江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2009年6月28日説教(マルコ5:21-43、報われた信仰)

投稿日:2009年6月28日 更新日:

1.長血を患う女の癒し

・聖霊降臨節の今日、マルコ5章21節以下の長い箇所をテキストとして、与えられました。長いのは、ここに二つの物語が同時進行的に描かれているからです。イエスがガリラヤにお戻りになった時、会堂長ヤイロがイエスを待っていました。彼の娘が危篤であり、イエスに助けを求めに来たのです。イエスは会堂長の家に向かいますが、その途上で長い間出血の病気に苦しむ女性と出会われ、彼女を癒されます。イエスは彼女に「あなたの信仰があなたを救った」とその信仰をほめられます。そこに会堂長の家から「お嬢さんは亡くなりました」との知らせが届きますが、イエスは「ただ信じなさい」と言って、会堂長の家に向かわれ、死んでいた娘をよみがえらせます。二つの物語に共通する言葉は「信仰」です。今日は信仰が私たちの人生をどのように変えていくかについて、御言葉から聞きたいと思います。
・本文に入っていきましょう。イエスが舟でガリラヤに戻られると、船着場に会堂長のヤイロが来ていて、「私の幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう」と救いを求めました(5:23)。イエスはすでにユダヤ教会から異端の疑いをかけられ、会堂に入ることを禁止されていました(3:6)。そのイエスの足元にユダヤ教の指導者がひざまずきます。「娘が死にかけている」、極限状況に追い込まれた会堂長は、イエスの癒しのうわさを聞いて、この人ならば娘を治してくれるかもしれないと一縷の望みをいだいて、世間体や打算を超えて、イエスの前にひざまずいたのです。イエスはヤイロの信仰に感動され、家に向かわれます。
・イエスの周りには大勢の群集がいました。その群集の後ろから長い間病気に苦しむ一人の女性が、イエスの衣に触れ、触れた瞬間癒されます。マルコは記します「ここに十二年間も出血の止まらない女がいた。多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。『この方の服にでも触れればいやしていただける』と思ったからである」(5:24-28)。マルコはこの女性の病気を「マスティクス=鞭」という言葉で呼びます。鞭、神から与えられた災いとの意味です。この女性の病気は慢性の子宮疾患だと思われますが、当時出血を伴う病気は不浄とされ、人前に出ることを禁じられていました。律法を記したレビ記は次のように規定します「生理期間中でないときに、何日も出血があるか、あるいはその期間を過ぎても出血がやまないならば、その期間中は汚れており・・・これらの物に触れた人はすべて汚れる」(レビ記15:25-26)。古代の人々は死者にふれたり、出血に触ることによって、病気が感染すると考えて、これらの人々を不浄の者として排除していたのです。ですから彼女は正面からイエスのところに近づくことは出来ず、後ろからこっそりとイエスの服に触れました。「この方の服にでも触れればいやしていただける」、この記述の中に、何とかして治りたいという女性の強い気持ちが現れています。そして実際イエスに触れた途端に「すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた」(5:29)。原文では「血の源は乾いた」とあります。
・一方イエスの方も「自分の内から力が出て行ったことに気づかれ」ました。この力はギリシャ語デュミナス、神の力です。この神の力が外に働けば、力ある業=奇跡が起こります。イエスは「私の服に触れたのは誰か」と言われて、神の力を受けた人を探し出そうとされます。癒していただいた女性はおずおずとイエスの前に出てひれ伏します。イエスは彼女に言われます「娘よ、あなたの信仰があなたを救った」(5:34)。イエスはこの女性が長い間苦しんできたことを即時に見抜かれました。病に苦しむだけではなく、社会から不浄の者として排斥され、結婚して家族を持つという人並みの幸福さえ奪われてきた悲しみを見られました。だから女性に言われます「安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい」。女性の必死の思いとイエスの憐れみが、死んでいた一人の人をよみがえらせたのです。

