1.ソドムの滅亡
・今日私たちは創世記19章を通して、ソドムの滅亡物語を学びます。ソドムの話は新約聖書にも繰り返し出てきます。イエスはガリラヤ湖沿いの町カペナウムで宣教を始められ、そこで多くの不思議な業を為されましたが、人々はイエスを受け入れようとしませんでした。そのカペナウの人々にイエスは言われます「カペナウム、お前は、天にまで上げられるとでも思っているのか。陰府にまで落とされるのだ。お前のところでなされた奇跡が、ソドムで行われていれば、あの町は今日まで無事だったにちがいない。しかし、言っておく。裁きの日にはソドムの地の方が、お前よりまだ軽い罰で済む」(マタイ11:23-24)。罪のために滅ぼされたソドムの町の方が、今イエスを拒絶するカペナウムよりも罪は軽いと言われたのです。ここに出てくるソドムの滅亡が今日の主題です。
・時はアブラハムの時代、紀元前2000年頃の話です。当時、死海沿岸にソドム、ゴモラ、アデマ、ゼボイム、ゾアルの五つの都市があり、考古学者たちは、それらの町々が大きな地殻変動のために湖底に沈んだと推測しています。死海は南北に長い湖で、大きさは琵琶湖の2倍ほどあります。そこは水面下400メートルの低地帯であり、ヨルダン川から水が注がれますが、高温によって蒸発するため、湖の塩分濃度が異常に高く、聖書では「塩の海」(創世記14:3他)とも呼ばれています。死海の沿岸には岩塩やアスファルト、硫黄が蓄積し、おそらくは地震により地層内部のガス爆発が起こり、アスファルトや硫黄に点火し、大爆発と大火災が起き、低地全体が消失し、その後の地殻変動により死海の水が低地を覆うに至ったのではないかと言われています。地政学的には、ヨルダン川から死海、紅海、エチオピヤ、ケニヤへと続くアフリカ大地溝帯(地の割れ目)の上にあり、地溝沿いでは現在でも活発な地震活動と火山活動が続いていることもその推測を裏付けます。
・ソドムにはロトが住んでいました。彼はアブラハムの甥で、幼い頃に父親を亡くし、以後、叔父であるアブラハム夫妻の許で育てられ、彼らと行動を共にすることになります(12:5)。しかし、彼自身が神からの召しを受けたわけではなく、彼はただ叔父アブラハムに従って生きているだけでした。その後、アブラハムとロトの飼っている羊がそれぞれ多くなって、共用の井戸では水がまかなえず、羊飼いたちが争うという事態が起こり、アブラハムは「お前が好きな土地を選びなさい。私たちは別れて暮らそう」と提案します(13:9)。ロトは、その提案を受けて、高台から見える豊かな土地を選びました。それがソドムの地でした。その地域は鉱石の出る山があり、岩塩も取れ、建築材料になるアスファルトなども取れて、天然資源の豊かな地だったのです。ロトは苦労の多い遊牧生活を捨てて、都市生活者になることを選びました。そして、ソドムで結婚をし、子供をもうけ、町の人間になっていました。
・そのソドムの町に主の御使が到着します。町の門にいたロトは彼らを出迎えて、「どうぞ私の家にお泊りください」と勧めます(19:1-2)。町の門では長老たちが集まって訴えを聞いたり、規則を決めたりします。ロトもソドムの暮らしが長くなり、町の長老となっていたのです。二人は「広場で夜を過ごします」と辞退しますが、ロトは強いて二人を家に招きます。町の治安が良くないことを知っているからです。案の定、夜になると町の人々が押しかけて来て「今夜、お前のところへ来た連中はどこにいる。ここへ連れて来い。なぶりものにしてやるから」とわめきます(19:5)、「なぶりものにする」、口語訳では「彼らを知る」と訳されています。二人の御使が若く、美しかったので、性的に「知りたい」と要求してきたのです。ここから男性同士の同性愛のことを「ソドミー」と呼ぶようになります。道徳の乱れは性の荒廃を招きます。ソドムの町の風紀は乱れていました。
