1.今も生きておられるイエス
・復活節第五主日を迎えています。復活節は主イエスの復活を祝う時ですが、それは単に2000年前に主イエスが死からよみがえられたことをお祝いする時ではありません。復活された主イエスが今も生きて私たちの中におられる、つまり私たちが主イエスによって生かされているかどうかを確認する時であります。イエスは言われました「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(ヨハネ15:13)。しかし私たちは他者のために自分を犠牲にすることは出来ません。みんな自分が可愛いのです。その結果、エゴとエゴがぶつかり合って、この世は争いの世になっています。しかしそのような私たちも、イエスにつながり続けることによって変えられて行く。ヨハネは福音書15章でそのように言います。今日はヨハネ15章を通して、主イエスが今も生きておられることの意味を共に学んでみたいと思います。
・ヨハネは13章からイエスが最後の晩餐の席上で言われた言葉を記録します。13章ではイエスが弟子たちの足を洗われた記事が、14章ではイエスがいなくなった後聖霊が与えられ、その聖霊が弟子たちを守ることが約束されます。14章の最後には「さあ、立て。ここから出かけよう」(14:31)というイエスの言葉が記録され、それは18章につながります「こう話し終えると、イエスは弟子たちと一緒に、キドロンの谷の向こうへ出て行かれた」(18:1)。14章は18章に連続しており、15章、16章、17章の3章は編集者の挿入部分と推測されます。ヨハネ福音書の著者は何故ここに三つの章を挿入したのでしょうか。
・余談になりますが、私は50歳の時に、夜間で学んでいた東京バプテスト神学校を卒業し、それを契機に27年間勤めた会社を退職し、東京神学大学に入学しました。当時、東神大の学長は松永希久夫先生でした。彼はヨハネ文書(ヨハネ福音書、手紙、黙示録等の総称)の研究者として有名で、繰り返し、福音書の二重構造、すなわち福音書はイエスの言葉や行動を記述する単なる伝記ではなく、それぞれの教会のメッセージが同時に書き込まれていると強調されていました。教会の信徒へのメッセージという視点でこのヨハネ15章を読むと、新しい局面が見えてきます。
・ヨハネ福音書が書かれたのは紀元90年ごろと推測されていますが、当時の教会はユダヤ教からの迫害の中にありました。イエスの時代にもローマ支配に対する強い不満がユダヤ国内にありましたが、紀元66年にその不満がローマへの反乱(ユダヤ戦争)として爆発し、ユダヤはローマ帝国と戦争状態になります。しかしローマの圧倒的な軍事力の前にユダヤは劣勢となり、終に紀元70年、ローマ軍は反乱を起こしたユダヤ人たちをエルサレムから追放し、エルサレム神殿を破壊しました。ここにユダヤは国家としては滅びました。エルサレム神殿を中心とした祭儀宗教であったユダヤ教は壊滅的な打撃を受けましたが、ユダヤ教は滅びず、パリサイ派を中心とした律法宗教に変わっていきます。ユダヤ教指導者たちは、民の律法違反が亡国の悲運を招いたとして、厳格な律法への忠誠を求めるようになり、その一つとして、背教者や異端者を会堂から追放する事を決定します。その結果、キリスト教徒は異端として激しい迫害を受けるようになったのです。ヨハネ16章2節はその事情を反映した記述だといわれています「人々はあなたがたを会堂から追放するだろう。しかも、あなたがたを殺す者が皆、自分は神に奉仕していると考える時が来る」。キリスト教徒は捕らえられ、殺され、社会から排除される時代が始まり、この迫害の中で、ヨハネの教会では多くの信徒が脱落して行きました。
