江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2009年9月20日説教(マルコ9:30-37、誰が一番偉いのか)

投稿日:2009年9月20日 更新日:

1.イエスは三度の受難予告をされた

・先週私たちは「ペトロの信仰告白」と「最初の受難予告」を読みました (マルコ8:27-35)が、今週はマルコ9章から二度目の受難予告の記事を読みます。マルコには三度(三度目は10:33)の受難予告の記事がありますが、共通の形があります。それはイエスが、「自分は死ぬためにエルサレムに向かう」と弟子たちに告げられても、彼らはその意味を理解できず、逆にエルサレムで受ける自分たちの栄光ばかりを考えているという形です。今日の二回目の受難予告でも同じパターンが見られます。
・イエスと弟子たちはガリラヤを通ってエルサレムを目指して進んで行かれます。その途上でイエスは弟子たちに二度目の受難予告をされます「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」(9:31)。イエスがこの二度目の受難予告をされたのは、弟子たちが先の受難予告を理解せず、相変わらず身勝手な想像ばかりをしていたからです。その身勝手な想像についてマルコは記します「イエスは弟子たちに、『途中で何を議論していたのか』とお尋ねになった。彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである」(9:33-34)。「誰が一番偉いのか」、弟子たちはイエスがエルサレムで王座につかれるだろうと考え、その時に誰が一番良い地位につくべきかを議論していたのです。
・先にイエスはフィリポ・カイザリアで「自分はこれからエルサレム行くが、その地で捕らえられ殺されるだろう」と告知されていますが、弟子たちはイエスがまさか本気でそのことを考えておられるとは思ってもいなかったのです。だからのんきに「誰が一番偉いのか」という議論をしています。その弟子たちは、二回目の受難予告に黙り込みます。マルコは記します「弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった」(9:32)。「怖くて尋ねられなかった」、もしかしたらイエスは本当に死なれるつもりかもしれないと思い始め、確認するのが怖くなったのです。
・その彼らにイエスは言われます「一番先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」。イエスがここで言われているのは「偉くなりたい、自己実現をしたい、それは結構だ。ただ一番前を行く時に他の人の姿が見えなくなる。だからあなたがたは一番後ろにつきなさい。そうすれば前をいく人の姿が見える。そして脱落しそうな人がいれば支えなさい」という愛の勧奨でしょう。その伝えられた言葉をマルコは特別な意味を込めてギリシャ語に翻訳します。「一番先に」という言葉はギリシャ語プロートスです。ラテン語に翻訳するとプリンケプス=第一人者、ローマ皇帝の別称です。マルコが書かれたのは紀元70年頃、64年にはローマ皇帝ネロのキリスト教徒大迫害が起こり、ペテロやパウロが殉教しています。70年にはローマ軍がエルサレムを攻撃・占領して都市を廃墟にしています。偉くなる、一番先になる、あなた方は信仰の先輩たちを殺し、エルサレムを廃墟にしたローマ皇帝のような生き方を目指すのか、イエスは「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」(12:17)と言われたではないか。あなた方の目指す方向性は違うのではないか、「すべての人に仕える者」者になりなさいとイエスは言われているではないかとマルコはメッセージを送っています。
・私たちの社会での偉さの物差しは能力です。「何が出来るか、どのような能力を持っているか」が人間の価値基準になっています。しかし神の物差しでは「小さな者にいかに仕えるか」で偉さが決まります。当然、この世のリーダーシップと神の国リーダーシップも異なってきます。この世のリーダーは人の上に立ち、人を指導します。だからリーダーには能力が求められます。神の国の、あるいは教会のリーダーシップは人の下に立ち、人に仕えることが求められます。そこで必要とされるのは能力ではなく、愛です。だからパウロはコリント教会への手紙の中に書きます「たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、私に何の益もない」(�コリント13:2-3)。人間の偉大さは、その優れた能力でどれだけ多くの人や物を支配できるかにあるのではなく、どれだけ自分を小さく低くして、どれだけ多くの人に仕え、社会に役立つことができるかにあるのです。