・ロトは客人を差し出すこと拒否します。すると町の男たちは怒って叫び始めます「そこをどけ。こいつは、よそ者のくせに、指図などして」(19:9)。ロトは20年近くソドムに住んでいましたが、まだ町の人々の本当の信頼を勝ち得ていなかったことがここに示されています。二人の御使はソドムの罪が極限にまで達しているのを確認し、暴徒たちの目を見えなくし、町を滅ぼすことを決意します。そしてロトに「家族を連れて逃げなさい、この町は滅ぼされるから」と督促します。ロトには既に嫁いだ娘たちがおり、彼らの家に急いで行き、一緒に逃げようと誘いますが、婿たちはロトの話を間に受けず、断ります。ロトは親戚からも信頼されていないことがここに明らかになります。
2.ロトと家族の避難
・日の出と共に裁きが始まりました。御使たちはロトに急ぐように言いますが、ロトはためらいます。本当に町が滅ぼされるのかどうか半信半疑なのです。御使たちはそのようなロトを急かし、言います「命がけで逃れよ。後ろを振り返ってはいけない。低地のどこにもとどまるな。山へ逃げなさい。さもないと、滅びることになる」(19:19)。今回の震災でも、津波はたいしたことはないだろうと判断して、逃げ遅れて亡くなった方が大勢出ました。「命がけで逃れよ。後ろを振り返ってはいけない。低地のどこにもとどまるな。山へ逃げなさい」という言葉はまさに今回の震災が残した教訓です。しかし、ロトは御使に抗弁します「主よ、できません。あなたは僕に目を留め、慈しみを豊かに示し、命を救おうとしてくださいます。しかし、私は山まで逃げ延びることはできません。恐らく、災害に巻き込まれて、死んでしまうでしょう。御覧ください、あの町を。あそこなら近いので、逃げて行けると思います・・・どうか、そこで私の命を救ってください」(19:18-20)。死海沿岸の五つの町のうち、ゾアルだけが消失をまぬがれています。
・いよいよ主の裁きが始まります。創世記は記します「太陽が地上に昇ったとき、ロトはツォアル(ゾアル)に着いた。主はソドムとゴモラの上に天から、主のもとから硫黄の火を降らせ、これらの町と低地一帯を、町の全住民、地の草木もろとも滅ぼした。ロトの妻は後ろを振り向いたので、塩の柱になった」(19:23-26)。ロトの妻は出てきた場所を振り返り、逃げ遅れました。そこには自分の娘たち、おそらくは孫たちもいたのでしょう、家族が気になって逃げることができず、火に巻かれて亡くなったのでしょう。今回の震災でも、家族が避難できたかが気になって自宅に戻り、そこに津波が押し寄せて亡くなられた方も多いと聞きます。一瞬の判断ミスがロトの妻の命を奪いました。このようにしてソドムの町は滅ぼされましたが、ロトと二人の娘は助かりました。
3.アブラハムの執り成し
・このソドム滅亡物語は原因物語と言われています。かつて栄えたソドムの町が何故滅亡したのか、何故数メートルにも達する奇怪な塩の柱があるのか、そこから伝承が生まれ、その伝承を創世記記者(神の名をヤハウェと呼ぶゆえにヤハウェストと呼ばれます)が、アブラハムとロトの物語として編集したのでしょう。先に言いましたように、ソドムの滅亡は地震によるものと思われますが、これをイスラエル人たちは神の裁きと理解し、物語化したのです。しかし、それにもかかわらず、創世記の記すソドム滅亡物語の主題は、ソドムの裁きと滅びではなく、その滅びの中からロトとその家族が救いだされたことにあります。何故ならば、神は裁くよりも遥かに大きく赦し救わんとしておられるからです。今日の招詞に創世記18:32を選びました。次のような言葉です「アブラハムは言った『主よ、どうかお怒りにならずに、もう一度だけ言わせてください。もしかすると、十人しかいないかもしれません』。主は言われた。『その十人のために私は滅ぼさない』」。