2.ヤイロの娘のよみがえり

・イエスがこの女性とまだ話しておられた時に、会堂長の家から使いが来て、「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう」と伝えられます(5:35)。会堂長ヤイロは落胆します「この方でも、病気を癒すことは出来ても、死んだ者をよみがえらせることはできないだろう」。ヤイロは、「イエスがここで時間を割かれずにまっすぐ家に向かってくれていたら娘は助かったかも知れない」との思いもあったことでしょう。しかしイエスはそのヤイロに言われます「恐れることはない。ただ信じなさい」(5:36)。そしてヤイロの家に急がれます。家に着くと「人々は大声で泣きわめいて騒いでいました」。イエスはその人々に言われます「なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ」(5:39)。人々はイエスを嘲笑します。イエスは「子どもは眠っている」と言われましたが、人々の前にはこれは愚かな言葉でした。人々は娘の死を現に見ており、眠っているのではないことを知っているからです。
・イエスは子どものいる部屋に入られ、子どもの手を取って、「タリタ、クム」と言われました。アラム語で「子よ、起きなさい」という意味です。タリタとは小さいな者、クムは起きるという意味です。すると少女は起き上がりました。死者がよみがえると言う奇跡が起こったのです。この物語は単なる伝承ではなく、歴史的な事実性を持っていると考えられます。「タリタ・クム」というアラム語がそのまま伝承されていることは、この出来事を目撃したペテロたちが強い印象を持ち、そのためにイエスが言われたアラム語がそのまま伝承として伝えられたと思われます。使徒言行録にも、ペテロがタビタという女性を同じ言葉で生き返らせた記事があります。ルカはその出来事を次のように伝えています「ペトロが皆を外に出し、ひざまずいて祈り、遺体に向かって、『タビタ、起きなさい(クム)』と言うと、彼女は目を開き、ペトロを見て起き上がった。ペトロは彼女に手を貸して立たせた。そして、聖なる者たちとやもめたちを呼び、生き返ったタビタを見せた。このことはヤッファ中に知れ渡り、多くの人が主を信じた」(使徒言行録9:40-42)。

3.神の国は来ている

・今日の招詞にマタイ10:7-8を選びました。次のような言葉です「行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい」。イエスが弟子の12人を派遣する時に、言われた言葉です。ここには「神の国が来た。そのしるしは病人が癒され、死者が生き返ることだ。だからあなたがたは行って、その業をなしなさい」というイエスの言葉が記されていますが、この言葉は現代の私たちには受入れることが難しい内容を含んでいます。何故なら、いくら祈っても治されない病はあり、いくら願っても死んだ者が生き返ることはないからです。「信じる者には何でも出来る」(マルコ9:23)とイエスは言われましたが、不信仰の私たちには出来ない。この問題を私たちは解決する必要があります。
・イエスは長血を患う女性に言われました「あなたの信仰があなたを救った」。ここにいう救いとは病の癒しのことでしょう。またヤイロの娘は父親の熱心な祈りと行動により、死からよみがえることが出来ました。しかし癒されない時があります。現実には、どのように祈っても病が癒されず、終には死んでしまうことの方が大半なのです。そのような、癒されない場合があることを、私たちは信仰の観点から、どのように考えれば良いのでしょうか。信仰が足りないから癒されないのでしょうか。それを知るために、内村鑑三に起こった出来事を見ていきます。彼の娘ルツは17歳の時に重い病気に罹り、内村は必死に祈ります。それにもかかわらずルツは死にました。19歳でした。
・その時の心境を内村は次のように語ります「私は私の娘の不治の病が必ず癒されることを信じた。私の耳に響きしはただイエスの言葉であった。『恐るるなかれ、ただ信ぜよ』と。されど私の信仰はついに無効に帰した。私の娘は医師の診察の通りに死んだ。ヤイロの実験は私の実験とならなかった。私は非常に失望した・・・私の信仰は根底より揺るぎだした。私は暗黒の淵へと投げ込まれた」。しかしやがて彼は新しい信仰に包まれます「私の娘の場合においても、私の祈祷が聞かれなかったのではない。聞かれつつあるのである。終わりの日において、イエスがすべて彼を信ずる者をよみがえらしたもう時に、彼は私の娘に向かっても、『タリタ・クミ』と言いたもうのである。・・・われらにヤイロ以上の信仰がなくてはならない。すなわちわが娘は癒さるるも癒されざるも、最後の癒し、すなわち救いを信じ、感謝してその日を待たねばならない。われら、愛する者の死に面してこの信仰をいだくははなはだ難くある。されども神はわれらの信なきをあわれみたもう。『主よ、信なきを助けたまえ』との祈りにこたえたもう」(内村鑑三聖書注解全集十五巻ガリラヤの道三十六「ヤイロの娘より」)。内村鑑三は娘の死を通して、癒しを超える救いの恵みを見たのです。
・マルコは神の国のしるしとして、病気の人が癒され、死者がよみがえる記事を書きました。その記事を読んで、多くの人が励まされました。一人の信仰者は自分の娘の死を見て、死の意味を深く捉え、「死は敗北ではなく眠りである」との信仰を与えられました。ここに信仰の業があります。「信じる者の信仰は報われる」のです。その報われ方がある人は病の癒されることを通して、また別の人は病の癒されないことを通して与えられます。そのことを今日は覚えたいと思います。

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