1.サタン、引き下がれ
・私たちは今年、マルコ福音書を読み続けています。先週学びました箇所では、イエスと弟子たちは国内で広がるユダヤ教指導者たちとの対立を一時的に避けるために、異邦人の地に向かわれたことが記されていました。しかし時が来て、イエスたちは再びユダヤの地に入られます。今日読みますマルコ8章はこの福音書の分水嶺です。ガリラヤでの宣教の旅は終わり、これからエルサレムへの旅が始まります。エルサレムはイエスの敵対者たち、祭司長や律法学者の居城です。パリサイ派の人々はイエスを殺す相談を始めていますし(3:6)、イエスの師であるバプテスマのヨハネはヘロデ王に殺されています(6:27)。エルサレムに行けば、自分も殺されるかもしれないとイエスは感じておられました。しかしそれが父なる神の御心であれば従おうと思っておられます。弟子たちはその事を知りません。イエスは弟子たちにその覚悟をさせるために、弟子たちに言葉をかけられます。そこから今日のテキストが始まります。
・イエスは弟子たちに尋ねられます「人々は私のことを何者だと言っているのか」(8:27)。弟子たちは答えます「『バプテスマのヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます」(8:28)。バプテスマのヨハネは領主ヘロデを批判したために捕らえられ、殺されました。人々はイエスの業を見て、「洗礼者ヨハネが死者の中から生き返ったのだ。だから、奇跡を行う力が彼に働いている」(6:14)とうわさしました。エリヤは世の終わりの時に再び来ると言われていた預言者です。人々はイエスの行われる業の中に終末的な神の力を見ました。しかし、イエスが救い主だとの認識はまだ持っていません。
・弟子たちの答えを聞いて、イエスは再度尋ねられます「それでは、あなた方は私を何者だと言うのか」(8:29)。
イエスの問いかけに、ペテロが答えました「あなたはメシアです」。メシア=ヘブル語マシーアハ、神から「油注がれた者」との意味です。当時の人々はメシアを待望していました。メシアが来て、異教徒の支配下に苦しむイスラエルを解放し、ダビデ王国の栄光を再び回復して下さると期待していました。ですから、メシアは「ダビデの子」と呼ばれました。人々は栄光のメシアを待望し、ペテロの告白もまたその線上にあります。
・しかしイエスはペテロのように楽観的ではありません。イスラエルの宗教指導者たちはイエスに敵対し、迫害の度を強めています。エルサレムに行けば受難は避けられない。しかしそれが父なる神の御心であればあえて受けようと決心しておられます。だからイエスはペテロに言われました「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている」(8:31)。「必ず・・・なっている」、ギリシャ語デイ、「神の必然」と呼ばれる言葉です。「私がエルサレムで殺されることを父なる神は望んでおられる。しかし父はその受難を通して業を為される、それを信じてエルサレムに行くのだ」とイエスは決意を述べられたのです。
・ペテロは自分の耳を疑いました。神から遣わされたメシアが殺されて死ぬ、そんなことがありえようか。マルコは、「ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた」と書きます(8:32)。それに対してイエスは「サタン、引き下がれ」とペテロを叱りつけます。この「いさめる」という言葉はギリシャ語=エピティモーで、「叱りつける、厳しく命じる」という意味ですので、本来の状況はこの新共同訳の示すものと大きく違います。滝澤武人と言う新約学者はここを、「ペテロはイエスを大声で叱りつけた」と訳します。弟子が師を叱ったのです。当然イエスの応答も穏やかではありません。滝澤訳では、イエスはペテロに「黙れ、サタンめ、でしゃばるな、俺の後ろにひっこんでいろ」とあります。激しい問答がここに展開されています。マルコは何故このような激しい物語を書いたのでしょうか。
2.マルコは教会の人々のためにここ物語を書いた
・人はいつも栄光のメシアを求めます。自分もその栄光に預かりたいからです。ペテロは全てを捨ててイエスに従ってきましたが、それはこの人についていけば自分もひとかどの人間になれる、なりたいと思ったからです。イエスはガリラヤで多くの癒しを行い、力強い言葉で神の国の福音を説かれました。イエスの行く所、どこでも大勢の民衆が押し寄せました。ペテロたちは民衆に絶大な人気を博されているイエスが、自分たちに声をかけてくれたから従ったのです。「この人に従っていけば、自分たちも人から賞賛される存在になるだろう」と期待したからこそ、彼らは漁師の職を捨て、家族も財産も捨てたのです。
・しかし今その計算が崩れようとしています。イエスがエルサレムで王位につかれて自分たちも相応の地位を与えられると持っていたのに、「死ぬためにエルサレムに行く」とイエスは言われます。「冗談ではない。私たちが何のためにあなたに従って来たのか。あなたから栄光をいただくためではないか」という思いがペテロの激しい言葉を引き出しています。そのペテロにイエスは「サタンよ、引き下がれ、あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」と激しく応答されました。マルコは更にイエスの言葉を伝えます「「私の後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、私に従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、私のため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである」(8:34-35)。
