1.招きと従い
・イエスはヨルダン川でヨハネからバプテスマを受けられた後、しばらく、ヨハネのもとにおられた。やがて、ヨハネはユダヤ当局から危険人物として逮捕される。イエスはこの事件を契機に、御自分の活動する時が来たことを悟られ、故郷のガリラヤに戻って宣教を始められた。そのイエスが言われた言葉がマタイ4:17にある「悔い改めよ。天の国は近づいた」。時は満ちた、神が行動を起こされた、だからあなた方も悔い改めて、神に帰りなさいと言う意味である。
・ルカ福音書によれば、イエスは、ヨルダン地方から、最初はナザレに戻られたらしい。しかし、故郷の人々はイエスの教えを受入れなかった。彼らは言った「この人はヨセフの子ではないか」(ルカ4:22)、何故、大工の子が我々に教えるのかという意味であろう。イエスはナザレを去り、ガリラヤ湖畔の町、カペナウムに来られ、そこに住まれた。カペナウムで宣教を始められたイエスが最初に為されたのは、弟子の招きであった。シモン・ペテロとアンデレはガリラヤの漁師であった。彼らが舟を出して漁をしている時、イエスは二人に言われた「私について来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう」(4:19)。二人はすぐに網を捨てて従った。
・ヨハネ福音書によれば、ペテロとアンデレは、バプテスマのヨハネの呼びかけに応えて、ヨルダン地方に行ってバプテスマを受けており、そこにおられたイエスの言葉も聞いている(ヨハネ1:40-42)。ガリラヤに戻ってからも、イエスの説教や行われた業を見たり、聞いたりしていたのだろう。日頃から、この人こそは真の預言者だと思っていた。だから「従いなさい」というイエスの言葉に、すぐに従った。この後、イエスはペテロの漁師仲間のヤコブとヨハネが舟の中で網の繕いをしているのをご覧になり、彼らも呼ばれた。この二人も、舟と父親を残して、すぐに従った。弟子とは「呼ばれて」、「従う」者だ。彼らは網を捨てて、舟を捨てて、あるいは父を捨てて、イエスに従った。イエスの招きの言葉の中に、有無を言わせぬ権威があった。従う=アコローセオーという言葉はマタイ4章の中心に位置する言葉だ。
・その後、「イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた」(4:23)。イエスは弟子たちと共に、ガリラヤの町や村を巡り歩かれ、宣べ、教え、病をいやされた。当時、病気は、神の呪い、罪の結果と考えられていた。罪を犯したから重い病気になり、体に障害が与えられたと人々は考え、病者や障害を持つ人を社会から締め出した。イエスが近づいて行かれたのは、このような人々、地の民と呼ばれた人々であった。徴税人、娼婦、重い病気を患う者、心の病を負う者、彼らは罪人として社会から隔離されていた。らい病者は街中に入ることは許されず、体に障害を持つ者も城壁の外でしか物乞いは出来ない。心の病は悪霊のなせる業と嫌われた。その人々にイエスは近づき、言われた「苦しみと悲しみを知るあなた方こそ神の子、神の愛される者」。そして、彼らの病をいやし、社会に戻りなさいと言われた。だから、人々はイエスのもとにあらゆる病人を連れて来、いやされた人々はイエスに従っていった。ここにも従う=アコローセオーと言う言葉が使われている。
2.私たちはどう従うのか
・今日の招詞に、マタイ10:7―8を選んだ。次のような言葉だ。「行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい」。
・イエスが弟子たちを宣教に遣わされた時の言葉だ。何のために弟子を呼ばれたのか。イエスの働きを継承するためである。そして、ここに教会の働きの集約がある。言葉だけではなく、「言葉と行為」による宣教である。宣べ伝える、あるいは教えることは教会の基本的業だ。どの教会でもなされている。現在の教会で不足しているのは、最後の部分、行為である。「病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい」。言葉の宣教だけでは、人々は救われない。他者の苦しみを受け入れ、共に分かち合う行為、すなわち癒しが必要なのだ。
