1.イエス・キリストの福音の初め
・先週から私たちはアドベント(待降節)を迎えています。イエス・キリストの降誕をお祝いし、その再臨を待ち望む季節です。アドベント第二主日の今日、マルコ福音書を読みます。マルコ福音書は最初に書かれた福音書です。紀元64年、ローマ帝国はキリスト教徒の大迫害を行い、この時、ペテロやパウロは殉教したと伝えられています。教会は支柱となってきた使徒たちをなくし、混乱しました。使徒たちがいない今、福音をどのように伝えていけば良いのか、人々は祈り求めました。その時、使徒たちに親しく仕えていたマルコが使徒たちから聞いたことや伝承、口伝を集め、イエスの伝記を書いた、それがマルコ福音だと言われています。最初の福音書、マタイやルカが続いて福音書を書いた時に、その資料としたのがイエスの語録集(Q資料と呼ばれています)とこのマルコ福音書であり、本来ならば新約聖書の最初に来るべき書です。
・マルコはその福音書を次のように書き始めます「イエス・キリストの福音の初め」(マルコ1:1)。ギリシャ語原文を直訳すると次のようになります「始まった、福音が、イエス・キリストの」。新共同訳聖書にあります「神の子」と言う言葉は、括弧の中に入っています。有力な写本にはない、おそらくは後代の付加であろうと理解から括弧なのです。さて「始まった」という言葉はギリシャ語アルケーです。このアルケーと言う言葉が当時の人々が読んでいた70人訳ギリシャ語聖書では創世記冒頭に使われています「初めに神は天地を創造された」(創世記1:1)、「初めに」、ヘブル語べレシートがギリシャ語アルケーに翻訳され、その言葉をマルコは福音書冒頭に用いています。旧約聖書も新約聖書も「初めに」と言う言葉で始まっているのです。この「初めに」と言う言葉を通して、マルコは「天地創造によって世界は始まったが、イエス・キリストが来られて、この天地は再創造された」と宣言しています。
・何が始まったのか、「福音」が始まったとマルコは言います。福音=ギリシャ語ユーアンゲリオン、良い知らせの意味です。「イエスが来られて良い知らせ」が始まったとマルコは言います。当時ユーアンゲリオンという言葉はローマ皇帝即位の告知に使われました。ローマ皇帝=世界の支配者、人類に平和と救いをもたらす皇帝の出現こそ、ユーアンゲリオン=良い知らせであると帝国の人々は告知されたのです。その言葉をマルコはイエス・キリストの出現に用いています。敬愛するペテロやパウロがローマ皇帝によって殺されたばかりの状況の中で、あえて福音という特別な言葉をイエスに用いています。マルコは、「ローマ皇帝が王ではなく、イエス・キリストこそ王であり救い主である」と命をかけて信仰の告白をしているのです。
・マルコは続けます「イエス・キリストの」、イエスはジョシュアのギリシャ語訳、キリストはメシアのギリシャ語訳です。ナザレのイエスこそ救い主=キリストなのだとの信仰告白です。マルコはその信仰をマラキ書やイザヤ書を引用して説明します。それが1章2-3節の言葉です「預言者イザヤの書にこう書いてある『見よ、私はあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう。荒れ野で叫ぶ者の声がする。主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ』」。イエスが生まれられた時代は混乱の時代でした。当時のユダヤはローマの支配下にありましたが、ローマからの独立を求める反乱が各地に起こり、多くの血が流されていました。神を信じぬ異邦人に支配されることは、自らを選びの民と自負するユダヤ人には忍び難い屈辱であり、今こそ神は、彼らを救うためにメシアをお送り下さるに違いないという期待が広がっていました。
・その期待が引用されたマラキ書とイザヤ書の言葉の中にあります。マラキは歌います「見よ、私は使者を送る。彼はわが前に道を備える。あなたたちが待望している主は、突如、その聖所に来られる」(マラキ3:1)。神が世を救うために直接来られる、そのしるしとしてまず使者が送られるとマラキは預言し、マルコはその使者こそバプテスマのヨハネであり、そのヨハネの紹介でイエスが世に出られることを予告します。そしてイエスが来られた時こそ、解放の時であることを、マルコはイザヤ書40:3を通して歌います「呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え、私たちの神のために、荒れ地に広い道を通せ」。国を滅ぼされ、バビロンの地に捕囚としてとらえられている民に、故国ユダに戻る時が来たので準備せよ、バビロンからエルサレムまでの長い道のりは主が既に整えられたという喜ばしい知らせが与えられました。
2.ヨハネのメッセージとイエスのメッセージの違いを見よ
・マルコは1:4からバプテスマのヨハネの記事を書き始めます。ヨハネは「荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた」(1:4-5)と。イエスはガリラヤでヨハネ宣教のうわさを聞かれ、内心の燃える思いに駆り立てられ、ガリラヤを出られました。その時、30歳であったとルカは伝えています。それまでイエスは故郷のナザレで、家業である大工をされていましたが、ヨハネを通して神から招きを受け、故郷を捨てて、ユダヤに向かわれたのです。そのヨハネからバプテスマを受けて、イエスの宣教が始まりました。
