江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2011年2月6日説教(列王記下13:14-21、主の前にどう生きるのか)

投稿日:2011年2月6日 更新日:

1.列王記をどのように読むか
・列王記を読んでいます。列王記はその名の通り、イスラエルの王たちの記録ですが、単なる歴史記録ではありません。それは「説教された歴史」であると言われています。列王記は捕囚地バビロンで書かれました。神の国とされたイスラエルはバビロニアに滅ぼされ、人々は捕虜となって遠い異国の地にいます。何故神は私たちの国を滅ぼされたのか、神は私たちを見捨てられたのだろうか、人々の信仰は揺らいでいました。その人々に対し、「主なる神は生きておられる」、「私たちが今捕囚となっているのは私たちが罪を犯したからだ」、「だから私たちの歴史をもう一度振り返り悔い改めよう、神は赦して下さるかもしれない」として書かれたものが列王記です。その意味で列王記は捕囚民に対する「説教された歴史」なのです。
・列王記は「罪の記録」として王たちの歴史を描きますから、そこでは王が社会的に何をなしたか、どれだけ領土を広げたかではなく、「主の前に正しかったかどうか」が評価基準になります。イスラエル王国はダビデ・ソロモンの繁栄の後に南北に分裂し、北王国は紀元前721年にアッシリヤに滅ぼされました。その北イスラエルの滅亡を描く列王記下17章は次のように記述します「こうなったのは(イスラエルが滅んだのは)、イスラエルの人々が、彼らをエジプトの地から導き上り、エジプトの王ファラオの支配から解放した彼らの神、主に対して罪を犯し、他の神々を畏れ敬い、主がイスラエルの人々の前から追い払われた諸国の民の風習と、イスラエルの王たちが作った風習に従って歩んだからである」(列王記下17:7-8)。つまり主なる神を神とせず、ほかの神を礼拝した、その偶像礼拝が国を滅ぼしたのだと歴史家は考えているのです。
・偶像礼拝が国を滅ぼす、そういうことがあるのだろうかと私たちは思いますが、偶像礼拝は現実の社会の中で根強く私たちを支配しています。何故ならば人は強い者を偶像として拝むからです。アッシリヤに征服された人々はアッシリヤの神々を拝み、バビロンに頼る人はバビロンの神々を拝んでいきます。敗戦後、多くの日本人は勝利者アメリカの宗教であるキリスト教会の門をたたき、国力が回復して自信を持ち始めると教会を離れて行きました。戦前の日本人は「日本は天皇の支配する神の国」と信じ、天皇の命じた戦争を推進し、滅亡への道を走りました。日本は天皇崇拝という偶像礼拝によって行く所まで行き、そこで滅んだのです。その反省から戦後に紀元節(神武天皇即位を祝う日)は廃止されましたが、1967年(昭和42年)建国記念日としてよみがえりました。今週の2月11日が建国記念日ですが、私たちはこの日を「信教の自由を守る日」として覚えます。また、現代の私たちは日米安保条約によって国が守られていると思っていますが、例えば中国と戦争になった時アメリカ軍が日本のために戦ってくれるのか。歴史が示しますのは、どの国家も自国の存亡をかけてまでも他国を助けません。日米安保に賛成するとは、アメリカの軍事力という架空の偶像によって国の防衛を考えていることになります。「偶像礼拝が国を滅ぼした」と考える列王記の記事を学ぶことは、今日の私たちにも大切な意味を持つのです。

