリスト者たちを異端として迫害していました。しかし復活のキリストに出会い、自分の間違いを悟りました。だからパウロは言います「私たちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません」(6:14)。パウロは十字架を復活の光の中で見ています。キリストは十字架にかけられましたが、神はこのキリストを死から復活させて下さいました。十字架の苦難があるゆえに復活の栄光がある、受けるべき苦難を受けることによって、神は私たちに栄光を下さるのです。目先の苦難、たとえばユダヤ人からの迫害や同胞からの村八分を避けようとして、するべきでないことをした時、それは神の福音とは異なる福音、人間の教えになってしまいます。そして人間の教えには人の命を救う力はありません。
3.神の愚かさ~十字架を背負う
・今日の招詞にガラテヤ4:19を選びました。次のような言葉です「私の子供たち、キリストがあなたがたの内に形づくられるまで、私は、もう一度あなたがたを産もうと苦しんでいます」。ガラテヤ書は、パウロが伝道し、育ててきたガラテヤ教会の人々が、エルサレム教会から派遣された伝道者の勧めで割礼を受けようとしているのを聞いたパウロが、「とんでもない」として書いた手紙です。そこには随所に激しい言葉が記されています。「私たちがあなたがたに告げ知らせたものに反する福音を告げ知らせようとするならば、呪われるがよい」(1:8)。この激しさが多くの敵対者を生みました。パウロはエルサレム教会の指導者ペテロや彼の恩師バルナバとも激しい論争をしています(2:11-14)。しかし、パウロは攻撃をゆるめません。
・ガラテヤ教会の人々も、またエルサレムからの伝道者も、手紙の激しさにびっくりし、また憤慨したでしょう。伝道者たちに言わせれば「自分たちはキリストの福音を伝えており、ただ同胞ユダヤ人の誤解を避けるために教会の人々に割礼を奨励しただけだ」ということでしょう。またガラテヤの教会員も思ったことでしょう「自分たちはキリストの福音を信じている。ただその信仰に加えて律法の行いを守ろうとするのが何故そんなに悪いのか」。パウロは何故こんなに激しく怒るのでしょうか。それは「異なる福音」が、キリストの恵みを台無しにするからです。
・「異なる福音」は神の教えではなく、人の教えです。人が求めるのは幸福です。その願いに応えて、「割礼を受ければ救われる、戒めを守れば祝福される」という幸福宗教の教えが出てきます。それは救いの決定権を人間が持つことです。割礼を受け、戒めを守れば、救われるのであれば、キリストの十字架は不要です。しかし私たちの救いの根拠は十字架にあります。パウロは言います「私は、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはや私ではありません。キリストが私の内に生きておられるのです」(2:19-20)。この福音の原点に帰るためにパウロは、「もう一度あなたがたを産もうと苦しんで」いるのです。
・パウロは本当に怒って、この手紙を書いています。正面から相手を面罵する手紙を書けば、相手の感情を逆なでし、逆効果になりかねないことをパウロは承知しています。それでも書かざるを得ません。福音の本質が損なわれようとしているからです。この手紙は宗教改革者マルティン・ルターの熱愛の書でした。ルターが戦ったカトリック教会は「イエスを信じる信仰だけでは十分ではない。人は善行を積むことによって救われる」という功績主義を掲げていました。「律法による救い」のカトリック版です。その教会にルターは激しい言葉で、「呪われよ(アナテマ)」を叫びました。まるでパウロのように、です。今日でも教会の中に「善行を積めば救われる」、「信仰すれば幸せになれる」という誤った幸福主義が入り込む危険性があります。私たちはパウロのように、ルターのように、この「異なった福音」を拒否する必要があります。イエスが私たちの為に殺され、イエスの弟子であるパウロやペテロも殺されています。この救いは高価な贖い、命をかけて贖われたものなのです。
・パウロは最後に言います「この十字架によって、世は私に対し、私は世に対してはりつけにされているのです。割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです」(6:14-15)。もし人が神からの招き=福音を受け入れるなら、その人の生き方は根本から変えられます。新しい創造が始まるのです。新しく創造された人は「世に対してはりつけにされている」、世とは異なる価値観に生かされます。私たちが信仰を教会の中だけに留めておけば、すなわち日曜日に礼拝を守る以上のことをしなければ、世との関係は良好に保たれるでしょう。しかし、私たちはどう生きたかを最後の審判の時に問われます。日本のキリスト教会は明治以降150年経っても、信徒数が人口の1%を超えることが出来ません。それは日本人の信仰が個人の救いに留まり、社会的な広がりを持たなかったからです。信仰と生活が分離し、信仰がその人の生き方を変えなかったからです。パウロは「イエスの焼印」(6:17)を身に帯びていると語りました。焼印、迫害のしるしをパウロは身につけていました。私たちもそれを喜んで受ける者となりたいと思います。神の国は既に来ており、私たちの教会は神の国の一部なのです。それは完成していないゆえに問題を抱えた群れではありますが、それでも地上に開かれた神の国の入り口なのです。このことを信じて、教会形成を行いたいと願います。