1.復活のイエスに気づかない弟子たち
・復活節の今月は福音書からイエスの復活物語を聞いています。第三主日の今日は、ルカ福音書から物語を聞いていきますが、ルカ福音書もまた「弟子たちの信仰の目がふさがれて主イエスがわからなかった」と記します。弟子たちは三度にわたるイエスの受難予告(死と復活の予告)を聞いても理解できないまま、エルサレムに入り、事態はどんどん進行し、いまやイエスは十字架で死なれ、弟子たちは失意の内に復活の日を迎えています。ルカ24章後半では、エルサレムから60スタディオン(約11キロメートル)離れたエマオに向かう弟子たちに復活されたイエスが同道されますが、弟子たちはそれが主イエスであると気づきません。ルカは記します「話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった」(24:15-16)。
・二人はイエスに気づかないどころか、イエスから「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と聞かれ、クレオパという弟子は、エルサレムでイエスに起こった事の次第と、墓からイエスの遺体が消えていたことを話します。まさに釈迦に説法で、弟子たちにはイエスがまったくわからなかったのです。イエスは彼らの物分かりの悪さを嘆かれ、「メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか」と改めて聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明されます。それでも二人は、この方がイエスであることに気づきません。
・エマオに着いた弟子たちは、先に行こうとされるイエスを無理に引き止めて、一緒に宿泊します。イエスは食事の席でパンを取り、讃美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちに渡します。弟子たちが、「この人はイエスだ」とわかったのはその時でした。この物語は、例え復活のイエスが目の前に現れても、それを疑うほどの不信が強ければイエスを見ることは出来ないことを示唆します。復活のキリストは信仰の目がなければ見えないのです。しかし一度イエスを見た、イエスに出会った者は、心が燃やされます。ルカは記します「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、私たちの心は燃えていたではないか」(24:32)。弟子たちは「時を移さず出発して、エルサレムに戻って」(24:33)行きます。復活日の午後、二人の弟子は絶望の中をエルサレムからエマオに向って歩んでいました。その彼らが今、「イエスは生きておられた」ことを知って、急ぎ足でエルサレムに戻ります。イエスと出会った者はそれを告げずにはいられないのです。そこから、今日の物語が始まります。
・エマオから戻った弟子たちが、他の弟子たちに「自分たちは主に出会った」という話をしているその時、その部屋の中にイエスが来られます。ルカはその時の情景を次のように記します「こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた。彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った」(24:36-37)。弟子たちは「亡霊を見ているのだと思った」、これは無理の無いことでしょう。人間はこのような時空を超えた、説明のつかない出来事を受入れることはなかなか出来ません。復活とは人間の理解の限界を超えた出来事なのです。
・そのような弟子たちに、イエスは“恐れるな”、“信じよ”と、事実を持って、復活を示されます。亡霊でないしるしに、焼いた魚さえ食べて見せられます。何故イエスはそこまでして弟子たちの所に来られたのでしょうか。それは父なる神がイエスを死より蘇らせて下さった事実を示すことにより、イエスの死が人間の罪を贖うための贖罪死であったことを弟子たちに知らせ、弟子たちに新しい命を与えるためでした。
・「ナザレのイエスこそが、復活されたキリストである」とルカは主張します。これはとても大事なことを私たちに教えます。復活のキリストに従うということは、十字架を担った方に従うということです。この方は生前、罪人として社会から排除されていた徴税人やらい病者に近づいていかれ、「あなた方の苦しみを私は知っている」と言われた方です。この方は、十字架につけられた時、一言も相手をののしることなく、自分を殺そうとする者の赦しを祈られた方です。この方は、自分を見捨てた弟子たちのために、何度もその復活の身体を見せてくださった方です。この方が私たちの主なのです。ですから、私たちも人に裏切られても絶望せず、人が評価しなくともやるべきことを行っていくのです。これがイエスから与えられた新しい命の生き方です。
2.ふさがれていた信仰の目が開けられる
・ルカ福音書のイエスの復活記事は、私たちに多くのことを伝えます。エマオに向かう弟子たちは、復活の主が共に歩まれても、イエスに気づきませんでした。その弟子たちにイエスは聖書全体について教えられ、弟子たちの心は熱くなりました。そしてイエスは弟子たちと共にエマオに宿泊され、食事の席で、讃美と祈りの後にパンを裂かれました。その時、始めて弟子たちの目が開け、共におられる方がイエスであるとわかりました。これは歴史上、最初に為された聖餐式(主の晩餐)です。私たちは主の晩餐を通して、イエスの死と復活を想起し、イエスと出会うのです。またイエスご自身が聖書について解き明かされ、弟子たちと共に家に入り宿泊されたことは、聖書の解き明かし、すなわち説教を通して、「この方がどなたであるのか」が明らかにされ、信仰に導かれてバプテスマを受け、共に主の家(教会)に連なる者になることが象徴されています。私たちは、主の言葉(説教)とサクラメント(聖餐)を通して、主にお会いするのです。