2.イスラエルの衰退とエリシャの死
・さて今日のテキストはイスラエル王ヨアシュが預言者エリシャの死が近いことを知って、「わが父よ、わが父よ、イスラエルの戦車よ、その騎兵よ」と嘆くところです。分裂後の北イスラエル王国は次から次に王朝が代わり、周辺諸国からの軍事的圧力を受けて次第に衰退して行きます。列王記の記者は記します「イエフは、心を尽くしてイスラエルの神、主の律法に従って歩もうと努めず、イスラエルに罪を犯させたヤロブアムの罪を離れなかった。このころから、主はイスラエルを衰退に向かわせられた」(列王記下10:31-33)。「ヤロブアムの罪」とは偶像礼拝の罪です。イエフが死に子ヨアハズが王になっても主を正しく礼拝することはなく、主はイスラエルをアラム(シリヤ)の軍隊が蹂躙するに任せられます。ヨアハズの治世に関する記述は記します「イエフの子ヨアハズがサマリアでイスラエルの王となり、十七年間王位にあった。彼は主の目に悪とされることを行い、イスラエルに罪を犯させたネバトの子ヤロブアムの罪に従って歩み、それを離れなかった。主はイスラエルに対して怒りを燃やし、彼らを絶えずアラムの王ハザエルの手とハザエルの子ベン・ハダドの手にお渡しになった」(13:1-3)。
・ヨアハズの子ヨアシュの代になっても状況は変わりません。彼もまたヤロブアムの罪を抜けきることが出来ないままです。列王記は記します「ヨアハズの子ヨアシュがサマリアでイスラエルの王となり、十六年間王位にあった。彼は主の目に悪とされることを行い、イスラエルに罪を犯させたネバトの子ヤロブアムの罪を全く離れず、それに従って歩み続けた」(13:10-11)。
・そのヨアシュに主はエリシャを通して、悔い改めの機会を与えられます。それが今日読みます列王記下13章の記事です。「エリシャが死の病を患っていたときのことである。イスラエルの王ヨアシュが下って来て訪れ、彼の面前で、『わが父よ、わが父よ、イスラエルの戦車よ、その騎兵よ』と泣いた」。エリシャは預言者ですが、ヨアシュ王の祖父イエフに油を注いでイスラエルの王に任命したのはエリシャです(列王記下9:1-10)。以後40年間にわたりエリシャは王たちの助言者として国政を担ってきました。だからヨアシュは、あなたこそ「イスラエルの戦車、騎兵」として国を守って来たと述べ、あなた亡きあとどのように国政を担っていけば良いのかわからないと嘆いたのです。当時イスラエルの最大の敵は北の隣国アラムでした。エリシャはヨアシュに敵国アラムを撃退する機会を与えようとします。列王記は記します「エリシャが王に『弓と矢を取りなさい』と言うので、王は弓と矢を取った。エリシャがイスラエルの王に『弓を手にしなさい』と言うので、彼が弓を手にすると、エリシャは自分の手を王の手の上にのせて『東側の窓を開けなさい』と言った。王が開けると、エリシャは言った『矢を射なさい』。王が矢を射ると、エリシャは言った『主の勝利の矢。アラムに対する勝利の矢。あなたはアフェクでアラムを撃ち、滅ぼし尽くす』」(13:14-17)。主が共にいて下さるからあなたは敵アラムを撃退し、国の安全を保つことが出来るとエリシャは若いヨアシュ王を励ましました。
・エリシャは続けて言います「エリシャは『矢を持って来なさい』と言った。王が持って来ると、エリシャはイスラエルの王に『地面を射なさい』と言った。王は三度地を射てやめた。神の人は怒った『五度、六度と射るべきであった。そうすればあなたはアラムを撃って、滅ぼし尽くしたであろう。だが今となっては、三度しかアラムを撃ち破ることができない』」(13:18-19)。地面に向かって矢を射る、敗退した敵を追って滅ぼすという意味です。しかしヨアシュは優柔不断の王であったため、アラムを滅ぼし尽くすことが出来ない、アラムは依然としてイスラエルの脅威であり続けるだろうと預言してエリシャは死んでいきます。この物語を列王記が記すのは、「もしイスラエルが主の命令通り何度でも地面に矢を射れば、すなわち主の審判が猶予されている間に偶像礼拝の罪を悔改めれば、国の滅びはなかった。しかし、イスラエルはそうしなかった。そのため、最後の審判、滅びの時は近づいて来た」と列王記記者は書いているのです。

3.主の前にどう生きるのか
・今日の招詞にイザヤ49:4を選びました。次のような言葉です。「私は思った、私はいたずらに骨折り、うつろに、空しく、力を使い果たした、と。しかし、私を裁いてくださるのは主であり、働きに報いてくださるのも私の神である」。先に述べましたように、列王記の評価基準は、王が社会的に何をなしたか、どれだけ領土を広げたかではなく、「主の前に正しかったかどうか」です。例えば悪王の典型と言われていますアハブ王は歴史的には卓越した王だと考えられています。近代になってアハブ王時代の建築物が見つかっていますが、アハブ王が建てたものは、他の王が建てたものよりもはるかに高い技術をもって建てられ、また近隣諸国から貢物を受け、軍事力にも優れていたことが分かっています。この世の評価で言えば、成功した王と言えます。しかし、聖書は、アハブを成功した王、偉大な王とは言わず、最悪の王だったと評価します。アハブについて列王記は次のように記します「オムリの子アハブは彼以前のだれよりも主の目に悪とされることを行った」(列王記上16:30)。この世での評価と、神の前での評価は異なるのです。この世でいくら成功し、高い評価を受けたとしても、私たちはそれを墓場まで持っていくことはできない。人の前にどうであったかは、やがて過ぎ去る出来事にすぎないのです。
・信仰者は何が正しいかを人に聞くのではなく、神に聞きます。「主の前にどう生きるのか、あるいは生きたのか」が私たちの評価基準になります。問題は主の目の前にどうであったのかということであり、人々の目にどう映ったかではないのです。その基準で考えた時、私たちの生き方はどうなっているのでしょうか。この世での成功や人々の評価を最優先にしていないか、お金や地位や名誉等の偶像の神々に惑わされていないかどうか、列王記は私たちに人生を振り返ることを求める書なのです。
・明治のキリスト者内村鑑三の書いた「後世への最大遺物」という本があります。講演会の口述筆記ですが、その中で内村は言います「私に五十年の命をくれたこの美しい地球、この美しい国、この楽しい社会、我々を育ててくれた山、河、これらに私が何も遺さずには死んでしまいたくない」。この世に生きた証しを残して死んでいきたい、多くの人々の願いです。では何をこの世に残していけば良いのか、内村は言います「社会が活用しうる清き金か。田地に水を引き水害の憂いを除く土木事業か。書いて思想を遺すことか。教育者となり未来を担う者の胸に思想の種をまくことか。これらは遺すべき価値あるものである。けれど、金や事業や思想を遺すことは、誰にでもなし得る業ではなく、また最大遺物とは言い難い。では、誰でもがこの世に遺すことのできる、真の最大遺物とは、果たして何なのか」。
・最後に彼は言います「誰でも残せる、そして他の人にも意味のある遺物こそは、“高尚なる勇ましい生涯”だ」。内村はその後で、次のように述べます「この世の中は悪魔が支配する世の中にあらずして神が支配する世の中であることを信ずることである。失望の世の中にあらずして希望の世の中であることを信ずることである。この世の中は悲嘆の世の中ではなくして歓喜の世の中であるという考えを我々の生涯に実行して、その生涯を世の中の贈り物として、この世を去ると言うことです」。このような志を持つ人が増えて行くことこそ、私たちの教会の願いです。

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