1.それぞれの賜物こそ尊い
・今日、私たちは「コリント人への第一の手紙12章」を読みますが、この箇所はパウロが教会はどうあるべきかを人間の体になぞらえて展開した箇所です。パウロは言います「体は一つの部分ではなく、多くの部分から成り立っています。・・・一つの部分が苦しめば全ての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれればすべての部分が共に喜ぶのです」。パウロの言いたいことは明確です。「教会には多くの人が集められる。ある人は裕福で、ある人は貧しい。ある人は信仰熱心で、別の人はそうでもない。ある人は心やさしいが、うるさい人もいる。しかし、それぞれがキリストに呼ばれてここにいる。私たちは主にある兄弟姉妹であり、一人一人が必要なのだ」と。
・パウロは何故、このような手紙をコリント教会に書いたのでしょうか。それはコリント教会の中で、裕福な人は貧しい人を見下し、信仰熱心な人はそうでない人を侮蔑するという現実があったからです。私たちは現代の教会においても、このような現実があることを知っています。だから、今日、この手紙を、私たちに宛てられた手紙として読みます。現実の教会は決して理想的な姿ではありません。私たちは教会の現実を見据え、どうすれば教会がキリストの体にふさわしいものになりうるのかを求めていく必要があります。何故なら、教会こそ、地上に立てられた神の国であり、大事な場所だからです。
・パウロの伝道により、エペソやガラテヤに教会が生まれ、コリントにも生まれました。生まれたばかりの教会はいろいろな問題を抱えていました。ガラテヤでは人々は律法を求めました「信じるだけで救われるのだろうか、律法=戒めを守らなければ救われないのではないか」。エペソでは人々は禁欲主義に傾いていきます「罪は肉体の欲から生まれる。この欲を断念してこそ救われるのではないか」。コリントで問題になったのは異言でした「救われた者は聖霊を与えられる。そのしるしが異言だ。異言を語れない者は聖霊を受けていないのだ」と主張する人々が現れました。「人は信仰によって救われる。救いは神の恵みである」ことを誰もが知っていますが、人は見えるしるし、救いの確証がほしいのです。苦労や困難の多い生活の中で、心の平安がほしいのです。ですから、何らかの行為を通して保証を得ようとします。
・異言、ギリシャ語でグロッサ=舌の言葉と呼ばれます。コリント教会では集会や祈祷会の時に、人々が霊的興奮状態になって、わけのわからない言葉を叫んだり、大声で讃美したりした現象があったのでしょう。今日でもペンテコステ系の教会では、異言を強調します。「人は水でバプテスマを受けただけでは不十分であり、聖霊のバプテスマを受けなければ救われない。異言こそ天使の言葉、聖霊のバプテスマを受けたしるしなのだ」と言います。コリントの人々も異言こそ霊の賜物として、異言を語る人々は、語れない者を信仰の薄い者として侮蔑しました。そのような教会にパウロは書きます「ある人には霊によって知恵の言葉、ある人には同じ霊によって知識の言葉が与えられ、ある人にはその同じ霊によって信仰、ある人にはこの唯一の霊によって病気をいやす力、ある人には奇跡を行う力、ある人には預言する力、ある人には霊を見分ける力、ある人には種々の異言を語る力、ある人には異言を解釈する力が与えられています。これらすべてのことは、同じ唯一の霊の働きであって、霊は望むままに、それを一人一人に分け与えてくださるのです」(12:8-11)。
・霊の賜物は異言だけではない、そもそも賜物(カリスマ)は主の恵み(カリス)によって与えられのではないか、主からいただいたのに何故、誇るのかとパウロは戒めます。ある人には知恵や知識を語る言葉が、別な人には病の癒しや奇跡を行う力が、他の人には異言を語る力が与えられます。それぞれが霊の働きであり、それぞれが尊い賜物ではないかと言うのです。教会はそれぞれの人が与えられた賜物を持って集まる所です。ある人は説教し、別の人は子供たちの世話をします。ある人は奏楽をし、別に人は受付に立ちます。みんなが祈ってばかりいて誰も子供たちの世話をしなかったら、幼児を連れた母親は礼拝どころではないでしょう。誰かが掃除をしてくれるから私たちは清潔な会堂で礼拝を行うことが出来ます。奏楽者がいるから共に讃美できます。礼拝は目に見えない多くの人々の働きで支えられています。その働きには、何が尊くて何が卑しいかの区別はありません。しかし、往々にして、教会の中で働きを差別化する動きが出てきます。牧師は御言葉を語るから偉いとか、執事は教会全体のために働くから教会の柱だとかの言動が知らず知らずの内に現れます。コリントの教会でもそうでした。パウロは言います「目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません」(12:21)。
