1.イエスのバプテスマ
・新年を迎えて、ヨハネ福音書を読み始めています。先週、私たちはヨハネ1章の前半から「言=キリストが世に来たが、世は言を認めなかった。しかし、少数の者は信じ、神は信じた者に神の子となる資格を与えられた」ことを学びました。そして神の子となるとは、「奴隷ではなく自由人になることである」ことをローマ8章から教えられました。その神の子とさせられた喜びを形で示すのが、バブテスマと言う行為です。今日は、私たちがバブテスマを受けることの意味をヨハネ1章後半から学びたいと思います。
・4福音書はイエスの誕生を記した後、30歳までの出来事については何も語りません。ルカ福音書は、イエスは30歳になられるまで故郷のガリラヤにおられたと伝えます(ルカ3:25)。そのころユダヤでは、バプテスマのヨハネが立ち、「最後の審判の時が迫っている。罪を悔改めよ」と説き、そのしるしとしてバプテスマを授け始めていました。イエスはガリラヤでこのうわさを聞き、ヨハネからバプテスマを受けるために、ユダヤに来られました。恐らくは、ヨハネの悔改め運動に共鳴され、今こそ世を立て直す時だと思われたのでしょう。
・イエスが活動された時代は混乱の時代でした。当時のユダヤはローマの支配下にありましたが、ローマからの独立を求める反乱が各地に起こり、多くの人々の血が流されていました。神を信じぬ異邦人に支配されることは、自分たちを神の選民と考えるユダヤ人には忍び難い屈辱であり、今こそ神が立ち上がり、彼らを救うためにメシアをお送り下さるに違いないという期待が広がっていました。だから、人々はヨハネの「メシアの来臨が近づいている」との宣教の声に応えて、「ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた」(マルコ1:5)。
・ヨハネはユダヤ人にも、バブテスマを受けるように勧めました。これはエルサレムの宗教指導者には許しがたい行為でした。ユダヤ人は生まれながらに神の民であり、そのしるしとして割礼を受けていました。他方、異邦人は救いの外にあるので、異邦人はバブテスマを受けることによってユダヤ教団に加わることを許されました。バブテスマは異邦人が受けるべきもので、ユダヤ人は受ける必要はないとされたのです。しかしヨハネは「我々の父はアブラハムだなどと思ってもみるな・・・神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる」(マタイ3:9)といってユダヤ人にもバブテスマを求めました。これは旧来の権威の否定です。
・自分たちの権威を否定されたエルサレム指導者は人を送って、ヨハネを問いつめます「お前は誰だ」(ヨハネ1:19)。お前は何の権威でこんなことをするのか、お前はメシアなのかと彼らは聞きます。ヨハネは「私はメシアではない」と否定します。では「お前はマラキが預言したエリヤなのか」と彼らは問いつめます。ヨハネは違うと答えます。「では、終末に来るといわれたあの預言者なのか」と聞きます。今度もヨハネは違うと否定します。「ではお前は誰なのだ」というと問いに対してヨハネは答えます「私は荒れ野で叫ぶ声である。主の道をまっすぐにせよと」(1:23)。私は救いが来たことを知らせる者の足だとヨハネは答えます。そしてヨハネは言います「私は水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。その人は私の後から来られる方で、私はその履物のひもを解く資格もない」(1:26-27)。
・イエスはヨルダン川でヨハネからバブテスマを受けられました。その時の光景をマルコは記します「イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。水の中から上がるとすぐ、天が裂けて霊が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。すると『あなたは私の愛する子、私の心に適う者』という声が、天から聞こえた」(1:9-11)。イエスが水から上がられると、神の霊が鳩のように下って来たとマルコは証言します。イエスの目にそれは見えましたし、イエスに洗礼を授けたヨハネの目にも見えました。だからヨハネは証しします「私はこの方を知らなかった。しかし、この方がイスラエルに現れるために、私は水で洗礼を授けに来た。そして・・・私は霊が鳩のように天から降って、この方の上に留まるのを見た」(1:31-32)。
2.世の罪を取り除く神の子羊
・ヨハネはイエスのバプテスマを通して、イエスこそ神から遣わされたメシア、キリストであると信じました。彼はイエスを証しして言います「見よ、世の罪を取り除く神の子羊」(1:29)。罪を取り除く子羊とは、罪の身代わりとして捧げられる犠牲の羊のことです。エルサレム神殿では、過ぎ越し祭りの時に、子羊を犠牲として捧げます。かつて、イスラエル人がエジプトで奴隷として苦しめられていた時、神はイスラエル人を解放するために、エジプト人の初子を打たれました。その時、イスラエルの人々は、指示に従って家毎に子羊を屠り、その血を家の入り口に塗りつけていたので、死の手は彼らには及びませんでした。そして、イスラエル人たちはついにエジプト脱出に成功しました。この時から、罪の赦しのために、神殿で子羊を犠牲として捧げる事が始まりました。子羊が血を流すことによって、人の罪が赦される(過ぎ越される)と彼らは信じたのです。
