1.小さき者をつまずかせる弟子たちの群れ
・先週私たちはイエスの2回目の受難予告記事を学びました。そこで明らかにされたのは、死ぬ覚悟を持ってエルサレムに向かわれるイエスを理解しない弟子たちの姿です。イエスは言われました「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される」(9:31)。イエスが弟子たちに受難を再び語られたのは、弟子たちが道々で「誰が一番偉いのか」を議論していたからです。弟子たちはイエスがエルサレムで王になられると思い、その時に誰が一番偉い地位につくかを論じていたのです。その無理解な弟子たちにイエスは言われます「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」(9:35)。そして全ての人に仕えるとは「小さき者を受け入れることだ」(9:37)と言われました。その文脈の中で、今日の話、9:38以下の物語があります。すなわち、「小さき者を受け入れようとしない、あるいは小さき者を排除し、つかずかせる」ことへの警告です。
・イエスの叱責を受けて、弟子の一人ヨハネが名誉挽回にために、自分たちに同調しない者を除名したと告げます「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、私たちに従わないので、やめさせようとしました」(9:38)。ヨハネは雷の子というあだ名をつけられていたとありますので(3:17)、性格が激しかったのでしょう。だから「イエスの名」を無断で使って悪霊追放(癒し)の業を行っている人を見て怒り、このように言ったのでしょう「私たちの主イエスの名を使うのであれば、私たちの許可を受けて欲しい」、そしてもし「私たちに従わないのであれば、二度と主イエスの名を使わないでいただきたい」。ヨハネはイエスがほめてくれると思って報告しますが、イエスはヨハネを叱られます「やめさせてはならない。私の名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、私の悪口は言えまい。私たちに逆らわない者は、私たちの味方なのである」(9:39-40)。そして言われます「キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける」(9:41)。
・「イエスは子どものような者、小さき者を受け入れよ」と繰り返されますが、ヨハネがここで行っているのは、自分たちと考えの異なる者、自分たちに従わない者は排除するという行為です。すなわち「小さき者を受け入れる」代わりに小さき者をつまずかせている、だからイエスはヨハネを叱られたのです。このイエスの叱責は現代の私たちにも向けられています。今日キリスト教会は多くの分派にわかれ、それぞれが正統性を主張し、違う教派や教団を異端として排斥する傾向にあります。「信徒の神学」を著したオランダの神学者ヘンドリック・クレーマーが招かれて日本に来た時、彼は日本の教会をこのように評しています「日本のクリスチャン人口はわずか1%しかいないのに、どうして仲良く出来ないのか、私には解らない。内輪げんかばかりしている。イエスが『私たちが一つであるように、彼等も一つになるため』と祈った(ヨハネ17:11)ことをどう考えているのだろうか」。
・聖書は私たちに「手を開く」ことを求めます(申命記15:11)。「私たちに逆らわない者は、私たちの味方」なのです。もし私たちが誰かを外に締め出すならば、私たちは「すべての人の後になった方=イエス」さえも締め出すのです。教会が閉鎖的になると、そこでは「誰が一番偉いのか」という議論が強くなります。「誰が一番偉いのか」を議論する教会からはイエスは去ってしまわれるでしょう。教会は外に向かって開かれた共同体であれとイエスは言われます。今日、私たちは礼拝の後で「公開建築委員会」を開催し、どのような教会堂を立てたいのかについての話し合いをしますが、その時も「開かれた教会」を建築的にどのような形にするのかが大事な点になります。
2.小さき者をつまずかせるな
・「受け入れる」の反対語が「つまずかせる」です。9:42以下では「つまづかせる」ことの罪が語られています。イエスは言われます「私を信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい」(9:42)。小さな者、社会的、信仰的に弱い者のことです。ローマ14章を読むと初代教会の中で対立があったことが書かれています。パウロは書きます「信仰の弱い人を受け入れなさい。その考えを批判してはなりません。何を食べてもよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜だけを食べているのです。食べる人は、食べない人を軽蔑してはならないし、また、食べない人は、食べる人を裁いてはなりません。神はこのような人をも受け入れられたからです」(ローマ14:1-3)。当時のローマでは肉は異教の神殿に捧げられた後に市場に払い下げられて流通していました。だからある人々は「肉を食べることは異教の神々に帰依する」ことだと考え、肉を食べる人々を「罪人」だと批判しました。他方、全ての食べ物は神の恵みだと信じる人々は肉を食べない人を「信仰の弱い人」と非難していたのです。その人々にパウロは言います「食べ物のことで兄弟を滅ぼしてはなりません。キリストはその兄弟のために死んでくださったのです」(ローマ14:15)。
