1.何故神は戦争を許されるのか
・私たち日本人にとって、8月は平和を覚える月です。それは、広島、長崎に原爆が投下されて多くの人々が犠牲になった月であり、また、戦争が終わった日がある月だからです。この敗戦記念日の8月15日を前に、私たちは平和礼拝を持ちます。平和を覚えることはその平和を乱し続けてきた戦争を考えることです。人類は誕生以来、戦争を繰り返してきました。私たちは何故、戦争を止めることが出来ないのでしょうか。ヤコブは言います「何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いが起こるのですか。あなたがた自身の内部で争い合う欲望が、その原因ではありませんか。あなたがたは、欲しても得られず、人を殺します。また、熱望しても手に入れることができず、争ったり戦ったりします」(ヤコブ4:1-3)。争いは私たちの心の中の欲望が原因で起こります。その争いが個人を超えて地域、国家の争いになるのが戦争です。戦争が私たちの心の中の欲望から起こるとすれば、戦争をやめる方法はただ一つ、私たちが作り変えられる事、キリストに出会って新しくされる事しかありません。
・戦争は私たちの信仰に大きな揺らぎをもたらします。私たちは神が世界を創造され、統治しておられると信じますが、その時「神は何故戦争が起こることを容認されるのか」、「神はなぜこのような悪に介入されないのか」という疑問を持ちます。歴史上多くの人が、戦争の悲惨さに直面して「神様、あなたはどこにおられるのですか」と叫んできました。しかし、応答はありません。西欧社会では二度にわたる世界大戦で、多くの人が信仰を無くしました。キリスト教国同士が殺し合いを行い、その結果、数千万人の人が死んだからです。人々の信仰は揺らぎました「神は本当におられるのか、おられるならば何故このような悪を放置されるのか」。このような問いかけは今でもレバノンで、イラクで、アフガニスタンで問われています。
・2000年前にこの同じ問いに苦しんだ人々がいました。ヘブル書のあて先になった信徒たちです。ヘブル書はユダヤ教徒からの迫害に苦しめられ、信仰が揺らぎ始めたユダヤ人キリスト者へ書かれた手紙だと言われています。伝道により、多くのユダヤ人がキリスト教に改宗しましたが、彼らは家族・親族から絶縁され、地域共同体からも追われ、殺される人も出てきました。迫害の恐怖と信仰の倦怠の中で、信徒たちは訴えました「私たちはイエスが十字架から復活されたとの宣教を聞いて、この方こそ神の子と信じた。信じたばかりに、家から追放され、職を失い、捕らえられ、殺されようとしている。神は私たちのこの惨状をご覧にならないのか、何故私たちのために救いの行為を起こされないのか」と。その人々に書かれた手紙を私たちは今日、読みます。
・12章3節で著者は言います「あなたがたが、気力を失い疲れ果ててしまわないように、御自分に対する罪人たちのこのような反抗を忍耐された方のことを、よく考えなさい。あなたがたはまだ、罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません」(12:3-4)。一見すると厳しい言葉ですが、真意は慰めの言葉です。すなわち、あなた方は迫害の中で気力を失い、座り込んでいるが、御子キリストはそれ以上の苦しみを苦しまれた。しかし、御子は苦難に勝たれ、今は神の右に座しておられる。この御子を見よ、御子が十字架で血を流してくださったから、もうあなた方は血を流すほどの苦難は不要になったのだ、だから主を見つめて立ち上がりなさいという慰めがここに語られています。
・続けて、著者は箴言3:11-12を引用して言います。「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである」(12:5-6)。この苦難は父なる神から与えられている。肉の父が子を鍛えるように、父なる神はあなた方を鍛錬するために迫害という苦しみを与えられている。そして言います「およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです」(12:11)。愚かな者たちはこの訓練を耐えがたく思うかもしれないが、忍耐して試練に耐えた者には、「義」という平和に満ちた実が与えられるのだと。
・著者は言います「あなた方がこの苦難を不満を持って拒否し、不平を持って落胆するならば、苦難は苦難のままに終わり、あなた方を飲みつくすだろう。しかし、あなた方がそれを神から与えられた試練であり、神はこの試練を通して、祝福されようとしておられることを知るならば、その苦難はあなた方を平安の道に導くのだ」と。苦難を神からの鍛錬と受け止めても苦難は苦難です。出来れば避けたい、しかし避けられないものならば正面から受け止めよと著者は言います。そして言います「だから、萎えた手と弱くなったひざをまっすぐにしなさい。また、足の不自由な人が踏み外すことなく、むしろいやされるように、自分の足でまっすぐな道を歩きなさい」(12:12-13)。あなた自身がしっかり立つことによって、信仰の揺らいでいる友を助けなさいと言われています。
