江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2012年2月19日説教(ルカ19:1-10,ザアカイの癒しと救い)

投稿日:2012年2月19日 更新日:

1.徴税人ザアカイとイエスの出会い

・ルカ福音書を読んでおります。ルカは他の福音書にはない、イエスとの出会いによって変えられた多くの人々のことを語ります。先週読みました「癒された10人」の物語もルカ独自のものです。「イエスがエルサレムに上られる途上で、10人のハンセン病者たちがイエスに癒しを求めた。イエスは彼らを憐れみ、癒された。しかし、感謝して戻ってきたのは、サマリア人一人であった」。お互いが病の苦しみの中にある時はユダヤ人もサマリア人もありませんでしたが、日常生活に復帰した時、差別が再燃します。その差別の中でサマリア人は癒された恵みに感謝し、ユダヤ人は「救われて当然」と思う故に感謝できません。社会の中で差別されていたサマリア人は救われ、自分たちは神の民だと思っていたユダヤ人は救いに漏れるという物語でした。ルカは社会的に疎外されていた人々はその疎外のゆえにイエスを求め、救いに預かると強調します。今日読みます徴税人ザアカイの物語も差別されていた男の救いの物語です。
・物語を読んで行きましょう「イエスはエリコに入り、町を通っておられた。そこにザアカイという人がいた。この人は徴税人の頭で、金持ちであった」(19:1-2)。エリコは交通の要所でしたので、そこには収税所(税関)があり、その長がザアカイでした。彼は徴税人の頭、徴税請負人です。ユダヤを支配していたローマと徴税請負契約を結び、通行税や関税を徴収する仕事をしていたのです。異邦人のために働くことでユダヤ人同胞からは「汚れた者、罪人」と軽蔑され、またしばしば利益を増やすために不正な課税を行い、過酷に取り立てていたため、人々から嫌われていました。クリスマス・キャロルのスクルージのような人でした。そのザアカイがイエスを見ようと通りに出てきました。しかし「背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった」(19:3)。そのため彼は「走って先周りし、いちじく桑の木に」登りました。
・ザアカイは何故そこまでしてイエスを見たかったのでしょうか。彼は金持ちで社会的地位もありました。しかし人々から嫌われ、冷たい視線の中にさらされていた孤独な人でした。そこにメシアと評判されるイエスが来られた。噂ではそのイエスの弟子には同じ徴税人のレビがいました(5:27-32)。ユダヤ教社会で差別され、疎外されていた徴税人をあえて弟子にするイエスの人柄に彼は心惹かれたのでしょう。だから「ぜひ会いたい」と思った。ザアカイはイエスに会いたい一心で走って先回りし、木に登りました。人々はザアカイのそんな姿を見て笑ったことでしょう。社会的地位も富もある、大の大人が、思いつめたように走り、木に登ったりしたのです。
・イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われました「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」(19:5)。この箇所は英語訳聖書で「I must stay at your house」と訳します。原語のギリシャ語を見ると「デイ~しなければならない」という言葉が使われています。直訳すれば「今日、あなたの家に泊まらなければいけない」。人に笑われても良い、とにかくイエスを一目見たい、そのザアカイの一途な求めにイエスは感動されたのです。その感動がイエスにザアカイの家の客になることを決意させます。この決意は摩擦を伴うものでした。徴税人の家の客になることはユダヤ人民衆の批判を受けることだからです。ザアカイはイエスから声をかけられ、びっくりし、また喜びました。誰もが汚いものでも見るような目で彼を見ていました。しかしこの方は違う、自分の家に泊まると言ってくださった。「ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた」(19:6)という表現の中にザアカイの喜びが示されています。
・しかしそれを見ていた人々はつぶやきます「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった」(19:7)。ガリラヤでも人々はイエスの自由な振る舞いにつぶやいています。イエスが徴税人たちと食事を共にしていると、パリサイ派の人々は言いました「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」(15:2)。自分を正しいと誇る人は、罪人が救われることを喜ぶことができないのです。しかしイエスはそうではありませんでした。イエスのこの開放的な態度、ザアカイに対する信頼の眼差しがザアカイを変えていきます。

