1.偽預言者の出現の中で
・ヨハネの手紙をご一緒に読んでいます。今日が5回目です。ヨハネの教会では、異なる信仰をもつ人々が、多数の信徒を連れて教会から離脱して行きました。グノーシスと呼ばれる信仰を持つ人々ですが、出て行った彼らの方が、ヨハネの教会よりも盛んになっていったようです。ヨハネは言います「偽預言者たちは世に属しており、そのため、世のことを話し、世は彼らに耳を傾けます」(4:5)。「世は彼らに耳を傾けた」、多くの信奉者がグノーシス派の教会に集まったことをこの文書は示唆します。今日でも人は自分の聴きたいことを話してくれる説教者を好みます。聴きたくないこと、都合の悪い真実は知ろうとしません。だから、偽預言者が出て、「信じれば病気は治る、苦しみはなくなる」と言えば、その言葉に頼っていきます。「きみは愛されるため生まれた」と言う歌が、若いクリスチャンの間で人気であることを前に申しました。「きみは愛されるため生まれた。きみの生涯は愛で満ちている」。耳障りは良い歌ですが、人を根底から動かす力はありません。何故ならば、そこには、十字架も贖いもないからです。このようなメッセージは、罪の悔い改めも信仰の告白も生みません。ヨハネは言います「愛する者たち、どの霊も信じるのではなく、神から出た霊かどうかを確かめなさい。偽預言者が大勢世に出て来ているからです」(4:1)。
・福音がギリシャ世界に入っていった時に、グノーシスという異端が生まれてきました。ギリシャ哲学によるキリストの福音の修正です。哲学は理性を根底に置きますから、理解できないものは否定していく。彼らは神の子がナザレのイエスとして人となられたことを否定し、イエスが十字架で死ぬことを通して自分たちの罪が贖われたことも否定していきました。つまり、歴史上のイエスがキリストであることを否定したのです。ですからヨハネは言います「イエス・キリストが肉となって来られたということを公に言い表す霊は、すべて神から出たものです。このことによって、あなたがたは神の霊が分かります」(4:2)。偽預言者たちは自分たちの理解を超える、神の子の受肉という神秘を認めることが出来なかった。しかし、信仰とは、人間の限界を超えた力を信じていくことです。使徒ヨハネは福音書の中で述べました「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3:16)。イエスがキリストであることを否定する者は偽預言者といわざるを得ないではないかと、手紙の著者長老ヨハネは言います。
・偽預言あるいは異端は人の欲から出ます。彼らは他者の幸福よりも、自分の満たしを求めます。神の愛は自己より他者を気にかける。そこに兄弟愛があるかどうかで真偽を判別しなさいとヨハネは教えます。ヨハネは4:7から有名な愛の賛歌を展開します。4:7-10は韻文で書かれており、パウロがコリント書で記す愛の賛歌(�コリント13章)と同じくらい大切な箇所です。「愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです」(4:7-8)。私たちが正しい信仰の中にいるかどうかは、私たちが兄弟を愛するかどうかでわかります。ヨハネは続けます「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、私たちが生きるようになるためです。ここに、神の愛が私たちの内に示されました。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛して、私たちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。愛する者たち、神がこのように私たちを愛されたのですから、私たちも互いに愛し合うべきです」(4:9-11)。
2.愛とは何か
・愛を意味するギリシャ語には、エロス、フィリア、アガペーの三つがあります。本田哲郎というカトリックの神父はそれをこのように説明します「人の関わりをささえるエネルギーは、エロスとフィリアとアガペーである。この三つを区別無しに“愛”と呼ぶから混乱する。エロスは、妻や恋人等への本能的な“愛”。フィリアは、仲間や友人の間に、自然に湧き出る、好感、友情として“愛”。アガペーは、相手がだれであれ、その人として「大切」と思う気持ち。聖書で言う愛はこのアガペーである。エロスはいつか薄れ、フィリアは途切れる。しかしアガペーは、相手がだれであれ、自分と同じように大切にしようと思い続けるかぎり、薄れも途切れもしない。小さくされ、つらい思いをしている人の前に立つとき、家族のように愛せるか、親友の様に好きになれるかと、自分に問うことは意味がない。自分自身が大切なように、その人を大切にしようと態度を決めること。そのとき、互いの尊厳を認め合う関わりが始まる」(本田哲郎、全国キリスト教学校人権教育協議会・開会礼拝より)。