・動揺する信徒たちにヨハネはイエスの言葉を伝えます。それが15章から始まる言葉です。「私はまことのぶどうの木、私の父は農夫である。私につながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる」(15:1-2)。「私はまことのぶどうの木」、この言葉は「まことではない、偽りのぶどうの木」があることを前提にします。迫害の中で教会から離れてユダヤ教に戻る、それは命の源であるキリストから離れて、偽りのぶどうの木につながることなのだ。ぶどうの枝が木から離れれば枯れて死ぬように、あなた方もキリストの教会から離れたら死んでしまう。だから離れるなとヨハネは叫んでいるのです。果樹の栽培においては剪定が不可欠であり、実を結ばない枝は切り落とされます。ユダヤ教からの迫害は父なる神がなされる剪定作業なのだ、その剪定を通して、御霊の実を結ぶのに妨げになる世の思い煩いや欲望がそがれ、より豊かな実を結ぶようになるのだとヨハネは言っているのです。
2.社会から締め出される恐怖がそこにあった
・ヨハネの教会では、多くの人々がイエスの行われた業を見て、イエスこそ神の子と信じバプテスマを受けましたが、ひとたび、教会がユダヤ教正統派から異端宣告を受けると、次々に脱落していきました。本当にイエスに結びついていなかったからです。しかし危機に直面してもなおイエスをキリストと告白し神を信じるものは「豊かな実を結ぶ」(15:2)とヨハネは言います。そしてイエスの言葉を聞く者は清められる(15:3)、だからつながり続けなさいと命令されます。このつながるとはギリシャ語メノウ=留まるという意味です。イエスが父に留まることによって父と一体であるように、弟子たちもイエスに留まって一体性を保ち続けることによって、信仰の実を結んでいくのです。人間はイエスに背いたり、イエスとの交わりを破っていきますが、その時、命と力の源泉であるぶどうの木から離れていき、離れた者は「枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう」(15:6)とヨハネは警告します。
・ヨハネ福音書においては、会堂から追放されることを恐れて、人々が自分の信仰を隠したことが記述されています。「議員の中にもイエスを信じる者は多かった。ただ、会堂から追放されるのを恐れ、ファリサイ派の人々をはばかって公に言い表さなかった。彼らは、神からの誉れよりも、人間からの誉れの方を好んだのである」(12:42-43)。またヨハネ福音書には迫害を示唆する多くの言葉が残されています。15:18「世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前に私を憎んでいたことを覚えなさい」。世があなたがたを憎む、信徒が迫害を受けるという意味です。しかしその迫害に負けるなとヨハネは教会の人々を励まします「これらのことを話したのは、あなたがたが私によって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。私は既に世に勝っている」(16:33)。まさにヨハネ15章~17章はイエスの言葉を借りて、ヨハネが迫害に苦しむ教会の人々にメッセージを送っている箇所なのです。
・会堂から追放されるとは、当時の社会においては、生活共同体から排斥されることです。共同体から排斥されることがどのような意味を持つのかを、身近な例で考えてみます。戦時中の日本では教会、特にホーリネス教会に対する宗教迫害がありました。ホーリネス教会は再臨信仰を大事します。再臨とは「キリストが再び来られて神の国が完成すること待望」する信仰です。神の国が完成し、神が直接治められるのですから、そこには人間の王、例えば天皇は不要です。この思想が戦前の日本の国体(天皇制国家)を否定するものとして弾圧の対象になりました。日本キリスト教団弘前住吉教会牧師であった辻啓蔵氏も1942年6月26日に治安維持法違反で捕らえられ、教会は解散を命令されます。
・教会が解散させられると、涙を流して祈っていた信徒たちはどこへともなく散って行きました。辻一家に近寄る者はなく、一家は生計の道を絶たれました。5人の子供を抱えて啓蔵氏の妻は途方に暮れます。長男の辻宣道氏はカボチャを分けて貰うため、元教会員の農家を訪ねますが、門前払いをされました「おたくに分けてやるカボチャはない」。ほんの少し前まで真っ先に証しを語り、信徒全体から尊敬を集めていた熱心な教会役員の言葉でした。一家は軍の残飯を分けて貰うため街路に並びます。一家は軍の残飯で生き延びたのです。辻啓蔵牧師は2年半の収監の後、1945年1月18日、青森刑務所で獄死されました(「嵐の中の牧師たち-ホーリネス弾圧と私たち」辻宣道著、新教出版社1992年)。