2.二度目の受難予告から見えてくること

・この真理を印象づけるために、イエスは一人の幼児を抱き上げて語られます。「私の名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、私を受け入れるのである」(9:37)。ここで、「子ども」は無邪気さとか純粋さの象徴ではなく、「小さい者」を示しています。「小さい者」とは存在する価値もないとして社会で無視されている者、とるに足りない者です。そのような者を受け入れることは、自分をそのような低い場所に置くことになります。「イエスの名によって」受け入れるとは、イエスがそうすることを望まれるからという理由だけで、受け入れることです。そのように「小さい者」を受け入れる者は、イエスを自分の中に迎え入れていることになる。マタイ25章でイエスはもっとわかりやすく説明されます「私の兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、私にしてくれたことなのである」(マタイ25:40)。
・そしてイエスは言われます「私を受け入れる者は、私ではなくて、私をお遣わしになった方を受け入れるのである」(9:37)。このようにしてイエスを受け入れる者は、イエスを遣わした方、イエスの父である神を受け入れていることになるといわれているのです。神と共に生きるとは、宗教に精進してその奥義を窮めることではなく、イエスの名によって「小さい者」を受け入れて生きることだといわれています。神に最も近いのは、高位の聖職者ではなく、日常の生活の場で「小さい者」と苦しみを分かちながら共に生きている、「小さい者」たちであると宣言されています。
・支配権を求めて戦う、この世が模範とするのはこのモデルです。しかし私たちはそのようなモデルに倣ってはいけない。新しい共同体の中心に、イエスと小さな者を置く。パウロは言います「兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい」(ローマ12:10)。「互いに相手を優れた者と思いなさい」、私たちはいかに偉くなるかの競争をするのではなく、以下に小さいものとなるかの競争をするのです。

3.三度目の受難予告が必要だった

・今日、私たちは招詞として、マルコ10:42‐45を選びました。イエスの、三度目の受難予告の場面です。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」。
・エルサレムに近づいた時、弟子のヤコブとヨハネがイエスに言います「栄光をお受けになるとき、私どもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」(10:37)。これまで二度もイエスが受難予告をされているのに、弟子たちはまだエルサレムで何が起こるかを理解していません。ヤコブとヨハネの抜け駆けに、他の弟子たちは腹を立てます。彼らもまたイエスの栄光の時に、良い地位につきたいから、ここまで従って来たのです。その弟子たちに言われた言葉が、今日の招詞です。
・「異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている」、偉い人=ギリシャ語メガス、ラテン語マイヨールです。このマイヨール=大いなる者とはやはりローマ皇帝の別称です。先週紹介しました新約学者の滝澤武人先生はこの箇所を次のように訳します「君たちも知っているように、支配者とみなされているローマ帝国の連中は諸民族の上に君臨し、あの「大いなる者」が諸民族に対して横暴にも権力を振るっている。だが君たちの間では決してそうであってはならない」。マルコはイエスの言葉の再解釈を通じて、実に大胆な発言をここでしているのです。大胆ですが当然の発言です。何故ならば、イエスは「仕えられるためではなく仕えるために、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来られた」からです。ですからイエスは繰り返し言われます「私の後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、私に従いなさい」(8:34)。
・この「十字架を負う」とは偽りの自己を捨てることです。人間は誰も自分自身でありたいし、またそうあるべきですが、そのためには誰よりも多く所有し、誰にも勝る権力や地位を手に入れたらそうなれると私たちは思いこんでいます。しかしその思い込みこそが幻想ではないかと聖書は問いかけます。弟子たちがなりたかった「先の者(プリンケプス)」、あるいは「大いなる者(マイヨール)」とはローマ皇帝を指しますが、ギボン「ローマ帝国衰亡史」によれば、歴代のローマ皇帝の65%以上が自然死以外の死因で死んでいます。死因のトップは暗殺、次が自殺です。聖書は私たちに「あなたがたも暗殺や自殺で終わるような人生を歩みたいのか、この世で第一人者、大いなる者になるとはそういう生涯なのだ」と示します。そして「そのようなむなしい人生ではなく、本当に意味のある人生、仕える望み、小さい者を受け入れる望みに従って生きなさい」と勧めます。
・この言葉のままに歩んだ一人がアッシジの聖フランシスです。彼は祈ります「主よ、慰められるよりも慰める者としてください。理解されるよりも理解する者に、愛されるよりも愛する者に。それは、私たちが、自ら与えることによって受け、許すことによって赦され、自分のからだをささげて死ぬことによって、とこしえの命を得ることができるからです」(聖フランシス「平和の祈り」から)。私たちは慰められ、理解され、愛されることを求めます。しかし、現実には、人から裏切られ、理解されず、嘲笑されて苦しみます。だから人生は悲しく苦しいのです。その生き方を変えよと聖書はいいます。神は私たちを赦し、私たちのために死んでくださいました。そのことを知ったから、私たちもまた他者を赦し、他者のために死んでいく、そういう能動的な人生を生きるのです。「慰められ、理解され、愛される」人生はあくまでも受動的、人に依存する生き方です。「人ではなく、神に依存する」、その時、私たちは本当に、意味ある人生を歩む存在に変わっていくのです。

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