・エジプト王の過酷な支配にあえぎ、逃れるすべもなかった奴隷のイスラエル人と同じ状況に、私たちもあると聖書は教えます。私たちは罪の縄目の中にあり、自分の力では罪からの脱出が出来ない状況にあります。それは私たちの心の中を見れば判ります。私たちが思うのはいつも自分のことであり、自分を基準にして毎日を生きています。誰かが私たちをけなした時、私たちはその人を憎みます。誰かが私たちより良い生活をしていれば、私たちは妬みます。私たちが誰かを愛するのは自分が愛されるためであり、私たちが誰かに従うのは利益を得るためです。私たちの行為はすべて見返りを求めています。この罪の思いが世に貪りと争いをもたらし、世を闇にしているのであって、この罪を取り除かない限り、救いはない。そして、この罪を取り除くために、イエスは来られたとヨハネはここで証をしているのです。
・イエスが十字架で死なれたことによって、この罪が取り除かれたというのが聖書の教えです。ペテロは言います「キリストは十字架にかかって、自らその身に私たちの罪を担ってくださいました。私たちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。」(1ペテロ2: 24)。キリストの受けた傷によって私はいやされたことを告白する行為がバプテスマです。バプテスマは信仰の完成ではありません。ヨハネが言いますように、水のバプテスマは悔改めのバブテスマであり、そのことによって、私たちが完全になるわけではなく、罪を犯さなくなるわけでもありません。しかし、それは救いの第一歩なのです。
3.己の栄光ではなく、神の栄光を
・今日の招詞にヨハネ3:29-30を選びました。次のような言葉です「花嫁を迎えるのは花婿だ。花婿の介添人はそばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。だから、私は喜びで満たされている。あの方は栄え、私は衰えねばならない」。ヨハネからバブテスマを受けて、自分が神の子であることを自覚されたイエスは、宣教の業を始められました。人々がイエスのもとに集まり、その数は、ヨハネのもとに集まる人の数を大きく超えるようになりました。その時、ヨハネの弟子たちとイエスの弟子たちの間で清めのことで論争が起きたとあります。恐らくは、ヨハネのバプテスマとイエスのバプテスマのどちらが、力があるのかについて、争いが起きたのでしょう。ヨハネの弟子たちは、師に訴えます「あなたの弟子であったイエスが人気を集め、みながそちらに行って、こちらには来ません。これは放っては置けません。何とかして下さい」。
・それに対して、バプテスマのヨハネが答えた言葉が今日の招詞です。ヨハネは言います「花嫁を迎えるのは花婿だ」(3:29)。イエスこそが花婿であり、私はその介添人に過ぎない。イエスにもとに多くの人が集まるのは当然だ。私たちは人の栄光ではなく、神の栄光を求めているはずではないか。あの方の隆盛を喜ぼうではないか。
・この世的に見れば、イエスはヨハネの弟子です。だから、ヨハネの弟子たちは怒ったのです。彼らの感情の中にあったのは「妬み」です。私たちも言います「頑張ったのに、評価してくれない」、「私の方が優れているのに認めてくれない」。ヨハネの弟子が持った感情は、私たちも持っている感情です。ヨハネの弟子たちも、私たちも人の栄光を求めているのです。 それに対して、ヨハネは言います「あの方は栄え、私は衰える」(3:30)。
・「あの方は栄え、私は衰える」という言葉は、重い言葉です。教会の中にも、競争があり、妬みがあります。アメリカでは牧師の地位は、教会の会員数と献金額で測られる傾向があるそうです。日本でも、教会の成長は会員数と献金額の伸びで示されます。人間はどうしても、見えるもので判断せざるを得ず、教会の見える物差しは「教勢」だからです。しかし、ヨハネ福音書が教えることは、それは聖書の考え方ではないということです。私もかつては、大きい教会を見て、うらやましいと思ったことがありますし、篠崎もそうなれば良いと思った時もあります。
・しかし、最近変えられてきました。篠崎には篠崎にしか出来ない役割が与えられている、その役割を見出し、果たして行けば良いと思うようになりました。牧師の役割もそうではないかと思います。牧師が教会を力強く指導して教会を栄えさせるのではなく、牧師は神の言葉である聖書と真剣に向かい合い、与えられたものを説教や祈祷会を通して、教会員の方々に示し、皆さんがキリストと出会う手助けをすれば良いのではと考えています。教会に集う人がキリストに出会う、そして「聖霊のバブテスマを受ける」、そのことをこそ、教会は目指していくべきなのです。「あなたがたは聖なる者となれ。私は聖なる者だからである」(ペテロ第一1:16)。神の子となる、聖なる者となる、バブテスマのヨハネの生き方、「あの方は栄え、私は衰える」ことこそ、神の子とされた者の生き方ではないかと思います。