1.イエスを連れ戻そうとするイエスの家族
・マルコ福音書を読んでおります。先週、私たちは、イエスが行われた癒しの業に対して、エルサレムから来た律法学者たちが、あの男は「ベルゼブル(サタン)にとりつかれている」(3:22)、「狂っている」と批判したことを学びました。そしてイエスの家族もそれに同調して「イエスのことを取り押さえに来た」(3:21)という記事を読みました。イエスはユダヤ教当局者の非難とともに、家族の無理解の中で、その宣教活動を続けられたのです。今日はその中で、「家族の無理解」に焦点を当てて、「家族とはなにか」を考えていきます。
・イエスは30歳の時に洗礼者ヨハネの「悔い改めの呼びかけ」に心動かされ、郷里を出てユダに行かれ、ヨハネからバプテスマを受けられました。その時、イエスに神の霊が下り、イエスは御自分が使命をもって世に遣わされた事を自覚されました。その後イエスはガリラヤに戻って宣教活動を始められます。その最初の言葉は「時は満ち、神の国は近づいた」(1:15)という言葉でした。イエスは言葉と同時に、周りの人々が苦しむさまを見て憐れまれ、人々の病気を癒され、悪霊を追い出されました。群集はイエスの業を見て「神の力が働いている」と称賛し、エルサレムの宗教指導者たちは、イエスは「サタンの力で業を行なっている」と非難しました。その中でイエスの家族たちは「イエスのことを聞いて取り押さえに来た」(3:21)。
・イエスの父ヨセフはイエスが10代の時に亡くなったようです。父亡き後、イエスは長男として、一家の生計を担うために、大工の仕事に従事されていました。マルコ6章3節によりますと、イエスには4人の弟と2人の妹がいました。イエスは家族を養うために30歳の時までナザレで働いておられたようです。しかし、30歳を過ぎて家を出てヨハネ教団に入り、ヨハネが処刑された後も、家に帰らず、巡回伝道者となられました。家族にとって見れば、長男たる者が責任を放棄して家を飛び出し、エルサレムの律法学者たちから危険人物とのレッテルを貼られている、これは何とかしなければいけないと思ったのでしょう。常識的に見れば家族がイエスを取り押さえに来た動機は理解できます。しかし神の目から見れば、家族の行動は「神の国運動」の妨害行為となります。家族がイエスを取り押さえるために来たというマルコの記事は、後に書かれたマタイやルカの福音書では削除されています。イエスの兄弟たちはイエスの死後、教会の指導者になっていきますが、その兄弟たちが生前のイエスを信じなかったばかりか、宣教を妨害しようとしたことを書く事をはばかったのでしょう。しかし、事実はマルコの言う通りです。「預言者は郷里では受け入れられ」(6:4)なかったのです。
・律法学者たちは何故イエスを「気が狂っている」と判断したのでしょうか。当時の人々は奇跡を信じており、ある人が霊の力によって悪霊を追い出したり病気を癒したりしても、「気が狂っている」とは言いません。しかしイエスに対してはそう思いました。それはイエスが律法に対して自由な態度を取られたことを反映しています。イエスは癒しの業の多くを安息日になされています。あえて安息日に癒しを行うことにより、安息日律法より大事なものがあることを伝えるためです。また汚れたものには触れてはいけないという清浄規定を無視して、らい病の人に手を触れて癒し、汚れたとされる人々と食卓を共にしました。それらの行為は、モーセ律法を「神聖で犯すべからず」と考える律法学者たちには狂気の沙汰としか思えませんでした。そのため、律法学者たちはイエスを「あの男はベルゼブル(サタン)にとりつかれている」(3:22)と批判したのです。身内の者たちがイエスを取り押さえに出て来たのは、都の偉い学者たちから「狂っている」と評価されるような息子の行為を理解できなかったのでしょう。その物語の続きがマルコ3:21以下、今日の聖書箇所です。
2.神の家族
・イエスは宗教的権威者たちからは「サタンの手先」という烙印を押され、母や兄弟たちからは「狂っている」として理解されませんでした。それにもかかわらず、イエスは神の国の宣教を続けられます。それはイエスの中に人間の理解を超えた使命感、「神の国が来た、世の中が根本から変わろうとしている」という緊迫感があったからでしょう。並行箇所のルカ11:20でイエスは言われます「私が神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」。そのようなイエスに従い、言葉に耳を傾ける者たちがイエスを囲んで座っています。弟子たちや悪霊を追い出された人たち、病気を癒された人々、「罪人」と排斥されていた人々(2:15)が、イエスを取り囲んで話を聞いていました。
・イエスの母と兄弟たちはイエスのところに来ましたが、家の中に入ろうとせず、「外に立ち、人をやってイエスを呼ばせ」(3:31)ます。「外に立ち」、イエスの話を聞こうとしない家族の気持ちが現れています。伝言者はイエスに言います「御覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます」(3:32)。それに対してイエスは「私の母、私の兄弟とはだれか」と答えられます。イエスは実の家族に対して、「私はあなた方を知らない」と言われたのです。これは血縁を大事にし、家族が共同体として暮らしていたユダヤ人には受け入れがたい言葉です。おそらく、その過激さえ故に記憶され、伝承されたイエスの肉声でしょう。その後、イエスは彼の話を聞いていた人々の顔を見つめながら言われます「見なさい。ここに私の母、私の兄弟がいる」(3:34)。そして言われます「神の御心を行う人こそ、私の兄弟、姉妹、また母なのだ」(3:35)。血の繋がった者だけが家族ではなく、信仰で繋がった家族、神の家族がここにいると宣言されたのです。