2.徴税人ザアカイの悔い改め

・ザアカイは立ち上がって、イエスに言います「主よ、私は財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します」(19:8)。ユダヤの律法では誤ってお金を取り立てた場合は、元金と共に五分の一の賠償金を払い、盗んだ場合は二倍にして返せと定めていました。ザアカイはそれを四倍にして返すと申し出ています。また施しをする場合は最大でも財産の五分の一を提供すれば良いという規定がありましたが、ザアカイは財産の半分を施しますと誓いました。いずれも律法の求め以上のものを弁済すると申し出ています。ザアカイはここで、「今まで自分は人々から税金を強奪して財産を築きあげてきた。そのようにして築いた財産の半分は返す、また今後二度と人々から騙し取ることはしない」と誓っているのです。
・イエスはザアカイの申し出を喜ばれました「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである」(19:9-10)。前にこの箇所を神学校の入学式で説教したことがあります。「偏見から自由なイエスとの出会いがザアカイを変え、彼は言います『主よ、私は財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します』。イエスはザアカイの献身を喜ばれます『今日、救いがこの家を訪れた』。別の徴税人レビの召命物語がルカ5章にあります。イエスはレビが収税所に座っているのを見かけて、「私に従いなさい」と言われました。レビは『何もかも捨てて立ち上がって』イエスに従います。イエスは、レビには『従いなさい』といわれながら、ザアカイには『従う』ことを要求されませんでした。ザアカイもすべてを捨ててイエスに従うとは言いません。ザアカイは徴税人をやめないのです。ただ自分の置かれた場で精一杯、正しいことを行い、貧しい人を大切にして生きようという決意し、イエスはその決意を受け入れます」。
・「ザアカイ的献身の代表者は使徒パウロです。彼は天幕職人として経済的に自立しながら伝道していきました。彼は言います『主は、福音を宣べ伝える人たちには福音によって生活の資を得るようにと、指示されました。しかし、私はこの権利を何一つ利用したことはありません』(第一コリント8:14-15)。おそらく、教役者を経済的に支えるだけの余裕のない教会が多かったから、パウロは自活伝道者として生きたのでしょう。日本の多くの教会も、牧師に世間並みの給与を支払うだけの経済力に欠けています。その時、自分の稼ぎで教会を支える、そのようなたくましい牧師が必要とされています。皆さんが働きながら夜間神学校で学んでいることはその日のための訓練を受けていることを意味します。全日制で学ぶ神学生に対して引け目に思うことは何もない。むしろ誇るべきなのです」。そのような話をしました。いろいろな献身を神は必要とされている、そしてザアカイ的献身の在り方は、私たちの献身の可能性を広げるものです。

3.求めよ、そうすれば与えられる

・今日の招詞にルカ18:42を選びました。次のような言葉です「そこで、イエスは言われた『見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った』」。ザアカイ物語の前に、盲人バルティマイの癒しの話があります。ルカでは盲人の名前は記載してありませんが、マルコではバルティマイと呼ばれています(10:46)。同じエリコでの出来事です。ルカ18章を読んでみます「イエスがエリコに近づかれたとき、ある盲人が道端に座って物乞いをしていた。群衆が通って行くのを耳にして、『これは、いったい何事ですか』と尋ねた。『ナザレのイエスのお通りだ』と知らせると、彼は『ダビデの子イエスよ、私を憐れんでください』と叫んだ。先に行く人々が叱りつけて黙らせようとしたが、ますます『ダビデの子よ、私を憐れんでください』と叫び続けた」(18:35-39)。人々はこの男を黙らせようとしましたが、彼は必死にイエスに叫び続けます。イエスは彼の必死さを見て、彼に声をかけられます「何をしてほしいのか」。盲人は答えます「主よ、目が見えるようになりたいのです」。その時イエスが言われた言葉が今日の招詞「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った」という言葉です。
・この物語とザアカイ物語には共通点があります。共に必死に求め、イエスがそれに答えて下さったという点です。人生の機会は一度しかありません。バルティマイもザアカイも自分の前に来た機会を逃しませんでした。福音書の奇跡物語はほとんどが無名の人の出来事ですが、少数の人は名前が残されています。名前の残った人々はその後弟子たちの群れに加わり、教会内で名前が知られる人になったことを意味しています。ザアカイは最後にはカイザリアの司教になったと伝えられています。「失われていた」ザアカイが「見出された」のです。多くの人が癒されました。癒しをもたらしたのは神の愛ですが、その愛を呼び覚ましたのは、求める人の熱心でした。「あなたの信仰があなたを救った」のです。
・バルティマイは必死に叫んで目を癒されました。その彼は「神をほめたたえながらイエスに従い」(18:43)ました。彼は癒され、そして救われたのです。救いをもたらしたものは彼の応答でした。ザアカイは必死にイエスを求め、木の上にさえ登りました。そしてイエスから言葉をいただきました。彼もまた心の病を癒されたのです。そして癒されたザアカイは献身を申し出、救われました。イエスはそのザアカイに言われます「人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである」(19:10)。私たちもまたこのイエスに出会いました。その出会いを生かすも殺すも私たちのこれからの応答次第なのです。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる・・・天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」(11:9-13)。求めれば与えられます。言い換えれば「求めない者には与えられない」。これは真理です。ザアカイの熱心がイエスの応答をもたらしたように私たちも必死でイエスを求める、そのような教会生活をしたいと願います。

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