・少年時代の辻宣道氏は、キリスト教とは一生縁を切ろうと思いました。「神様が生きておられるならば、牧師が刑務所で死ぬことを何故黙って見ておられるのか」、その疑問が解けなかったからです。しかし、その後、不思議な導きで辻宣道氏は牧師になります。教会への迫害もまた必要な剪定作業であったことに気づかされたからです。彼は牧師になって最初は焼津で、次に静岡で伝道を続けますが、彼の教会形成の基本は、「生涯信仰を捨てない人をつくる」ことでした。ヨハネ福音書の文脈で言えば、「イエスにつながり続ける」人のことです。
3.豊かな実~信仰、希望、愛
・今日の招詞として1コリント13:13を選びました。次のような言葉です。「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である」。説教を書く時、いつも参照する注解書があります。市川喜市という方の書かれた著作集で福音書を中心に緻密な考察が為され、その内容がネットで公開されています。市川喜市さんはこのヨハネ15章について次のように書かれています。「果樹の栽培者は、実を結ばない枝は木全体の成長に妨げになるだけですからこれを取り除き、実を結ぶ枝はさらに多くのよい実を結ばせるために、わき芽をつんだりして手入れします。この剪定作業は園芸の基本作業です。この園芸の基本原則を比喩として用いて、著者は共同体の成員に、復活者イエスに正しくつながっているように説き勧めます。「私についている枝」・・・イエスを信じる者の共同体に属する者たちを指しています。その中には、木に実際に正しくつながっている枝とつながっていない枝があります。より正確に言うと、御霊によって復活者イエスに現実につながっている者と、形では共同体の成員ではあるが、御霊による復活者イエスとのつながりを持っていない者です。パウロはこの区別を、「キリストの御霊を持たない者は、キリストに属していません」という言葉で表現しています(ローマ8:9)。この区別は、各人がその歩みの中に結ぶ実によって明らかになります。
・「実」と言えば、私たちはパウロがガラテヤ書5章22節で「御霊の実」と呼んだ「愛、喜び、平和、寛容」などを思い浮かべますが・・・私自身は、御霊の実とは「信仰と愛と希望」であると受けとめています。御霊が私たちの中に働いてくださるとき、今までになかった新しい人間の在り方・生き方が始まります。それは、人間存在の三つの次元に即して現れます。すなわち、神との関わりという垂直の次元では、神を父としてその慈愛を信頼して生きる生き方(それがここで言う信仰です)、隣人との関わりという水平次元では愛、それも敵をも愛する絶対無条件の愛、時間の中にいる存在としては死を超える復活の希望として現れます」。
・この豊かな実をいただいて、私たちは新しく生まれたものになります。信仰と愛と希望が私たちを生かしていきます。この三つのものを与えられた者はもう他には何もいらない。すべては適えられるからです。イエスが言われる通りです「あなたがたが私につながっており、私の言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる」(15:7)。これは何でも思い通りになるということではありません。どのようなものが与えられても、喜んでそれを受けることが出来る者になるのです。今日、私たちは応答讃美歌として新生讃美歌495番を歌いますが、その三節は歌います「主よ、飲むべきわが杯、選び取りて授けたまえ。喜びをも悲しみをも、満たしたもうままにぞ受けん」。喜びはもちろん悲しみをも祝福となる人生がここに描かれています。その時、イエスの言われた言葉が成就します「あなたがたが豊かに実を結び、私の弟子となるなら、それによって、私の父は栄光をお受けになる」(15:8)。このような人生に私たちは招かれているのです。この世的に見れば愚かな人生、しかし霊的には満たされた、永遠の命につながる人生に招かれています。