・エロスとフィリアは人間の本性に基づく、感情的な愛であり、その基本は好き嫌いです。人間の本性に基づくゆえに、その愛はいつか破綻します。人は自分のために愛するのであり、相手の状況が変化すれば、その愛は消えます。この愛の破綻に私たちは苦しんでいます。若い恋人たちは相手がいつ裏切るかを恐れています。妻は夫が自分を愛してくれないことに悩みを持ちます。信頼していた友人から裏切られた経験を持つ人は多いでしょうし、生涯を捧げてきた会社からリストラされた時、欝になって自殺する人もいます。私たちの悩みの大半は人間関係の破綻から生じています。だから私たちはアガペーの愛を知ることが必要です。このアガペーは私たちの中には元々ない愛です。それはイエスの十字架を通して私たちが与えられた愛だとヨハネは言います。「神が私たちを愛して、私たちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」(4:9)。この愛です。この愛を私たちは神からいただいたのです。
・ヨハネは言います「神は私たちに、御自分の霊を分け与えてくださいました」(4:13)。聖霊によって私たちは神が私たちを愛してくださることを知った。だから私たちも兄弟を愛していくのだ。そのことをヨハネは次のように言います「私たちが愛するのは、神がまず私たちを愛してくださったからです。『神を愛している』と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません」(4:19-2)。信仰は応答を、応答は行為を伴うのです。ですから行為の生まれない信仰、先に触れた「そのままで良い、あるがままでよい」という信仰は、信仰ではありえないのです。
3.敵をさえ愛していく愛
・今日の招詞にマタイ5:43-45を選びました。次のような言葉です「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、私は言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである」
・多くの人がこのイエスの言葉を説教しました。マルテイン・ルーサー・キングも、1963年に「汝の敵を愛せ」という説教を行いました。当時、キングはアトランタのエベニーザ教会の牧師でしたが、黒人差別撤廃運動の指導者として投獄されたり、教会に爆弾が投げ込まれたり、子供たちがリンチにあったりしていました。そのような中で行われた説教です。キングは言います「イエスは汝の敵を愛せよと言われたが、どのようにして私たちは敵を愛することが出来るようになるのか。イエスは敵を好きになれとは言われなかった。我々の子供たちを脅かし、我々の家に爆弾を投げてくるような人をどうして好きになることが出来よう。しかし、好きになれなくても私たちは敵を愛そう。何故ならば、敵を憎んでもそこには何の前進も生まれない。憎しみは憎しみを生むだけだ。また、憎しみは相手を傷つけると同時に憎む自分をも傷つけてしまう悪だ。自分たちのためにも憎しみを捨てよう。愛は贖罪の力を持つ。愛が敵を友に変えることの出来る唯一の力なのだ」と彼は聴衆に語りかけます。
・説教の最後で彼は敵対者に語りかけます「我々に苦難を負わせるあなた方の能力に対し、苦難に耐える我々の能力を対抗させよう。あなた方のしたいことを我々にするがいい。そうすれば我々はあなた方を愛し続けるだろう。我々はあなた方の不正な法律には従わない。我々を刑務所に放り込むがいい。それでも我々はあなた方を愛するだろう。我々の家庭に爆弾を投げ、我々の子供らを脅すがいい、それでも我々はあなた方を愛するだろう。覆面をした暴徒どもを真夜中に我々の家庭に送り込み、我々を打って半殺しにするがよい、それでも我々はなおあなた方を愛するだろう。しかし、我々は耐え忍ぶ能力によってあなた方を摩滅させることを覚えておくがいい。何時の日か我々は自由を勝ち取るだろう。しかし、それは我々自身のためだけではない。我々はその過程であなた方の心と良心に強く訴えて、あなた方を勝ち取るだろう。そうすれば我々の勝利は二重の勝利となろう」(信教出版社「汝の敵を愛せ」から)。
・キングは歴史を導く神の力を信じました。だから自らの手で敵に報復しないで、裁きを神に委ねました。白人は黒人を差別し、投獄し、彼らの家に爆弾を投げ込みました。しかし、キリストは彼らのためにも十字架にかかられたから、白人を憎まない。人間の愛は「隣人を愛し敵を憎む」愛です。しかし、キングはそれを超える神の愛、アガペーを私たちの人間関係にも適用すべきだと言います。何故ならば、「天の父の子となるためである」。あなたがたは信仰者ではないか、信仰者であれば歴史は神が導かれることを信じていこう。キングの言葉にアメリカは変わりました。キングは1968年に暗殺されて死にましたが、アメリカは18年後の1986年に、キングの誕生日である1月15日を国民の祝日にしました。パウロは言いました「知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる」(�コリント8:1)。「知識(グノーシス)」は人を高ぶらせますが、「愛(アガペー)」は人を造り上げるのです。キリストの十字架と復活に立つ信仰は、私たちにアガペーへの道、兄弟を愛する道に導きます。このことに信頼して、私たちはこの教会を形成して行きたいと願います。