1.イエスは神の国を宣教された
・私たちはマルコ福音書を読み続けています。イエスは三十歳の時に、バプテスマのヨハネの呼びかけ「神の国は近づいた。悔い改めよ」に心動かされ、郷里ナザレを出てヨルダン川に行かれ、ヨハネからバプテスマを受けられました。その時、イエスに神の霊が下ったとマルコは記します(1:10)。イエスはこの時、御自分が神の子であり、使命をもってこの世に遣わされた事を自覚されたと思われます。神の子として何をしたら良いのか、それを聞くために、イエスは荒れ野に行かれ、40日間の祈りの時を持たれました。準備の時が終り、イエスは宣教活動を始められます。その最初の言葉は「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(1:15)という言葉でした。「神の国は近づいた」、イエスはこの喜ばしい知らせを持って、ガリラヤの町々を、伝道して回られました。しかし、神の国が近づいたのに、人々は相変わらず貧しく、病気になっても医者の治療も受けられず、律法を守ることの出来ない人々は「罪人」として社会から排除されていました。イエスは彼らを憐れまれ、病気の人をいやし、悪霊を追い出されました。群集はイエスの業を見て「神が働かれている」と称賛し、エルサレムの宗教指導者たちは、イエスの業は「サタンの業だ」と非難しました。その問答を記したのが今日のマルコ3章の記事です。
・イエスは病いに苦しむ人々や悪霊につかれた人々を憐れまれ、病いを癒され、悪霊を追放されました。その業を通して、イエスの評判は高まり、人々が押し寄せてきました。そこにイエスの家族も来ました。身内の者たちは「イエスは気が変になっている」との評判を聞いて、イエスを取り押さえるために来たとマルコは書きます。30歳になるまで、故郷のナザレで家業に従事されていたイエスは、バプテスマのヨハネの呼びかけに答えてユダヤに行かれ、そのまま家に帰らず巡回伝道者となられました。家族は「一家のために働くべき長男が家を飛び出して帰ってこない。そして彼は都の偉い人たちから悪霊がついていると非難されている。息子を家に連れ戻さなければいけない」と考え、カペナウムに来たのでしょう。
・その場には、エルサレムから派遣された律法学者たちもいました。エルサレムの宗教指導者たちはイエスの言動にいらだっていました。正式なユダヤ教の教師としての教育も資格もないのに人々を教え、指導者たちが大事にする律法や神殿儀礼を軽視する男が、民衆の間で人気を博するのは、彼らには耐え難いことでした。「無知な民衆はだまされるかもしれないが、我々はだまされない」、彼らはイエスを非難して言いました「あの男はベルゼブルに取りつかれている」、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」のだと(3:22)。ベルゼブルとはサタン=悪霊の頭の意味です。「イエスの力はサタンから来ている」と宗教指導者たちは攻撃したのです。律法学者たちはイエスが病の癒しや悪霊の追放を行っている、その業を否定することはできませんでした。しかし彼らは自分たちが神聖と考える安息日や浄めの律法を軽視し、汚れているとされた徴税人や罪人と交わるイエスが、神から派遣されたと信じることはできませんでした。彼らは「イエスの力の源泉はサタンだ」と考えざるを得なかったのでしょう。サタン、アラム語サタナーから来る言葉です。
・イエスの時代の人々は、サタンは神に反抗して一つの王国を支配し、その手下に多くの悪霊を従えていると信じていました。時代の子としてイエスも当然にサタンの存在を信じておられました。イエスは律法学者の非難に反論されます「どうしてサタンがサタンを追い出せようか」(3:23)。イエスは言われます「国が内輪で争えば、その国は成り立たない。家が内輪で争えば、その家は成り立たない。同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう」(3:24-26)。悪賢いサタンがそのような愚かなことをするわけがないではないかとイエスは言われたのです。
・そして続けられます「まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ」(3:27)。悪霊が追い出されているとしたら、それはサタンが既に縛り上げられている証拠ではないか。サタンが縛られ、人々がその支配から解放されているならば、神の国(神の支配される時)が来ているのだというイエスの切迫した終末感がここに示されています。
2.その神の国の到来を妨げているあなた方こそサタンではないのか
・今日の招詞に、ルカ11:20を選びました。次のような言葉です。「しかし、私が神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」。イエスの時代、人々は、世界は三段の階層から出来ていると考えていました。一番上は神の世界である天、次は私たち人間が住む地、一番下は悪霊の支配する地下、陰府の世界であり、中間にある人間の世界には下からの悪霊の勢力と上からの神の勢力が共に影響力を及ぼしていると考えられていました。従って、人間の病気や障害といった災いは、悪霊の支配によって起こるのであり、神の支配が及ぶことによって、人間は悪霊の支配から解放されて自由にされるのだと考えられていたのです。病がいやされ、障害が治されることこそが、神の支配が広がっていくことのしるしと考えられていました。だから、イエスは言われました「私が神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」。神の国は来ている、あなたがたは神の国の到来を今、その眼で見ているのだとイエスは言われたわけです。