・教会には熱心に奉仕する方がいる一方で、礼拝に来てもすぐに帰る人や礼拝を休みがちの人もいます。パウロは言います「体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです」(12:22)。教会にとって「弱く見える部分」、礼拝を休みがちな人や礼拝から遠ざかっている人こそ、教会の宝なのだとパウロはここで言います。その人は教会の誰かに、あるいは何かにつまずいて来ることが出来なくなっているのかも知れません。あるいは生活の中で苦しみが重過ぎて礼拝どころではないのかもしれません。そういう人々の存在を通して、教会の病変が見えてきます。その人たちこそ、教会にとって大事な人、気を配るべき人なのです。パウロは言います「神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています」(12:24-25)。コリント12章は、教会とは何か、私たちは何をすべきかを考えるために、多くの言葉を持っています。
2.愛が無ければ全ては空しい
・今日の招詞として〓コリント13:3を選びました。次のような言葉です「全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、私に何の益もない」。コリントの人たちは自分の神秘的な体験を誇ったり、知識を誇ったり、あるいは信仰の力を誇りました。中には全財産を教会に寄付した人もいましたし、信仰の証しのためであれば殉教しても構わないと言った人もいたのでしょう。パウロは彼らに警告します「異言を語っても預言の賜物があっても、また山を動かすほどの信仰があっても、愛が無ければ全ては無になる。全財産を捧げても、自分の命を捧げても、愛が無ければ全ては空しい」。
・愛の欠如、これはクリスチャンとして決定的な問題です。ましてや教会を預かる牧師の場合はさらに問題です。私が牧師になって6年がたちましたが、今自分にとって致命的な欠陥がこの愛の欠如かもしれないと思っています。27年間企業の中で働いてきましたので、文書や資料を作るのは慣れています。週報を作り、執事会の準備を行うのは苦になりません。神学校で6年間学び、牧師になってからも学びを続けていますので、祈祷会の資料や説教の準備も負担ではありません。管理者としては牧師に適しているかもしれません。しかし、慰め人、牧会者としては問題を抱えています。冷静であり知的であるかもしれないが、愛が欠けているのです。人に対する同情や慰めがあまりにも少ないのではないかと思っています。
・愛とは何か、パウロは次のように表現します「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」(13:4-7)。ある人の説教の中で、「この『愛』に変えて『私』を入れて読む時、その人の愛の水準がわかる」という言葉がありました。試しに入れてみましたら、この箇所は次のように変わりました「私は忍耐強くない。私は情け深くない。私は人をねたみやすい。私は自慢して高ぶる。礼を失することが多い。自分の利益を求めることは少ないが、常にいらだっている。恨みを抱くことは少ないし、不義を喜ばないで真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐えることは出来ない」。言葉を変える必要が無かったのは15箇所中、たったの4箇所でした。この愛のテストでは26点しか取れませんでした。牧師として明らかに限界を持っています。
・その時、パウロが12章で述べた言葉の意味がわかってきました。12章23−24節の言葉です「私たちは、体の中でほかよりも恰好が悪いと思われる部分を覆って、もっと恰好よくしようとし、見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとします。見栄えのよい部分には、そうする必要はありません。神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました」。見栄えの悪い部分とは、礼拝を休みがちの人、教会の中で役割を持ちたがらない人だと思っていましたが、実はこの私だったのです。主は見栄えの悪い者を牧師として立て、この教会を委ねておられるのです。何故でしょうか。しばらく礼拝を休んでおられる日野姉の所へは、筒井姉が毎週の週報を届けて下さいます。清子姉が体を痛めれば、ケイラ姉が見舞ってくれます。エレン姉の入院先には木元姉が行って下さいました。牧師が限界者故に、教会の兄弟姉妹がその限界を補う方向で動き始めているのです。こうしてこの教会では「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶ」(12:26)現象が起きています。牧師が限界者であることによって教会が教会にされています。
・パウロは言います「預言は廃れ、異言は止み、知識は廃れよう、しかし愛は決して滅びない」(13:8)。私たちにとって究極的な事柄は、聖書の学びでも熱心な奉仕でもないかもしれません。もちろん異言を語ることでもないでしょう。究極的に大事なことは、キリストが私たちを愛されたように、私たちも共にいる人を愛していくことなのです。その愛がこの教会ではなされている。牧師として、この教会の管理を委ねられていることを心から感謝します。同時に、この教会内で動き始めた愛を、教会の外へ、地域の人に運べるように、整えていくのが自分に与えられた大事な役割だと考えています。私たちはもう救われているのです。もうキリストにある平安の中にいるのです。ですから、戒めや禁欲や異言等の見えるしるしはいらないのです。ただ必要なものは愛だけ、キリストに押し出されていく行為だけなのです。