2.審きを与えられる神を見つめる
・今日の招詞として、哀歌3:28-33を選びました。次のような言葉です「軛を負わされたなら、黙して、独り座っているがよい。塵に口をつけよ、望みが見いだせるかもしれない。打つ者に頬を向けよ、十分に懲らしめを味わえ。主は、決してあなたをいつまでも捨て置かれはしない。主の慈しみは深く、懲らしめても、また憐れんでくださる。人の子らを苦しめ悩ますことがあっても、それが御心なのではない」。
・イスラエルの民は神に背き、堕落し、神から審きを受けます。その審きがバビロン軍の侵入、国の滅亡、民の離散として、目の前の現実となりました。紀元前587年のことです。エルサレムは焼かれ、民は殺され、主だった人々は敵の都バビロンに捕虜として連れ行かれました。その絶望の只中で書かれた記事が哀歌です。著者はエルサレム滅亡を目撃しました。彼は絶望の中で神を呪います「あなたは何故このような事をなさるのか」。しかし、祈り続ける中で、絶望が次第に希望に変わって行きました。「国の滅亡という審きを受けたが、神は私たちを見捨てられない。騒ぎ立てることをせず、静かに神に信頼して与えられた軛を負っていこう。この困難もまた神のご計画の中にあるものなのだから」。彼は言います「塵に口をつけよ」、「打つ者に頬を向けよ、十分に懲らしめを味わえ」。何故ならば、「主は、決してあなたをいつまでも捨て置かれはしない。主の慈しみは深く、懲らしめても、また憐れんでくださる」からだと。
・哀歌の著者は敗戦、国の滅亡を神の審きと見ています。自分たちは罪を犯した、だから神が私たちを打たれたのだと。そこには希望があります。神の審きであれば、神が怒りを収めて下さり、許して下さるなら、再び元に戻ることが出来ます。敗戦を神の審きと受け止めることは重い出来事です。しかし、そう受け止めることにより希望が生まれます。だから著者は絶望の中で神の名を呼ぶことが出来るのです。「主は、決してあなたをいつまでも捨て置かれはしない。主の慈しみは深く、懲らしめても、また憐れんでくださる。人の子らを苦しめ悩ますことがあっても、それが御心なのではない」と言うことが出来るのです。イスラエルは罪を犯しましたが、置かれた状況から逃げ出そうとせずに、苦難を徹底して味あう道を選びました。そこに国の再建の道が開かれました。
・私たち日本人は8月15日を神の審きと受け止めているのでしょうか。敗戦直後はきちんと受け止めたと思います。武力放棄を掲げる憲法を平和憲法として、喜んで受け入れました。もう戦争はしないと決意したのです。ところが時代の変遷の中で、8月15日の意味が変わってきました。敗戦記念日という呼び名が、いつの間にか終戦記念日に変わって行きます。敗戦記念日と呼ぶ時、そこには自分たちの罪に対して審きが下されたという悔い改めがあります。私たちは中国や韓国で取り返しのつかない罪を犯した、済まなかったという気持ちがそこにあります。しかし、終戦記念日と呼び変えた時、「苦しい戦争がやっと終わった」というニュアンスに変り、「私たち日本人も戦争で苦しめられた。原爆では大勢の人が死に、空襲でこんなに被害を受けた」という被害者意識が出てきます。私たち日本人は「哀歌」の精神を忘れて、戦後世界を構築してきたような気がします。ですから、もう戦争はしない、戦争のための武器を持たないという平和憲法で再出発しながら、いまでは「自衛力を持ち、周りの国から尊敬される普通の国になろう」として、防衛庁を防衛省に、自衛隊を防衛軍に変えようという動きが出ます。
・「8月15日を敗戦の日と呼ぶのは止めよう、60年も前のことではないか、日本人が罪を犯したとしてももう許されて良い十分な時は流れたではないか」と世間の人は言うでしょう。しかし、私たちクリスチャンはこの日を敗戦記念日として覚えたいと思います。私たちの罪に対して神が審きを与えられた日として記念したいと思います。私たちが与えられた苦難に対して、呪ったり文句を言ったり忘れたりしても、そこからは何も生まれません。苦い思い出が残るだけです。しかし、苦難を神が与えてくれたものとして真正面から受け止めた時、苦難は祝福に変わっていきます。迫害も戦争もあるいは苦難も、人間が起こすものです。しかし、それは神の御手の中にあります。そして私たちの神は「悪を善に変える力」をお持ちです。この信仰があれば、どのような迫害も苦難も、神からの訓練となり、その時私たちはパウロのように言うことを許されるのです「そればかりでなく、苦難をも誇りとします。私たちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを」(ローマ5:3-4)。