1.モーセは命じた「殺してはならない」。
・毎月第四主日は私(水口仁平)が、マタイによる福音書・山上の説教から話させていただいています。今日はその第四回目で、主題は「殺してはならない」です。この戒めは十戒の第六戒にありますが、詳細はレビ記にあります。レビ記は記します「人を打ち殺した者はだれであっても、必ず死刑に処せられる。家畜を打ち殺す者は、その償いをする。命には命をもって償う」(レビ記24:17-18)。「人を殺してはならない。殺す者は殺される」、どの共同体にもある普遍的な戒めです。しかし、イエスは律法以上のものを私たちに求められます。イエスは言われました「あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない」(5:20)。律法では殺さなければ戒めには反しません。しかし、イエスは「実際に殺さなくとも、人を殺す場合がある」と指摘されます。イエスは言われます「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、私は言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる」(5:21-22)。
・兄弟に腹を立てるとは、怒りや憎しみの感情を持つことです。兄弟に対して“ばか”と言うのは、怒りや憎しみの感情を面に表すことです。兄弟を愚か者とののしるとは、兄弟に対して「あなたは神に呪われた存在だ」と罵倒することです。怒りの感情は昂進し、それに応じて罰則も重くなります。そして、兄弟に腹を立てることも殺すという行為と同じだと言われます。ヤコブは言いました「人はそれぞれ、自分自身の欲望に引かれ、唆されて、誘惑に陥るのです。そして、欲望ははらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます」(ヤコブ1:14-15)。怒りや憎しみが人を殺害と言う行為に走らせるのです。だから「腹を立てるな、兄弟に“ばか”と言うな、兄弟をののしるな」とイエスは言われます。
2.イエスは言われた「人を怒ることは人を殺すことだ」。
・人を殺すなという戒めであれば、普通の人は守れます。しかし兄弟に腹を立てることは殺すことと同じだと言われたら、私たちは途方にくれます。何故このような守ることの出来ない水準までイエスは要求されるのでしょうか。それは兄弟に対する怒り、自分は正しいと考える為の兄弟との不和を解決しない限り、殺人は必ず起こるからです。創世記4章にありますカインとアベルの物語もそれを示しています。カインは土を耕す者として、土の実りを主に捧げました。弟アベルは羊を飼う者として、羊の初子を主に捧げました。主はアベルの捧げ物を受け入れ、カインの捧げ物を受入れませんでした。何故かを聖書は言いません。世の中には理由のつかない出来事、不条理は常にあるのです。その不条理、弟が受入れられて自分は受入れられなかった出来事に対して、カインは怒り、弟アベルを憎みました。そのカインの心を見て主は言われます「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない」(創世記4:6-7)。カインはアベルを殺しました。兄弟に対して怒る、殺人と言う行為はそこから始まるのです。
・怒りが殺人に結びつくことを物語作者も知っていました。シェークスピアの「ロメオとジュリエット」もその一例です。劇の最初で、ロメオは自分を侮辱したティボルトに対して怒りを抑えて耐えます。何故ならば、テイボルトは愛するジュリエットのいとこだからです。ロメオとジュリエットは修道士ロレンソの計らいで密かに結婚式を挙げたばかりでした。しかし、ロメオの友人マキマーシオは侮辱に耐えるそのロメオの平静さを怒ります。「ああ、なんという不面目」と。しかし、この友人マキマーシオがティボルトに殺されたことを知った時、ロメオは平静さを失い、怒りをあらわにして、剣をティボルトの胸に刺して復讐を遂げます。それが、「ロメオとジュリエット」の悲劇の発端になり、ロメオとジュリエットは運命に翻弄される嵐の中に巻き込まれていきます。怒り、そこから生じる憎しみがマキマーシオを殺し、ティボルトを殺し、最後にはロメオとジュリエットの二人を死に導きます。怒りが殺人を招くのです。だから「殺してはならない」と命じたレビ記は、その前に「憎んではならない」と命じます。「心の中で兄弟を憎んではならない。同胞を率直に戒めなさい。そうすれば彼の罪を負うことはない。復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」(レビ記19:17-18)。
3.殺すなという戒めの完成は和解だ