・イエスの家族はイエスの生前には、彼を受け入れることは出来ませんでした。イエスはこの後、肉の家族を持たない者として生きられます。イエスは彼に従う弟子たちにも家族を捨てるように求められます「私よりも父や母を愛する者は、私にふさわしくない」(マタイ10:37)。「私のため、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも・・・後の世では永遠の命を受ける」(マルコ10:29-30)。この厳しい言葉の背景には、実の家族に理解されないイエスの悲しみがあるような気がします。イエスの家族もこれ以降はイエスに関わろうとはしませんでした。ヨハネ福音書は書きます「兄弟たちも、イエスを信じていなかった」(7:5)。イエスが捕らえられ、処刑された時も、イエスの家族はその場にいませんでした。
3.家族を超えた家族の形成
・今日の招詞に使徒言行録1:14を選びました。次のような言葉です「彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた」。かつてイエスの家族たちは、家を飛び出し、放浪伝道を続けられるイエスを受け入れることが出来ず、イエスは故郷喪失者として生きられました。ルカ福音書にイエスの言葉が残されています「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない」(9:58)。自分には帰るべき家がないという寂しさをイエスは告白されています。また「神の御心を行う人こそ、私の家族なのだ」というイエスの言葉の中には、血の繋がった家族に理解されない悲しみがあるように思えます。教会に十字架があるように、それぞれの家庭にも十字架があります。イエスの家族もそれを抱えていました。イエスは家族の理解を得られないままに、その使命を果たして行かれます。
・やがてイエスはユダヤ教指導者の憎しみを受け、告発され、捕らえられ、十字架で殺されます。その場にはイエスの家族は不在でした。ここに「私の家族がいる」といわれた弟子たちも、逃げ去っていませんでした。イエスの最後の言葉は「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」(15:34)というものでした。イエスは神にも家族にも弟子たちにも捨てられて死んでいかれたのです。しかしそれで終わりませんでした。神はそのイエスを死から復活させられ、この復活を通して、イエスこそ神の子と信じる群が起こされ、彼らは教会を形成して行きます。人々は共に集まり、共に祈りました。その群れの中に、かつてはイエスを受け入れることが出来なかったイエスの家族も招かれています。使徒言行録は記します「彼ら(弟子たち)は都に入ると、泊まっていた家の上の部屋に上がった・・・彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた」。
・ここに十字架と復活の出来事が、かたくなだったイエスの家族たちの心を砕いていった奇跡を見ることができます。イエスの弟ヤコブはおそらくはイエス排斥の筆頭者であったと思われますが、復活のイエスと出会って変えられ、やがてはエルサレム教会の指導者となり、紀元62年にはユダヤ教徒の迫害の中で殉教しています。かつてはイエスに激しく反発していた弟ヤコブが、「イエスの名」のために死んでいく者になったのです。手紙の中で彼は述べます「神と主イエス・キリストの僕であるヤコブ」(ヤコブ1:1)。十字架と復活が肉の家族を超える新しい家族を形成するという出来事が起こったのです。
・神の家族が集う場所、それが教会です。しかし、地上の教会は不完全な群です。イエスの下に集まった人々が十字架の現場では逃げ去ったように、ここに集まった人の中でもやがて教会を離れる人もいるでしょう。しかし、離散した弟子たちが再び集められたように、教会を離れた人々もやがて戻って来ます。その戻り先がこの教会でなくとも良いのです。また、教会に集うすべての人々が互いに愛し合っているわけではありません。嫌いな人もいるでしょうし、無理解や仲違いもあります。しかし、それでもなお、「神の御心を行う人こそ、私の兄弟、姉妹、また母なのだ」という御言葉は崩れません。「神の御心を行う人」とは、イエスに繋がることを通して神の家族とされた人々です。地上の血縁関係は人と人の横の繋がりです。ですから人間関係が崩れるようにその関係も崩れます。しかし神の家族は、イエスを通して神と繋がる縦の関係が基本になる家族です。神と繋がるからこそ、お互いが神の子として家族になり、お互い同士の関係が崩れても、家族関係は崩れません。その象徴が十字架です。十字架を共に仰ぐことを通して「敵意という隔ての壁」(エペソ2:14)が取り除かれることを信じる群れです。私たちは、「血筋によらず、ただ神によって生まれた」者として、イエスの兄弟、姉妹、として生き、ここに「神の家族」という共同体を形成していくのです。