1.嵐の中で慌てふためく
・私たちは今、聖霊降臨節の中にあります。イエス亡き後、弟子たちは聖霊の導きの中で、教会を立てていきました。それから2000年、私たちは毎週の主日に教会に集められ、主の言葉を聞きます。「今私たちは何をすべきか」を知るためです。聖霊降臨節とは「主イエスが天に帰られた後、私たちがこの地上で何をすべきかを学ぶ」時です。その私たちに、今日与えられたテキストは「湖上の嵐」の箇所です。イエスが弟子たちと舟に乗って向こう岸に行こうとされた時、突然の嵐になり、舟が沈みそうになりますが、イエスが風と波をお叱りになると嵐は静まったという不思議な物語です。現代の私たちは、このような奇跡があったことを信じるのが難しくなっています。しかし初代教会はこの物語を通して大きな励ましを受けました。初代教会の受け止め方を通して、この物語が現代の私たちに何を語りかけてくるのか、ご一緒に聞いていきます。
・物語は4章前半から続きます。イエスはガリラヤ湖のほとりで人々を教えておられましたが、夕方になりましたので、人々を解散させ、弟子たちに「向こう岸に渡ろう」と言われました。一日の働きに疲れて、休息の時を持ちたいと思われたのでしょう。弟子たちは舟を出して、漕ぎだし始めました。イエスは疲れのためか、すぐに深い眠りに落ちられました(ルカ8:23)。舟を漕ぎ出してまもなく、突然強い風が吹き始め、波が激しくなりました。ガリラヤ湖は海面下200メートルの低地にある、周囲を山に囲まれた湖です。天気の良い日には暖められた空気が上昇して希薄になり、夕方になりますと山から突風が吹き下ろしてきます。あたりは全くの暗闇です。風が強まり、波は荒れ、舟は木の葉のように舞い、沈みそうになります。ペテロやアンデレはガリラヤの漁師でしたので、最初は自分たちで何とか出来ると思い、努力したことでしょう。しかし、このたびの嵐は彼らの手に負えないほどのもので、舟は沈みそうになりました。ところが、イエスは平気で寝ておられます。弟子たちはイエスを揺り動かし、訴えます「先生、起きてください。私たちがおぼれてもかまわないのですか」。イエスは起き上がり、風を叱り、湖に黙れと言われました。すると、風も波もおさまり、静かになりました。イエスは弟子たちを叱られました「何故怖がるのか、まだ信じないのか」(4:40)。
・イエスは弟子たちを叱られました。それは、イエスが共におられたのに、彼らが恐れおののき、慌てふためいたためです。「どうして怖がるのか、まだ信仰がないのか」。私と毎日共にいて、神の不思議な業を見、話を聞きながら、なぜ嵐になると、あたかも神がおられないかのように慌てふためくのか。イエスは嵐の中で熟睡されておられました。天地を支配される父なる神に対する信頼の故です。イエスは言われました「一羽の雀さえ、父のお許しがなければ、地に落ちることはない」(マタイ10:29)。川も海も山も、すべて父なる神の御手の中にある。一羽の雀さえも神の許しなしには死ぬことはない、ましてやあなたがたは神の子とされているではないか、それなのに何故怖れるのかとイエスは言われています。赤子はどのような嵐の中にあっても母親が抱いていれば安眠する、あなたがたもそのように安心して父に全てを委ねればよいのだと言われているのです。
2.嵐を静めるキリスト
・この物語を初代教会は自分たちへの励ましと受け取りました。マルコ福音書は紀元70年ごろ、ローマで書かれたと言われています。イエスは紀元30年に十字架で死なれ、その後復活のイエスに出会って励まされた弟子たちは、「イエスは神の子であった。イエスの贖罪死によって私たちの罪は赦され、イエスの復活によって、私たちにも永遠の命が与えられた」と福音の宣教を始めました。その結果、ローマ帝国のあちこちに教会が生まれ、首都ローマにも教会が生まれました。しかし、ユダヤ教の保護をなくしたキリスト教会は、ローマ帝国内において邪教とされ、迫害されるようになり、紀元64年には皇帝ネロによる大迫害を受けます。教会の指導者だったペテロやパウロたちもこの迫害の中で殺されていきます。
・マルコが福音書を書いた当時のローマ教会は、迫害の嵐の中で揺れ動いていたのです。人々はキリスト者である故に嘲笑され、社会から締め出され、リンチを受け、捕らえられて処刑されていきます。教会の信徒たちは神に訴えます「あなたはペテロやパウロの死に対して何もしてくれませんでした。今度は私たちが捕らえられて殺されるかもしれません。私たちが死んでもかまわないのですか」。ガリラヤ湖の弟子たちは「私たちがおぼれてもかまわないのですか」と訴えましたが、このおぼれる=アポルーマイの本来の意味は「滅ぼす、殺す」の意味です。弟子たちは、「私たちが滅んでも平気なのですか」、「私たちが殺されてもかまわないのですか」と言っているのです。つまり、マルコは湖上の嵐の文脈の中に、「主よ、私たちを助けてください。私たちは滅ぼされそうです。何故起きてくれないのですか。何故助けてくれないのですか」という教会の人々の叫びが挿入しているのです。そして慌てふためく教会の人々にマルコはイエスの使信を伝えます「何故怖がるのか、まだ信じないのか。天地は全て神の支配の下にある。海も風も波も、またユダヤもローマも全て神が支配されておられる。イエスが来てこの世は神の支配下にあることがはっきりしたのに、何故神の支配を信じられないのか。何故神に自分を委ねることが出来ないのか」と。