・「食べ物のことで兄弟を滅ぼしてはなりません」、言い換えれば「食べ物のことで兄弟をつまずかせてはいけない」とパウロは言っています。また使徒言行録は次のような出来事を伝えています「ペトロがエルサレムに上って来たとき、割礼を受けている者たちは彼を非難して、『あなたは割礼を受けていない者たちのところへ行き、一緒に食事をした』と言った」(使徒11:2-3)。ペテロが異邦人に洗礼を授けるために彼の家に行き、共に食事したことがエルサレム教会内で非難されたのです。「無割礼者は汚れている」、「異邦人とは食卓を共にすべきではない」、教会の中においても、排除の論理が働きます。日本の教会では「禁酒禁煙」の伝統があります。神から与えられた体を大事にするのは美しい信仰の行為です。しかしお酒を飲まないクリスチャンは往々にしてお酒を飲む信徒を批判します。「それでもあなたはクリスチャンですか」と彼が問う時、信仰の美しい行為が排除の、つまずきの言葉になっていくのです。教会の中にも罪があり、つまずかせるものがあることを私たちは認識すべきです。
3.自らもつまずくな
・9:43以降に述べられていることは、自らつまずいた時、私たちはどうすべきかの教えです。イエスは言われます「もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい。・・・もし片方の足があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両足がそろったままで地獄に投げ込まれるよりは、片足になっても命にあずかる方がよい。・・・ もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい。両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても神の国に入る方がよい」( 9:43-47)。非常に厳しい言葉です。「手や足や目が罪を犯させる」、私たちの中にある欲望が罪を誘う時です。
・この箇所をマタイはもっとわかりやすい表現で書き直します「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。しかし、私は言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである」(マタイ5:27-29)。もし「姦淫する」ことが「みだらな思いで他人の妻を見る」ことであれば、ほとんどの男性は姦淫を犯していると言えるでしょう。男性にとって性を制御することは非常に難しいことです。
・しかしここで述べられているのは、裁きではなく赦しであることを銘記すべきです。片方の手が罪を犯したらその手を捨てれば、すなわち悔い改めればあなたを裁かないと言われているのです。ヨハネ8章に「姦淫の女の物語」があります。「律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、イエスに言った『先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか』」(ヨハネ8:3-5)。イエスを罠にかけるために、律法学者たちが、姦通をした女性を連れてきました。ここに男はいません。裁かれるのが女性だけであるのは、ユダヤの律法の特色です。イエスは何も答えずに地面に字を書いておられました。
・答えを督促する律法学者にイエスは言われます「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」。これを聞いた者たちは誰も女に石を投げることが出来なくなりました。何故なら「罪を犯したことのない者はいなかった」からです。みんなが去った後、イエスは女に言われます「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか」。そして続けて言われます「私もあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」。イエスは人間の弱さを知っておられ、それゆえに「罪を裁く」のではなく、「悔いる者には赦しを」、そして「赦された者には罪を犯すな」という励ましを与えられます。
・マルコ9章の記事を裁きではなく、赦しと受け入れたときに、私たちに新しい生き方が生まれます。今日の招詞として選びましたのがマルコ9:49-50のような生き方です。次のような言葉です「人は皆、火で塩味を付けられる。塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい」(9:49-50)。
・マルコ9:49-50はマタイ「地の塩」の原型です。マタイは次のように書きます「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである」(5:13)。マタイの文脈では、「弟子であるあなた方は世の塩、世を腐敗から守る礎になるのだ、だから塩気をなくすな、弟子であり続けよ」との意味でしょう。しかし、マルコでは、塩を最後の審判、裁きと意味づけて記しています。「片手が罪を犯せば切り捨てよ、両手のままで地獄に行くより良いではないか」とのイエスの言葉の後に、「人は皆、火で塩味を付けられる。塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか」と語られます。旧約聖書では塩は契約の捧げものを清める存在として出てきます。「穀物の献げ物にはすべて塩をかける。あなたの神との契約の塩を献げ物から絶やすな。献げ物にはすべて塩をかけてささげよ」(レビ2:13)。捧げ物、イエスは「火で塩味をつけられて」捧げられた、あなた方はイエスの十字架の死という出来事を通して贖われた存在なのだ。「だから自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい」。キリストによって贖われたあなた方が人をつまずかせないようにしなさい。自分に厳しく、人に寛容でありなさいと説かれています。パウロは言います「神の栄光のためにキリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに相手を受け入れなさい」(ローマ15:7)。そのような教会を共に形成したい。今度の会堂建築において、「開かれた教会」「赦しあう教会」、そのような私たちの信仰を形に表すような教会堂を主に捧げたいと願います。