・それなのにパリサイ人や律法学者はそれを認めようとしません。イエスはその人々に鋭い警告の言葉を放たれます「人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う」(3:28-29)。人間であるイエスの悪口を言い、非難するのはかまわない。しかし神が行っておられる業をサタンの業と非難することは、神の恵みを拒否することではないかとイエスは言われます。イエスは病に苦しむ人の病を癒され、悪霊に苦しめられている人から悪霊を追放されました。人々が病や障害から回復しているのを見ながら喜ぶことをせず、批判ばかりしている。神の国が来て、苦しみからの解放が始まったのに、それを共に喜ぶことが出来ない人々がいる、ここに問題があります。
3.神の国のしるし
・現代の私たちは、病気や障害が悪霊の働きによるものだとは考えません。私たちは、医学の力により、多くの病気を克服してきました。しかし、次から次に新しい病気が生まれています。また、身体の病気以上に私たちを苦しめるものは心の病気です。統合失調症やうつ病が何故起きるのか、どうすれば治せるのかは、今でも良くわかっていません。荒井献という聖書学者は悪霊について次のように述べます「悪霊という土俗信仰的呼称には、ある種の真実性があるのではないか。つまり、人間の精神に外側から及ぼす破壊力を人間は自力ではコントロールできないという真実性である」(荒井献「問いかけるイエス」p195)。私たちは、病気や障害が悪霊の業だとは考えませんが、しかしその破壊力を押しとどめる力はない。私たちの理解を超える大きな悪の力がそこに働いていると思わざるを得ません。
・「神の国は来た」とイエスは言われました。しかし、人々の苦しみは相変わらず続いています。病気や障害で苦しんでいる人は相変わらずいます。イエスが来られても、人々はお互いを傷つけあい、自分勝手に生き、そのエゴが家族や地域社会を壊し、人々を苦しめます。経済的に豊かになっても、自殺者は増え、孤立死も多くなっています。医学の進歩により寿命が伸びれば、今度は寝たきりや認知症が私たちを苦しめます。犯罪も減らず、戦争も終わりません。キリストが来られて何が変わったのだ、世は相変わらずサタンの支配下にあるのではないか、サタンはまだ縛られていない、そう思わざるを得ない現実が私たちの周りにあります。そういう時、私たちキリスト者はどう考えたらよいのでしょうか。
・それを解く鍵が3章後半の34節、35節にあるように思います。前に見ましたように、イエスの家族は「イエスは気が変になった」と考え、ナザレに連れ帰るためにカペナウムに来ましたが、群集が大勢いて家に入れなかったため、人に頼んでイエスを呼び出してもらいました。その時、イエスは周りに集まっていた人々に言われました「私の母、私の兄弟とは誰か・・・見なさい。ここに私の母、私の兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、私の兄弟、姉妹、また母なのだ」(3:34-35)。「神の御心を行う人こそ私の家族なのだ」、このイエスの言葉は、十字架と復活を経て、現実のものとなって行きます。
・イエスの十字架と復活を通して、イエスこそ神の子と信じる群が起こされ、彼らは教会を形成して行きました。人々は共に住み、家族として一緒に暮らしました。その群れの中に、かつてはイエスを信ぜず迫害したイエスの母や兄弟たちも招かれています(使徒1:14)。私たちはそこに十字架と復活が、無理解だったイエスの家族の心を砕いていった足跡を見ることができます。この神の家族の形成こそ、神の国のしるしです。教会は2000年の間、いろいろな問題を抱えながらも、継続されてきました。そして今、私たちもこの篠崎の地に教会を形成しました。
・地上の教会は不完全な群れです。家族といっても共に住むわけでもなく、一週間に一回しか顔を合わせません。しかし、神の国を先取りしている希望の共同体です。そこでは「神の御心を行う人こそ、私の兄弟、姉妹、また母なのだ」という御言葉が通用する共同体であり、過ちを犯した者も招かれ、私たちのこの世的欲望=サタンの業が打ち砕かれる所です。イエスの十字架と復活を通して、サタンの支配の及ばない場所が生まれ、その場所は世界中に広がっているのです。神の国は来たのです。しかしまだ完成していません。その中でサタンがなお力を振るっているように見える世の中にあって、サタンに従う事を拒否する群が形成されています。私たちの教会もその枝の一つです。ここにおいては、他者の為に祈ることの出来る群が形成されています。パウロは人々に勧めました「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」(ローマ12:15)。私たちは共に喜び、共に泣くことを通して神の家族になって行き、イエスが戦われた戦いを継承していく群になって行くのです。最後にマルティン・ルターの言葉を聞きましょう「私たちはただ神の力を知っているだけでは十分ではない、悪魔の力を知らなければいけない。そしてその力強い悪魔に打ち勝つことの出来ない自分の弱さを知って、ただ福音にのみ頼ることを学ばなければいけない」。