江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2009年5月3日説教(ヨハネ10:11−18、良い羊飼いは羊のために命を捨てる)

投稿日:2009年5月3日 更新日:

1.良い羊飼いは羊のために命を捨てる

・復活節第4主日の今日、私たちはヨハネ10章「羊と羊飼い」の記事を読みますが、ここには「良い羊飼い」として羊に命を与えるイエスと、羊である私たちとの深いつながりが示されています。ヨハネ10章には「命を捨てる」という言葉が繰り返されています。牧草を求めて山野を歩く羊飼いに危険はつきものです。狼はいつ襲ってくるかわかりませんし、強盗に遭遇する危険もあります。羊飼いは無力な羊のために身体を張って戦う覚悟をしなければなりません。イエスは当時の日常生活に例えをとりながら、自分がどのようにして死んでいくのかの決意をここに語られています。
・イエスは「私こそ良い羊飼いだ」と言われました。「良い羊飼いは羊のために命を捨てる」(10:11)。群れのために命を捨てる羊飼いこそ、良い羊飼いだといわれています。この羊飼いのたとえはユダヤ人、直接的にはパリサイ派の人々に対して語られています。10章6節でヨハネは書きます「イエスは、このたとえをファリサイ派の人々に話されたが、彼らはその話が何のことか分からなかった」。羊飼いの話は9章から続いている文脈の中で語られています。イエスは生まれつきの盲人の目を開けられましたが、その日はたまたま安息日でした。その場にいたパリサイ派の人々は、「盲人の目が開けられた」ことを喜ぶことをせず、イエスが「安息日に癒しをされた」ことを問題にします。安息日戒律の違反として、イエスを攻めたのです。イエスは反論されます「あなたは何故、一人の人の目を神が開けて下さった、その良い業を喜ばないのか。あなたがたが思うのは自分のことばかりであり、託された羊のことではない」。あなたがたは「良い羊飼いではない」として、このたとえが語られています。
・ヨハネ10章には二種類の羊飼いが出てきます。最初は「雇い人の羊飼い」です。雇い人は報酬のために働きます。彼の関心は報酬であり、羊ではありませんから、狼=困難な情況が来ると逃げてしまいます(10:12-13)。イエスの時代、神殿には多くの祭司が仕え、民のために犠牲の動物を捧げていましたが、民が困窮しても気にかけることはありませんでした。祭司にとって、自分の生活の方が大事だったからです。パリサイ人も同様です。彼らは律法を守る、自分の正しさが証明されることが大事であり、そのことによって民にどのような困難が来ても配慮しませんでした。むしろ律法を守ることの出来ない人々、羊を“罪人”として排除していたのです。
・次にイエスが言われたのは「良い羊飼い」です。良い羊飼いは自分の羊のことを知り、羊もまた羊飼いを慕います(10:15)。パレスチナの羊飼いは一匹一匹に名前を付け、それぞれの特徴や性格を熟知しています。そして羊は彼の声をよく知っているので彼についていきます。良い羊飼いは、迷う羊があれば何処までも探しに行きます。一匹一匹の羊を自分の子のように大事にするのが良い羊飼いです。そして彼は「羊のために命を捨て」ます(10:15)。荒野では獣が羊を狙い、襲ってきます。羊飼いは杖で獣と戦い、羊を守り、場合によってはそのために命を落とします。良い羊飼いの最大の関心は自分ではなく羊ですから、羊のために命を捨てても悔いません。そしてイエスは実際に、彼の群れのために十字架で命を捨てられました。

2.羊のために命を捨てることの出来ない私たち

・イエスは群れのために命を捨てられました。ですから、私たちにも命を捨てるように求められます。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る」(12:24-25)。しかし私たち人間は弱さの故に、他者のために命=自分を捨てることが出来ません。ヨハネ福音書が書かれた紀元90年ごろ、ヨハネの教会はユダヤ人社会から“異端”として迫害されていました。クリスチャンであることがわかれば会堂から追放される(9:22)=社会から締め出され、場合によっては殉教の危険さえあったのです。そのため多くの信徒が教会から離れていき、その中には教会の指導者たちもいました。ヨハネは「良い羊飼い」としてのイエスの説話を紹介しながら、教会の信徒たちに、「例え指導者が脱落することがあっても、それは彼が雇い人の牧者であるからであって、真の牧者キリストは私たちと共にいてくださり、私たちのために命を再び捨ててくださる方だ」と述べているのです。
・ヨハネはイエスの言葉を用いて、教会の人々を励まします。それが10章17節以下の言葉です「私は命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父は私を愛してくださる。だれも私から命を奪い取ることはできない。私は自分でそれを捨てる。私は命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、私が父から受けた掟である」(10:17-18)。例えあなた方が迫害のために死んだとしてもそれは無駄な死ではない。イエスが死からよみがえられたように、あなた方もまた死からよみがえることが出来る。だから迫害を恐れるなとヨハネは述べています。
・イエスの時代でも今日でも、人間社会は危険に満ちています。隙があれば弱い人々を自己の欲望の餌食にしようとする“狼の論理”が社会を支配しています。「役立つ限り他人を利用し、用が無くなったら捨ててしまう」のが人間社会の常です。そのため多くの人々の人生が痛めつけられ、多くの人々が泣いています。イエスの生き方はそれとは全く逆の生きかたでした。弟子たちが「誰が一番偉いか」を議論していた時、イエスは言われました「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい」(マルコ10:42-44)。仕えるとは自分の権利を放棄し、相手の喜びと充実のために尽くすことです。多くの人々がイエスの生き方に共感し、イエスの後に従おうと願ってきました。しかし、出来ません。ペテロでさえ、「お前もイエスの仲間だ」と問い詰められればイエスを否認しますし、ヨハネの教会指導者たちも迫害が臨むと教会から脱落していきます。この弱さの中にある人間はどのように、「羊飼いと羊のたとえ」の話を聞いたらよいのでしょうか。