・復活の主イエスは、イエスだと気づかない時にも一緒に歩んで下さり、導いて下さる方です。しかし私たちの信仰の目がふさがれている時は、このイエスが見えません。この世においては私たちの目をさえぎるものがたくさんあります。人の目を奪う欲望は限りなくありますし、私たちが悩みや悲しみに打ちひしがれている時にも、イエスが見えなくなる時があります。その時には、「足跡」という詩を思い起こしてください。次のような詩です。「ある夜、私は夢を見た。私は、主とともに、渚を歩いていた。暗い夜空に、これまでの私の人生が映し出された。どの光景にも、砂の上に二人の足跡が残されていた。一つは私の足跡、もう一つは主の足跡であった。これまでの人生の最後の光景が映し出された時、私は、砂の上の足跡に目を留めた。そこには一つの足跡しかなかった。私の人生でいちばんつらく、悲しい時だった。このことがいつも私の心を乱していたので、私はその悩みについて主にお尋ねした『主よ・・・私の人生のいちばんつらい時、一人の足跡しかなかったのです。一番あなたを必要とした時に、あなたが、なぜ、私を捨てられたのか、私にはわかりません』。主は、ささやかれた『私の大切な子よ。私は、あなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。ましてや、苦しみや試みの時に。足跡が一つだった時、私はあなたを背負って歩いていた』」。イエスが見えない時こそ、イエスは私たちのために労しておられる、そのような信仰がここにあります。私たちの心の目を主が開いて下さった時(24:45)、私たちは主と出会います。
3.全ての国々へのメッセージの委託
・弟子たちの心の目を開いて下さったイエスは言われます「メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる」(24:46-48)。「全ての国々へのメッセージ」をイエスは弟子たちに委託したのです。教会の伝道はこのようにして始められました。今日の招詞にマルコ16:19-20を選びました。ルカの宣教命令の基になったマルコ福音書の言葉です。「主イエスは、弟子たちに話した後、天に上げられ、神の右の座に着かれた。一方、弟子たちは出かけて行って、至るところで宣教した。主は彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった」。
・今年2009年は日本宣教150年の記念の年です。多くの宣教師たちが、イエスの宣教命令を聞いて「全ての国々の人々へのメッセージ」を携えて、日本に来ました。今日はその中の一人、J.C.ヘボンの生涯を辿りながら、イエスの言葉がどのように人々を動かしていったのかを見てみます。私たちの教会はこの7月に「宣教150年記念バスツアー」を計画していますが、訪れる場所の多くが、ヘボンゆかりの地です。
・J.C.ヘボンは、米国ペンシルベニア州に生まれ、大学医学部に学んで、医学博士となりました。当初彼は、妻と共に、宣教医として中国のアモイに派遣され、医療伝道に従事しますが、妻が病み、5年後に帰国します。その後、ニューヨークで開業し、名医として知られ、富と名声を得ますが、なお外国伝道の志が消えることはありませんでした。ある日曜日の午後、我が子の墓の前にたたずんでいる時、彼は「来て、私たちを助けて下さい」(使徒言行録16:9)という声を聞き、その声に動かされて、再び海外宣教を志します。ちょうどその頃、日米通商条約が結ばれ、ヘボンは北米長老ミッション本部宣教医として、妻とともに日本に向かいました。1859(安政6)年日本に到着し、神奈川宿にあった成仏寺本堂に住み、医療伝道を開始し、同時に日本語の研究と和英辞書の編集につとめました。1863(文久3)年横浜居留地39番のヘボン邸に移り、施療所も併設して日本人を無料で診療するとともに、邸内で夫人とともに「ヘボン塾」を開きます
・この「ヘボン塾」で学んだ人々の中から、明治期の指導者が多く出ています。後に外務大臣となった林董、総理大臣を務めた高橋是清、三井物産の創始者である益田孝、毎日新聞社創設の沼間守一、日本最初の医学博士となった三宅秀などがそうです。やがてヘボン塾はJ.C.バラに引き継がれて「バラ学校」となり、その男子部が今日の「明治学院」、女子部がフェリス女学院となります。またヘボンは、伝道の傍ら、日本語の習得に努め、その成果は日本最初の和英辞典となり、この辞典に使われたローマ字がいわゆる「ヘボン式ローマ字」のもととなります。彼は更に「新約聖書」、「旧約聖書」の翻訳にも取り組み、1880年(明治13)年には「新約聖書」が、1887年(明治20)年「旧約聖書」の翻訳が完成しました。また1874(明治7)年ヘボン邸で18人の信徒により横浜第一長老公会が開設されますがこれが後の横浜海岸教会へ、更に彼が自費で建てた住吉町教会が後に横浜指路教会となっていきます。彼はこのように多くの成果を上げますが、晩年の手紙の中でこのように書きます「もう私が日本で働く時は長くないと思います。妻と私の二人は気候の加減でリュウマチに悩んでいます。私は家に引きこもっています。車でなければ外に出られません。妻はこの点で悪くはないのですが、苦痛と眠れない夜のために苦しんでいます。この三月で私は76歳になります。そしてその時は引退の時です」(ヘボン書簡集・1890年1月21日)。
・彼が日本に来る契機になったのは、使徒言行録の言葉に励まされたからです。使徒言行録の中でルカは記します「その夜、パウロは幻を見た。その中で一人のマケドニア人が立って、『マケドニア州に渡って来て、私たちを助けてください』と言ってパウロに願った。パウロがこの幻を見たとき、私たちはすぐにマケドニアへ向けて出発することにした。マケドニア人に福音を告げ知らせるために、神が私たちを召されているのだと、確信するに至ったからである」(使徒16:9-10)。そして30年以上にわたる宣教の働きの後、ヘボンは言います「世を去る時が近づきました。私は、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました(�テモテ4:6-7)。ヘボンを動かしたのは「イエスは生きておられる。そして私に“全ての国々へのメッセージ”を伝えるように使命を与えられた」との信仰です。この信仰が日本にキリストの教会を建て、今ここで私たちが礼拝する礎を与えてくれたのです。私たちが今ここで礼拝をしている、その基礎には、大勢の宣教師たちの働きがあります。「イエスは復活された。イエスは生きておられる。そして私たちの働きを望んでおられる」、私たちはこの信仰にどのように応答すべきかが、問われています。