1.回心=目からうろこが落ちる経験
・「目からうろこが落ちる」という言葉がある。あることをきっかけにして、今まで見えなかった物事の本質や真相がわかるようになることを指すが、この言葉は聖書から来ている。使徒言行録9章によれば、パウロはダマスコの教会を迫害するために町に向かっていた時に、突然雷に打たれるような体験をし、光で目がつぶれ、人々から手を引かれて町まで連れて行かれた。その町で彼はアナニアというキリスト者に出会い、彼がパウロの上に手を置いて祈ると、パウロの目から「うろこのようなものが落ち」、元通りに見えるようになった。そしてパウロはこの出来事を契機にキリストの伝道者になった。ここに「目からうろこ」の原型がある。
・使徒言行録9:1-19にその次第が詳しく書いてあるが、具体的に何が起こったのかはわからない。わかることは、キリスト教徒を捕縛するためにダマスコに向かっていたパウロにキリストが現れ、そのキリストからの呼びかけで、パウロがキリストの宣教者に変えられたという事実である。このパウロの回心は、本人にもまた受け入れた教会にも、全く予想もしない出来事であり、これが後の教会にとって重大な転機になった。パウロがいなければ、福音はローマまで伝えられず、福音はユダヤ教の一派に止まっていたかも知れない。
・ここで描かれるパウロの回心は劇的であり、ある意味で特別なものだ。私たちは「自分はこのようなすごい体験をしたことがないので、なかなか信仰が本物にならない」とつぶやいたり、「私はまだこのような体験をしていないので、バプテスマを受ける決心がつかない」とか言う。しかし、多くの場合、回心はもっと静かな、あるいは目立たない形で起こる。聖書を見ると、パウロ自身はこの出来事を誇ったり、手紙で詳しく述べるようなことはしない。あくまでも個人の体験であり、それぞれの回心があるのだ。
・回心とは心の向きが180度変えられることだ。そのために、まず私たちは無力にされる。パウロの目が一旦つぶされたのと同じだ。ある人にとっては、それは事業の失敗や破産、家庭の不和や離婚、あるいは近親者の死等の形で与えられる。例えば事業の失敗の時に何が起こるのか。事業の盛んな時には大勢の人が回りに集まってくるが、事業が行き詰まり始めると、銀行は手を引き、得意先も冷たくなり、友人でさえ寄り付かなくなる。そして破産する。債権者は目をむいて借金の返済を迫り、親戚や兄弟でさえ、声もかけなくなる。そのような中で、必ず、やさしい言葉をかけ、再建のために力を貸す人が出てくる。今まで友だと思っていた人がそうではなく、今まで無縁だと思っていた人が友であることがわかる。クリスチャンであれば、今まで心に響かなかった聖書の言葉が、その人の人生を変える言葉として迫ってくる。教会に集まる人は何らかの形でそのような経験をしたか、する。しかし、今日の主題は回心ではない。回心後に、どのようなことが起こるのかを見るのが今日の主題だ。
2.召されること
・回心は神の側からの働きかけだ。それは私たちが「自分の魂の平安、自分の安心立命を得る」ために与えられるのではない。キリストはアナニアに言われた「私の名を伝える器としてパウロを選んだ。私の名のために彼がどんなに苦しまなければならないかを彼に知らせるよう」(9:16)。ガラテヤ書によれば、パウロはこの後すぐアラビアの荒野に行き、黙想の時を持つ。主が何故彼を召したかを祈り考えるためだ。彼は荒野で力をいただき、ダマスコに戻り、会堂で「イエスこそ救い主だ。私はその方にお会いした」と述べた。使徒言行録ではダマスコの宣教の結果については詳しく記さないが、彼はそこで3年間伝道したといわれている。しかし、思うような成果はなかった。成果がなかったどころか、彼を裏切り者とするユダヤ人に命を狙われ、危うく難を逃れてダマスコを脱出した(9:25)。