3.弱い私たちが良い羊飼いに変えられる

・今日の招詞に、ヨハネ20:22−23を選びました。次のような言葉です「そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた『聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る』」。
・復活のイエスが弟子たちに与えられた言葉です。弟子たちはイエスを裏切り逃げましたが、イエスはそのような弟子たちを一言も非難せず、赦し、彼らに「私の羊を飼いなさい」と業を委託されます。この赦しと委託を受けて、弟子たちは伝道を始め、教会を建てていきました。「誰にイエスは羊を委託されたのか」、通常は牧師が羊飼いとしての責任を委託されていると理解されています。牧師は英悟では“パスター”といいますが、この言葉は文字通り羊飼いを指します。しかし牧師だけにその任が委ねられていると考える時、牧師の言動に注目が集まり、「あの牧師は十分なケアをしてくれない」、「あの牧師は羊飼いとしてふさわしくない」とかの評論家的言動が多くなり、教会が内向きになりがちです。これはイエスが望んでおられることではないでしょう。
・私たちはイエスが誰に群れを委託されたのかを、もう一度問い直す必要があります。招詞の言葉に明らかなように、イエスは弟子たちに、教会の群れに、羊を養うことを委託されています。牧師だけでなく、私たち一人一人が羊飼いに、牧者にされる必要があります。教会とは自分の救いを求めてきた人たちが、他者の救いのために祈る者に変えられて行く場所なのです。そしてイエスは言われました「私には、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊も私の声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる」(10:16)。この言葉は直接的には、イエスがユダヤ人だけではなく、異邦人もまたご自分の羊だとの認識を持っておられたことを示します。しかし私たちがこの言葉を自分の生活の場で聞いた時、それは私たちが教会の群れの外にいる人たちへの責任を与えられているを示します。つまり、教会は伝道の責任を持ち、その伝道とは私たち一人一人が、「羊のために命を捨てる」生き方を示すことによって為されます。では羊のために命を捨てる生き方とはどのような生き方なのでしょうか。
・それを考える素材が、曽野綾子の小説「哀歌」の中にあるような気がします。哀歌はアフリカの国ルワンダに赴任した一人の修道女の物語です。主人公の鳥飼春菜は所属する修道会に命じられて、部族対立の続くルワンダへ赴任します。彼女は、教会や小中学校を併設する修道院で、現地人の修道女たちと協力しながら、子どもたちの世話をします。ところがルワンダの部族対立が激化し、多数派フツ族の少数民族ツチ族に対する集団虐殺が始まります。フツ族の民兵は軍を後ろ盾にツチ族への暴行、虐殺、略奪を開始し、避難民を受け入れた修道院や教会でも彼らは暴虐の限りを尽くします。その混乱のなかで修道院にいた春菜は暴徒にレイプされ、そのことが原因で妊娠します。彼女は身も心も疲弊しきって日本に帰国しますが、修道会は妊娠した修道女に冷淡であり、春菜はどうしてよいかわかりません。
・主人公春菜は、最初は自分の論理で物事を処理しようと考えます。「あれは悪夢だった。悪夢を悪夢として処理する方法も日本の社会は備えている」、暴行を受けて妊娠した子を中絶することは誰も非難しませんし、中絶さえすれば、「何事も無かった」ように生きていくことが出来ます。他方、子を中絶しない場合、生まれる子は「皮膚の色が黒い子」となり、そのような混血児を抱えて日本社会で生きていくことは大変なことです。しかし相談した神父の言葉、「神は御自分で為されたことには必ずその結果に対して何らかの責任をお取りになるだろう」という信仰が春菜の気持ちを変えて生きます。神は私にこの子を与えて下さった、それが納得できない形で与えられたにせよ、おなかの子には何の責任もない、この子を守って暮らそう、そのことによって不利益を受けるのであれば受けていこうと決意します。
・神父の言葉を契機に、考えの中心点が自己から他者(この場合はおなかの子)に変えられていきます。彼女の決断はこの世の基準では愚かな決断になるでしょう。しかし信仰の決断としては別の評価が成立します。良い羊飼いの最大の関心は自分ではなく羊ですから、羊のために命を捨てても悔いません。彼女はおなかの子を、自分に与えられた羊として生きていくことを決意したのです。そのことによって不利益を受ける=現在の自分に死ぬことは、無意味なことではありません。イエスは言われました「私は命を、再び受けるために、捨てる」。現在に死ぬことは将来に生きるためなのです。イエスは十字架を通して、すなわち現在を死ぬことを通して、復活されました。十字架なしには復活はないです。弱い私たちも現在与えられた十字架を担って死ぬことにより、新しい命に生きる者と変えられるのです。ヨハネの言葉を借りれば、「雇い人の羊飼いが良い羊飼いになる」ことが出来るのです。復活を信じることによって、私たちに新しい力が与えられるのです。

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