・イエスは律法の根本を、心の動きにまでさかのぼって問われています。人の心の動きまでご存知の方は神しかおられません。イエスが言われるのは「裁きの権能を神に返せ」と言うことです。神は何を望んでおられるのか、神の子たちの平和を望んでおられます。故に、「人を殺すな」という戒めは、「人と和解せよ」と言う戒めになります。イエスは言われます「だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい」(5:23-24)。
・この場合、自分が正しいかどうかは問われていません。兄弟との間に不和があることが問題なのです。だから自分が正しいと思っても、その人と和解しなさい。和解するまで、神殿に来ることも赦さないと言われます「あなたを訴える人と一緒に道を行く場合、途中で早く和解しなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれるにちがいない。はっきり言っておく。最後の一クァドランスを返すまで、決してそこから出ることはできない。」(5:25-26)。
・先日、テレビのニュースで、川崎市のラーメン店で殺人事件があったことが報道されていました。事件の発端は、7月15日深夜に酔ってラーメン店に入った客が、店の経営者夫婦にクレームを付けたことだったようです。「ラーメンにトッピングするキャベツを、店がバケツのような容器から出した」といって腹を立て、文句だけでなく、いすなどをけったりしたともいいます。その一部始終を見ていた店の常連客が、彼を追いかけ、「店に迷惑をかけるな」として路上で口論となり、終には暴力沙汰になり、クレームをつけた客は路上に打ち倒され、数時間後に死亡しました。怒りが殺人になった現実の事件です。和解なしには、殺すなという戒めは完結しないのです。
4.イエスの十字架による和解
・今日の招詞にエペソ2:14-16を選びました。次のような言葉です。「実に、キリストは私たちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました」。
・イエスはあなたが正しいと思う場合でも、自分の方から和解しなさいと言われました。しかし、この和解は私たちには不可能です。私たちは自分の正しさにこだわり、正しさにこだわり続けた時、憎しみは憎しみのまま残ります。だからイエスは十字架で死なれ、十字架を通して、私たちに和解の道を開いてくださったのです。
・兄弟と和解する、それが「殺すな」という律法の完成なのです。D.ボンヘッファーは1937年に「キリストに従う」という書を書きました。山上の説教(マタイ福音書5-7章)を中心にした、キリストに従う生のあり方を追求している本です。彼はヒトラーがドイツに現れ、ドイツの教会がヒトラーをドイツの解放者、再建者とたたえ始めた時、その悪魔性を見抜き、告白教会を組織して、権力との戦いを始めました。悪と戦うためには善なる者、キリストに徹底的に従うのだとして、彼はこの本(原題『服従』)を書きました。その中で彼は書きます「今はまだ恵みの時である。何故なら、なお我々には一人の兄弟が与えられており、なお我々は一緒に道を行くからである。我々の前には裁判がある。なお我々は兄弟の願いに答えることができるし、なお我々がその負債を払うことは可能である。やがて我々が裁判官の手に渡される時がくる。その時ではもう遅すぎるし、そうなれば最期の負債に到るまで法と罰が適用されるのである。イエスの弟子にとって、兄弟は律法とならずに恵みとされていることを理解しているだろうか。兄弟の意を迎えることが許され、兄弟が自分の権利を主張するのを許すことは恵みである。我々が兄弟と和解することができるのは恵みである。兄弟は審きの前の恵みである」(ボンヘッファー選集�「キリストに従う」、新教出版社)。先に見たロメオとジュリエットの悲劇の背景にはお互いの家の敵対関係があり、真相を知ったモンタギュー、キャピュレット両家は、悲劇の原因が自分たちにあるのを知り、和解しますが、既に遅かったのです。
・ボンヘッファーはやがてナチスに捕らえられ、処刑され、その著書は焼かれますが、彼の残した言葉は焼かれず、現代の私たちに残されています。キリストに集中した時に、私たちは世から解放され、世から自由になり、そして世に仕えることが出来ることをボンヘッファーは教えました。何故ならばキリストはそうされたからです。私たちはこのキリストに従っていく。キリストは言われました「あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい」、この言葉は真実です。キリストは自らの血を持って、この山上の説教を書かれたのです。ですから、私たちもまた十字架を背負いながら、この言葉に聴き、従うのです。「そんなことは出来ません。悪いのは彼なのです。私は正しいのに、私の方から謝れと言われるのですか」という言葉を、私たちは棄てるのです。