・ヨハネは言います「私よりも優れた方が、後から来られる。私は、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。私は水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる」(1:7-8)。人びとは力強い言葉で神の言葉を語るヨハネこそが、メシア=救い主ではないかと思いましたが、ヨハネは人々の思惑を否定し、自分はメシアのために道を整える者、私の後から来られる方こそがメシアであると宣べ伝えました。その方こそ、ナザレのイエスであったとマルコは主張しています。他の福音書記者マタイやルカはヨハネを賞賛します「およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった」(マタイ11:11、ルカ7:28)。しかしマルコにはこのような賛辞はありません。逆にマルコは、ヨハネに「私はかがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない」と言わせています。ヨハネはイエスの準備をしただけであって、私たちはヨハネではなく、イエスをこそ見つめるべきであるとマルコは言います。
・ヨハネが宣べ伝えた宣教は「悔い改めよ、そうしなければお前たちは滅ぼされるだろう」というものです。ルカ3章にヨハネの言葉が残されていますが彼は次のように述べます「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ・・・斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる」(ルカ3:7-9)。神の怒りは限界に達している、だから悔い改めよ。ヨハネの宣教の基本は裁きなのです。だから荒野で、預言者の服を着て、悔い改めのメッセージを行ったのです。
・それに対してイエスは荒野を出てガリラヤに行かれ、神の国の福音を説かれて言われました「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(1:15)。ヨハネの宣教とイエスの宣教の違いを理解することは大事なことです。何故ならば多くの場合、私たちはヨハネの宣教を宣べ伝えているからです「罪を認めなさい。悔い改めなしには救いはない」、「信じなさい、信じない者は地獄に行く」。これは良い知らせ=福音ではありません。「天国は信じる者にのみ開かれているのか」、イエスは信じない者のために活動された、そこに「良い知らせ」があるのです。
3.福音~喜ばしきおとずれ
・林晃(あきら)と言う牧師がおられます。今回の説教準備のためにその説教集「イエスの実像と虚像~マルコ福音書講解」(新教出版社、2004年)を読みましたが、その中に次のような言葉が出てきました「マルコには“悔い改め”、あるいは“悔い改める”と言う言葉は3回しかないが、マタイには7回、ルカには14回出てくる。マルコの描くイエスは悔い改めという言葉を積極的に語らないが、マタイやルカの描くイエスは悔い改めという言葉を積極的に使う。マタイもルカも、イエスが洗礼者ヨハネの宣教=悔い改めと罪の赦しを継承していると考えているからだ。それに対してマルコは“新しい酒(喜ばしき訪れ)を旧い皮袋(裁きと赦し)に入れてはいけないと言っている・・・悔い改めるべきは教会と牧師ではないか」。イエスが述べられたのは「福音=良い知らせ」であり、決して裁きではない、その区別をしてこなかった教会は悔い改めるべきだという林牧師の言葉の中には聞くべきものがあります。
・今日の招詞としてルカ7:22-23を選びました。次のような言葉です「それで、二人にこうお答えになった『行って、見聞きしたことをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。私につまずかない人は幸いである』」。
・バプテスマのヨハネはヘロデ王を批判したために捕らえられ、牢に幽閉されていましたが、牢の中でイエスの言動を聞き、この人は本当にメシアなのかを疑い、弟子たちをイエスのもとに派遣して聞かせます「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」(ルカ7:20)。ヨハネが期待したメシアは不信仰者たちを一掃し、新しい世を来たらせる裁き主でした。しかし、イエスは罪人と交わり、貧しい人を憐れみ、異邦人を癒されています。裁きの時に罪人は滅ぼされる運命にあるのに、イエスは罪人の救いのために尽力されている。神の国は裁きではなく救いであることをヨハネは理解できなかったのです。ヨハネはイエスにつまずきました。そのヨハネにイエスはイザヤ61章を引用してお答えになりました。それが招詞の言葉です。「福音とは喜ばしき訪れではないか。その喜びを聞いて、人は神の前にふさわしい者に変えられて行く」のだと。
・街中を宣伝カーで走りながら、「信じなければ死後裁きにあう」、「洗礼を受けない者は地獄に落ちる」などと音声を流している団体があります。天国と地獄の絵を並べて、「あなたの行く先はどこか」と書いたパンフレットを配ったりもしています。聖書の言葉が引用されていますが、彼らの言っていることはヨハネの宣教であっても、イエスの宣教ではありません。聖書全体が語り、イエス・キリストが命をかけて証しされたことは、神はご自分の敵である者をも愛して下さるということなのです。教会は往々にして、この宣伝カーに乗るような宣教をしてきたのではないかと反省します。「罪をまず認めさせて、その上で罪の赦しを語る。救いの前に罪人をつくる」、これはヨハネ的な脅迫説教であり、イエスの語られた「良い知らせのおとずれ」とは違うのではないかと思います。「イエスは良い知らせを語られた、私たちはその良い知らせの贈り物をそのまま受け取れば良いのではないか」、クリスマスを前にマルコを読み直してみて、そう思いました。最後にパウロの言葉を聞きましょう「神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。なぜなら、『恵みの時に、私はあなたの願いを聞き入れた。救いの日に、私はあなたを助けた』と神は言っておられるからです。今や、恵みの時、今こそ、救いの日」(�コリント6:1-2)。この喜ばしき訪れを隣人に届けることこそ、クリスマスの最良のプレゼントなのです。