・今日は19章から物語を読んできましたが、実はソドム物語は18章16節から始まります。アブラハムの元に主の御使が来て言います「ソドムとゴモラの罪は非常に重い、と訴える叫びが実に大きい。私は降って行き、彼らの行跡が、果たして、私に届いた叫びのとおりかどうか見て確かめよう」(18:20-21)。主はソドムを滅ぼす予定であることをアブラハムに告げられたのです。それに対してアブラハムは執り成し始めます「あの町に正しい者が五十人いるとしても、それでも滅ぼし、その五十人の正しい者のために、町をお赦しにはならないのですか」(18:23-24)。ソドムにはアブラハムの甥ロト一族が住んでいましたので、ソドムの滅亡はアブラハムには他人ごとではなかったのです。主は「その五十人のために町を赦す」と言われます。アブラハムはその後、「45人ではどうか」、「40人では」、「30人では」、「20人では」と問いかけ、最後に「10人の正しい者がいれば滅ぼさない」との主の約束を取り付けます。それが今日の招詞の言葉です「その十人のために私は滅ぼさない」。主なる神は、罪を犯したから町全体を滅ぼすのではなく、罪の町であっても、一人でも正しい人があれば彼を救いたいとの意思をここに明らかにされています。
・物語の最後に創世記記者は記します「こうして、ロトの住んでいた低地の町々は滅ぼされたが、神はアブラハムを御心に留め、ロトを破滅のただ中から救い出された」(19:29)。ロトが正しい人であったからではなく、アブラハムがロトのために執り成ししたゆえに、主はロトを救いだされたと記すのです。ロトは決して正しい人ではありません。19章後半を読むと酒に酔って酩酊し、助けだされた娘たちと交わって子を産ませるような失態を犯しています(19:33「娘たちはその夜、父親にぶどう酒を飲ませ、姉がまず、父親のところへ入って寝た。父親は、娘が寝に来たのも立ち去ったのも気がつかなかった」)。伝承ではこの子供たちが近隣民族のモアブ人、アンモン人になったとされています。しかし主はこのような罪の結果から生まれたモアブ人やアンモン人も差別されません。モアブの婦人ルツからオベデが生まれ、オベデからエッサイが生まれ、そのエッサイの子がダビデです。さらにダビデの子ソロモンはアンモンの婦人ナアマを妻に迎え、そのナアマから跡継ぎのレハブアムが生まれ、その系図がイエス・キリストに繋がっていきます。つまり、イエスの血の中にはモアブ人の血も、アンモン人の血も流れているのです。
・繰り返しますが、創世記の記すソドム物語の主題は、ソドムの裁きと滅びではなく、その滅びの中からロトと家族が救いだされたことにあります。広瀬弘忠先生(東京女子大名誉教授)が今回の震災に関連して、「被災者よりサバイバーとして生きよ」という短文を朝日新聞に寄せています(2011.6.21夕刊)。彼は言います「被災者、避難者という言葉には、自らは無力な被支援者だという禁欲的な自己規定がある。そうではなく、彼らは災害からのサバイバーである。ここで言うサバイバーとは、生きることを積極的に捉えて生き続ける者という意味だ。サバイバーは、生死の境をくぐり抜けて新たな命を獲得した者である」。「自分たちは災害の中から救い出された、自分たちは死ぬべき命を生かされた、そのことを大切にして生きよ」と広瀬先生は言われます。
・今回の震災復興の中で、キャッシュ・フォー・ワークの導入が提案されています。キャッシュ・フォー・ワークとは、復旧作業に被災者を雇用してその対価を被災者に支払い、経済復興と自立支援をはかるプロジェクトです。それは被災者に雇用機会を確保し、最低限の収入を維持しながら、地域経済の自立的な復興を支援すると共に、被災者自身が自らの地域の復興に直接関わることによって、被災者に尊厳と将来への希望を取り戻し、地域の絆を高める意味があります。海外でも災害時に同様の手法がとられ、実績を残しているそうです。「災害の中から救い出された、死ぬべき命を生かされた」者こそ、復興の主役になるべきだとの考え方です。
・命が残された、災害から救われた、生かされた者から新しい命が生まれてきた、ソドム物語が伝える福音を私たちは今日覚えます。イエスは姦淫の罪を犯した婦人に言われました「私もあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」(ヨハネ8:11)。過去に何があったかを問うのではなく、これからどう生きるかが私たちの課題です。創世記19章の中心テーマはソドムの滅びではなく、ロトの救済であったことを再確認する時に、私たちは過去に目を向けて生きるのではなく、将来を主に委ねて生きる力が与えられるのです。