・それからパウロはエルサレムに行き、イエスの弟子たちの所に行った(9:26)。しかし、そこでも受け入れられなかった。何故ならば、彼はかって「家々に押し入って、男や女を引きずり出し、次々に獄に送って、教会を荒らし回った」(使徒8:3)男だったからだ。これまで教会を迫害してきた人が、「回心しました」と言って、弟子の仲間に加わろうとしても誰も信じない。バルナバの執り成しで、ようやくペテロたちも受け入れ始めたが、今度もまたパウロの命を狙う者たちが現れ、パウロはエルサレムからも逃げるように去り、失意のうちに故郷のタルソに戻る。このタルソ時代のパウロについて聖書は何も記述しない。そこでも伝道したのであろうが、目だった成果はなかったのであろう。パウロが再び使徒言行録に登場するにはそれから10年後のことである。
・パウロが回心したのは紀元32年ごろ、エルサレムに行ったのが35年、最初の伝道旅行が紀元48年だ。回心から15年が経っている。パウロは復活のキリストから直接召しを受けると言う華々しいデビューをしたが、その後の彼に与えられたものは伝道の失敗であった。15年の長い間、彼には活躍の場が与えられなかった。自分の使命はわかりながら、それを具体化する手立てがない。自分の進んでいくべき道がわからない、自分は本当にキリストの召しを受けたのだろうか、キリストに出会ったのは幻だったのか。パウロは悶々とする年月を送ったものと思われる。その年月がパウロを大伝道者とした。それはパウロが使徒として活動するために必要な熟成の時だった。私たちも熟成するために試練の時が与えられる。
3.新しき者とされて
・今日の招詞に〓コリント5:16-17を選んだ。次のような言葉だ「それで、私たちは、今後だれをも肉に従って知ろうとはしません。肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとはしません。だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」。
・今日の私たちはパウロの言葉を、ローマ書やコリント書を通じて聞く。しかし、パウロがその言葉を吐くまでには長い苦しみの時があったことを今日は覚えたい。回心は一瞬の出来事だ。それに対して、召命は一生の出来事だ。パウロがコリント教会への手紙を書いたのは紀元55年ごろと言われている。回心から20年以上が経っている。20年が過ぎても彼は言う「古いものは過ぎ去り、新しいものが生まれた」。そして、もう「肉に従って人を見ることをしない」と言う。肉に従うとはこの世の価値観に従うことだ。キリストの弟子になるとは、キリストが十字架を負われたように、私たちも十字架を負うことだ。この世の価値観を捨てる時が来る。パウロは弟子になったばかりにダマスコで殺されようとし、エルサレムでも命を狙われた。伝道者として熟成するために10年以上の忍耐の時を過ごさねばならなかった。使徒として小アジアやギリシャに出かけた時には、いたるところで、石を投げられ、鞭打たれ、獄につながれた。最後にはローマで十字架刑で殺されている。クリスチャンの一生は、この世的には割が合わない。しかし、苦しみに勝る喜びが与えられる。「目からうろこ」の体験をした喜び、真理が見えてくる喜びが与えられる。何よりも永遠の命の希望が与えられる。この世の命は過ぎ去るのだ。
・パウロは言う「私は、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。今や、義の栄冠を受けるばかりです。正しい審判者である主が、かの日にそれを私に授けてくださるのです」(〓テモテ4:7-8)。クリスチャンになって生きることは山に登ることだとある人は言われた。登っている時は苦しくて、もう二度と登りたくないと思うが、山頂に立って周りを見た時、なんともいえない喜びに包まれる。その喜びを経験した人は再び山に登る。自分が生かされている、どのような時も神が共におられる、そのことを知った喜びが私たちに与えられる。そして最後には死が休息として、褒美として与えられ、天に帰っていく。その希望を持つ時、もう何もいらない。パウロがローマで殉教したのは、彼が56歳の時だったといわれている。私も今年その年齢になった。いつ召されてもおかしくない年齢になった。「今後だれをも肉に従って知ろうとはしません」。この世的な成功はもう要らない、幸福な老後も望まない。ただ与えられた道を歩みたい。