・説教の言葉はそのままでは人の魂まで届かない。それは2000年前の出来事、2000年前の言葉であり、聴く人には何の現実性も持たない。その言葉が自分への呼びかけとして聞かれるのは、説教を超えた業、癒しの業がなされた時である。バプテスト連盟には300の教会があり、3万人の在籍会員がいる。しかし、毎週教会に来る人は、その半数に過ぎない。残りの人は、かっては教会に来て、悔い改め、バプテスマを受けたが、今は教会から離れている。御言葉が魂に届かなくなったからである。
・私たちの社会には登校拒否の子供たちがいる。家に引きこもっている若者たちがいる。心に病を持つ人たちがいる。行き場の無くなった高齢者の人たちがいる。大勢の人が苦しんでいる。彼らは慰めを必要としているのに誰も声をかけない。教会さえも声をかけない。それどころか、私たちの社会は彼らを隔離し、目に届かない所に押し込んでしまっている。家に押し込め、病院に押し込め、心の病を持つ人は精神病棟に、老人は施設に、死者は葬儀社に送り込んだ。そのため、病人のうめき、孤独な心の叫び、老人の歎き、死にいく人の恐怖が、隠され、痛みが見えなくなった。痛みが見えないから、痛みの共有化が無い。他者の痛みの共有化がないから、自分の救いだけを求めるようになる。教会もその中で「信じなさい。そうすれば救われます」としか言わなくなった。求めて教会に来た人も、平安が得られなければ、教会を去るしかない。教会が自分たちの救い、自分たちの癒しだけを求めるようになる時、教会は行き詰る。教会で無くなる。
・教会=エクレシアの語源は、呼ばれた=エカレオーである。私たちは、呼ばれて、教会に来たのだ。何のために、「人間をとる漁師になる」(4:19)ためである。自分の救いだけではなく、他者と痛みを共有し、それを自分の出来事とする癒しの業を行うように呼ばれている。イエスの癒しの業について、マタイは次のように表現した「イエスは言葉で悪霊を追い出し、病人を皆いやされた。それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。『彼は私たちの患いを負い、私たちの病を担った』」(マタイ8:16-17)。他者の患いを負い、他者の病を担う行為こそ、まさに教会に集められた私たちの業なのである。
・マタイを見ると、「従う」には、二つの段階があるようだ。まず、自分が救われる、いやされる、その経験を通してイエスに従う段階だ。マタイ4:25に言う「民衆としての従い」、これが最初だ。しかし、この段階に止まっている限り、福音は福音にならない。次の段階、弟子としての信従が必要になる。そして、私たちの準備が整った時、弟子として従うように招かれる。ペテロやアンデレのようにである。網を捨て、舟を捨て、家族を捨てて従えと招かれる。それは、世を捨てて出家せよとの意味ではない。会社を辞めて伝道者になれという意味でもない。今の職業のまま、今の家族のままで良いから、他者のために働く者、神の救いの業に参加せよとの招きだ。
・聴衆として、福音を聞く者として招かれた私たちは、ある時点で、弟子として、福音を行う者として、従うことを求められる。その時、私たちは招きを聞き流すことも出来る。しばらく待ってくださいと猶予を願うことも出来る。そしておそらく、私たちが招きに応えなかった時には、呼び集められた者の群=教会から、脱落していく。弟子になるとは、完全な者になることではない。弟子たちは「誰が一番偉いのかで争った」(マルコ9:34)し、イエスが捕らえられた時は、皆逃げた。それでも彼らはイエスを離れなかった。彼らを通して福音を伝えるとのキリストの心を知っていたからだ。ボンヘッファーは言う「キリストの生涯は、この地上でまだ終わっていない。キリストはその生涯をキリストに従う者たちの生活の中で、更に生きたもう」。