・私たちは、順調な時には、神が共にいてくださるという事実を、感謝をもって承認します。しかし、危急存亡の時には慌てふためきます。神がおられるという事実が何の意味もないように思えます。人生には必ず嵐があります。信仰者であっても末期の癌であると告知されれば慌てふためきます。愛する人を病気や事故で奪われた人々は訴えます「主よ、何故あの人を取り去れたのですか。あの人なしにこれからどのように生きろと言われるのですか」。教会内で意見の対立が起こり多くの信徒が去っていった時、残された人は言うでしょう「主よ、あなたがこの教会を建てて下さったのに、何故今、この教会を壊そうとされるのですか」。私たちは救いを求めて叫びます。しかし、目に見える助けがすぐに来ない時、私たちは信仰を持ち続けることが難しくなります。叫んでも応答がない神に自分を委ね続けることが出来なくなるのです。
・このマルコの物語は、信仰が揺らいだ時には、イエスが起きられるまで、叫び続けよと教えます。イエスは眠っておられる、しかし、求めれば起きて下さり、「黙れ、静まれ」と嵐を静めて下さる。その後で、私たちは叱られるかもしれない。しかし、その叱りを通して、私たちは成長していきます。人は順調な時には自分の欠けているところや足らないものが見えません。イエスの弟子たちも、主に従う者として、信仰と信頼にあふれて舟に乗り込みましたが、一旦嵐にあうと、今まで信じていたものはどこかに飛び去り、慌てふためきます。彼らは「自分たちは死にそうなのに、あなたは私たちをほったらかしして平気なのですか」とイエスを責めているのです。そうです、それが人間なのです。苦難に会うと人は信仰をなくしてしまう存在なのです。今この時、神の国の喜ばしい知らせなど、弟子たちの頭からすっかり消えうせています。彼らの頭にあるのはおぼれる、死ぬ、その恐怖だけです。
・福音は聞いただけでは人を変える力を持ちません。福音を生きるようになって、人は変わり始めます。福音を生きる、信仰を持つことの第一歩は、自分が無信仰である事を知ることから始まります。私たちは苦難を通して、自分の真実の姿を示され、自分に頼る事が出来ない事を知らされ、神を求め始めます。その時始めて、神は応えて下さいます。病気、苦難、災害、その他全ての不幸には意味があります。神はそれぞれの苦難を通して、私たちを導かれます。「神は苦しむ者をその苦しみによって救い、彼らの耳を逆境によって開かれる」(ヨブ記36:15)。苦難こそ、祝福への道なのです。
3.天地を支配される方に委ねて生きる
・今日の招詞に詩編4:9を選びました。次のような言葉です「平和のうちに身を横たえ、私は眠ります。主よ、あなただけが、確かに私をここに住まわせてくださるのです」。
・この詩篇の作者は社会から疎外され、侮辱を受けています。罪もないのに告発され、有罪とされたのかもしれません。社会から村八分にされ、怒りに震えているのかもしれません。彼は敵に反論します「人の子らよ、いつまで私の名誉を辱めにさらすのか。むなしさを愛し、偽りを求めるのか」(4:3)。そして作者は主に救いを求めます「呼び求める私に答えてください。私の正しさを認めてくださる神よ。苦難から解き放ってください。憐れんで、祈りを聞いてください」(4:2)。主よ、あなたは私が正しいことをご存知だ、どうか私をこの苦しみから解放してくださいと。
・祈りに対する応答は外から示されることもあれば、心密かに響くこともあります。しかし応答がない場合も多いかもしれません。それでも人は祈りによって、神の大いなる権能の中に生かされていることを感じ、心の喜びと安らぎが与えられ、心身が癒されていきます。そして主にある平安を与えられた者は、不安や恐怖の中にあっても安らかに眠ることが出来ます。安らかな眠りこそ、恵みの最大のものです。眠ることの出来る人は苦しみから回復することが出来るからです。
・私たちの人生は、荒海を航海する舟のようです。海の上を航海しますから、常に不安定です。戸板一枚の下には、底知れない闇があります。嵐が来れば、木の葉のように翻弄されます。しかし、私たちの舟にはイエスが乗っておられる。眠っておられるかもしれないが、起こせば起きて下さり、嵐を静めて下さる。「風と波を叱り、静める力をお持ちの方が、私たちと共におられる」、その事を私たちは信じることが許されている、これが福音です。
・第二次世界大戦で、キリスト教国はお互いに激しい殺し合いを演じました。「殺してはいけない」と命じられたキリスト者同士が殺しあったのです。教会もこの動きの中に巻き込まれてしまいました。イギリスの教会は「ドイツ人を殺すことが神の御心だ」と言い、ドイツの教会は逆のことを言いました。日本の教会は戦闘機を作るための献金を教会で捧げました。戦争終了後、もう世界のキリスト者が連帯することはできないと思われていました。しかし1948年、世界の教会はコペンハーゲンに集まって、世界教会協議会(World Council of Churches、WCC)を結成しました。お互いの国の教会がいがみ合い、殺し合いをしたことを悔い改め、新しい共同体を造っていくことで合意し、そのシンボルマークとして「十字架の帆柱をつけた嵐に揺れる舟」が選ばれました。これからも信仰が揺さぶられるような嵐があるかもしれないが、イエスのメッセージを聞き続けていこうと決意したのです。舟は初代教会のシンボルでした。初代教会は迫害の中でつぶやきながらもイエスにつながり続け、滅ぼされることなく、終には迫害者ローマ帝国の国教となって行きました。現代の私たちも多くの問題や課題を抱えながらも、イエスの言葉に聞き続けていきます。「主よ、あなただけが、確かに私をここに住まわせてくださるのです」、この言葉こそ、私たちの信仰告白の言葉なのです。