・後の教会はこのイエスとペテロの激しい応答を受入れることが出来ませんでした。ルカはこの出来事の並行箇所で、「サタンよ、引き下がれ」という言葉を全て削除しています(ルカ9:21-27参照)。初代教会の中心的な人物であるペテロが、かつてイエスから「サタン」呼ばわりをされたとは信じられなかったからです。マタイも出来事の衝撃を和らげるために、「あなたこそメシアです」というペテロの告白に対して、イエスが「あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、私の天の父なのだ・・・私はあなたに天の国の鍵を授ける」とのイエスの言葉を付け加えています(マタイ16:17-19)。
・しかしマルコはあからさまに情景を描きます。おそらくマルコは自分の教会の現実をここに反映しています。マルコ教団はユダヤ教会からの迫害の中にありました。ある者たちはイエスの名を否定して身の安全を図り、自分の命を救おうとしていました。彼らはおそらく地上の命を救うことは出来る。しかし一時的にその命を永らえても、結局は神なき絶望の故に滅びる。だからこの迫害から逃れるな、「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、私のため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである」と彼は力説します。
3.ペテロの再告白に神の栄光を見る
・イエスの生前、弟子たちは本当にはイエスに従いませんでした。ですから彼らは、イエスが捕らえられた時、逃げ去ります。しかし弟子たちはイエスを本当に愛し、慕っていました。イエスが逮捕されて大祭司の屋敷に連行された時、ペテロは心配になって、その屋敷に忍び込みます。しかしそこで人々に、「お前はイエスの仲間だ」と告発され、ペテロは三度、「そんな人は知らない」と否定します。その時の状況をマルコは記します「するとすぐ、鶏が再び鳴いた。ペトロは『鶏が二度鳴く前に、あなたは三度私を知らないと言うだろう』とイエスが言われた言葉を思い出して、いきなり泣きだした」(14:72)。ここに用いられている「知らないと言う=否認する」との言葉(ギリシャ語アポルネオマイ)は、先にイエスが言われた「自分を捨て、自分の十字架を背負って」という箇所の「捨てる」と同じ言葉です。ペテロは自分を捨てる代わりにイエスを捨てた、その弱さに彼は泣きます。
・その彼が復活のイエスとの出会いを通して変えられていきます。ヨハネ21章は、イエスの十字架の後、失望した弟子たちがガリラヤに帰り、もとの漁師に戻った事を伝えますが、その彼らに復活のイエスが現れ、共に食事をされました。食事の後で、イエスはペテロに三度聞かれます「あなたは私を愛するか」(ヨハネ21:15~17)。ペテロは三度イエスが「私を愛しているか」と問われたことで、悲しくなり、また情けなくなりました。その悲しみの中でペテロは告白します「私はあなたを裏切りました」。自分の命を救うために三度「イエスを知らない」といって捨てたペテロ、そのペテロに「私を愛するか」と三度迫られるイエス、その裁きがペテロを悔い改めへと導きました。悔い改めたペテロにイエスは言われます「私の羊を飼いなさい」。イエスは挫折した者を捨てられず、むしろ挫折によって自分の無力を知った者に、神の業を託されます。この赦しと委託から悔い改めが生じ、その悔い改めが罪責感からの立ち直りをもたらしました。そうなのです、ペテロがイエスに「サタン、引き下がれ」と面罵されたこと、ペテロが自分の命を救うためにイエスを捨てたこと、その悔い改めがペテロを偉大な弟子に変えていくのです。
・今日の招詞に使徒言行録4:19-20を選びました。次のような言葉です「しかし、ペトロとヨハネは答えた『神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください。私たちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです』」。復活のイエスに出会ったペテロたちは再びエルサレムに戻り、今度は町の広場で「あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです」(使徒2:36)と宣教を始めました。ユダヤ教当局者たちはイエスを逮捕したようにペテロたちを逮捕し、「今後イエスの名によって話したり教えたりしてはいけない」と命令します。その命令に対して、ペテロが言った言葉が招詞の言葉です。かつてイエスから「あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」と叱責されたペテロが、今では「人間のことを思わず神のことを思う」存在に変えられています。
・現在の私たちも、マルコ8章のペテロと同じ状態にあることを知る必要があります。「あなたこそキリストです」という言葉はギリシャ語では「キュリオス・イエスース」ですが、迫害があれば私たちは「アナテマ・イエスース(イエスは呪われよ)」と言い出しかねない存在なのです。その私たちに福音宣教の業が託されています。最後にボンヘッファーの言葉を聞きたいと思います「イエス・キリストの生涯はこの地上ではまだ終わっていない。キリストはそのご生涯をキリストに従う者たちの生活の中で更に生きたもう」(D.ボンヘッファー「キリストに従う」P354から)。私たちこそ、キリストの業を継承するように招かれているのです。