1.イエスにつまずく人々
・先週、私たちはイザヤの預言を聞いた。彼は言う「この世の悪を歎き、執り成す人がいないから、神が直接に行動を起こされる。神自ら贖う者としてシオンに来られる」(イザヤ59:20)。次にイエスが宣教の始めにナザレで宣言された言葉を聞いた。「囚われている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を、圧迫されている人を自由にするために、主は私を遣わされた」(ルカ4:18-19)。イザヤの預言がキリストの来臨として成就した、それがクリスマスであると。イエスは来られ、神の国の福音を述べられた。しかし、多くの人々はイエスの宣教につまずいた。イエスを世に紹介した、預言者ヨハネでさえもイエスにつまずいた。それが今日のテキスト、マタイ11章が述べる物語だ。
・バプテスマのヨハネは、人々に悔い改めを呼びかけた「斧は既に木の根本に置かれている。良い実を結ばない木は切り倒されて火に投げ込まれる」(マタイ3:10)。神の国は近づいている、悔い改めない者は滅ぼされるとヨハネは言い、人々はこぞってヨハネからバプテスマを受けた。イエスもこのヨハネからバプテスマを受け、宣教の業を始められた。ヨハネはイエスを世に紹介した人だ。そのヨハネは今、領主ヘロデの不道徳を批判したため、牢に捕らえられている。彼の望みは、挫折した自分の業をイエスが継承してくれることにかかっていた。
・獄中でヨハネはイエスの評判を聞いた。イエスは「貧しい人々は幸いである」と説かれ、盲人やらい病者をいやされている。そのようなイエスの言動を聞いて、ヨハネは違和感を覚えた。「メシアは世の罪を裁き、神の支配をもたらすために来られるのではないか。一人や二人の病人をいやして何になるのか、世を変えることこそ、メシアの使命ではないか」。ヨハネはメシアが来れば、世界は一変すると考えていた。しかし、イエスが来ても何も起こらない。ローマは相変わらずユダヤを支配し、ローマから任命されたヘロデは領主としての権力を誇っている。自分はそのヘロデに捕らえられ、やがて殺されようとしている。自分が世に紹介したイエスは本当にメシアなのか、という疑問が彼の内に起こった。だからヨハネはイエスに尋ねた。「イザヤの預言した、来るべき方はあなたなのですか。あなたは本当にメシアなのですか」(11:3)。
・それに対してイエスは応えられた「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、貧しい人は福音を伝えられている」。イエスは罪人を断罪するよりも、むしろ彼らを招かれた。イエスの弟子の中には、罪人の代表格とも言える徴税人もいる。イエスは人々に悔い改めを求めるよりも、天の父が彼らを愛し、養い、導いて下さることを告げ知らせた。その喜ばしい知らせのしるしとして、病や悪霊に苦しんでいる者をいやされた。しかし、人々は理解しなかったし、ヨハネもわからなかった。人々は自分の期待を込めた勝手なメシア像を作る。民衆はこの貧しい暮らしを良くしてくれるメシアを求め、支配者はユダヤをローマから解放してくれるメシアを求め、ヨハネは悪に満ちた社会を裁き、正義と公平を実現されるメシアを求めていた。彼らにとってメシアとは、自分達の願いをかなえてくれる人のことであった。イエス自身もそのことを知っておられた。だから言われた「私につまずかない人は幸いである」(11:6)。
・イエスが期待したような方でないことがわかると、民衆はイエスに失望し、離れて行った。それをイエスは次のように言われた「笛を吹いたのに、踊ってくれなかった。葬式の歌をうたったのに、悲しんでくれなかった」(11:17)。ヨハネが来て「罪を悔い改めよ」と言うと、「ヨハネは人間の罪ばかりをみて、悔い改めよとしか言わない。彼は悪霊につかれている」と批判し、イエスが来て「喜べ」と言うと、「イエスは断食もせず、罪人と交わっている。大食漢の大酒飲みで、徴税人や罪人の仲間だ」と受入れない。
2.つまずきを超えて
・人々はキリストにつまずいた。キリストが来ても何も変わらないではないか。生活はよくならないし、ローマは相変わらずユダヤを支配し、世の不正や悪は直らない。本当にこの人はメシアなのか。このつまずきは私たちにもある。信じてバプテスマを受けても、病気が治るわけではないし、苦しい生活が楽になるわけでもない。私たちも心のどこかで疑っている。この人は本当にメシア=キリストなのだろうか。
・今日、私たちは招詞として、マタイ11:28−30を選んだ。今日のテキストのすぐ後にある言葉だ。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでも私のもとに来なさい。休ませてあげよう。私は柔和で謙遜な者だから、私の軛を負い、私に学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。私の軛は負いやすく、私の荷は軽いからである。」
・私たちは、この招きが人々の心がイエスから離れ、最大の理解者であったはずのヨハネさえもイエスにつまずいた後でなされたことに注目すべきだ。人々は離れていった。ヨハネさえも理解してくれない。弟子たちも口には出さないが、半信半疑の思いでイエスを見ている。人間的にみれば、四面楚歌の中で、なおもイエスは人々のために重荷を負おうと申し出られている。弟子たちは、この時にはイエスの言葉の真意がわからなかっただろう。やがて、イエスが捕えられる時が来る。弟子たちは、その時はイエスを見捨てて逃げる。その見捨てを通して弟子たちは自分達の罪を知る。この福音書を書いたマタイは徴税人の出であった(マタイ9:9)。徴税人はローマのために税を集めるのが仕事であり、汚れた異邦人のために働く者として、社会のつまはじき者だった。その自分にイエスは声をかけてくれた。バルテマイはエリコの盲人で物乞いをしていた。そこを通ったイエスが声をかけ、目をいやして下さったことにより弟子になった。弟子たちはみな、イエスの弟子になる資格など無い者であった。その彼らを招かれたイエスを、彼らは見捨てる。
・十字架に照らされて、初めて、私たちは自分たちの罪が見える。人を愛そうとしても出来ないし、他者に尽くそうとしても出来ない。他者の痛みを理解することさえ出来ない。十字架を通して罪を知った弟子たちは、復活を通して、その赦しを知った。逃げ去った彼らのところに、復活のイエスが来て下さったからだ。十字架と復活を通じて、弟子たちは、信じることの出来ない弱い彼らのために、イエスが死んで下さった事を知った。そのことを知った時、弟子たちの生活は変えられた。もう前のような生活は出来ない。イエスの死後、弟子たちは「イエスは復活された。そのことを通して、イエスはキリストであることを示された。私たちはその証人だ。だから、あなた達も悔い改めて、イエスの招きを受入れなさい」と説いた。その時に、弟子たちはイエスの語られたこの招きを人々に伝えたであろう。ユダヤ当局者は彼らの言動に腹を立て、彼らを捕らえ、鞭打った。その時、弟子たちは「イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜んだ」と使徒行伝は記す(5:41)。
・この弟子たちをゲルト・タイセンは「キリストの愚者」と呼んだ。彼はイエスが来て何が変わったのかを、社会学的に分析した。その結果、「社会は変わらなかった。多くの者はイエスが期待したようなメシアでないことがわかると、イエスから離れて行った。しかし、少数の者はイエスを受入れ、悔い改めた。彼らの全生活が根本から変えられていった。イエスをキリストと信じることによって、『キリストにある愚者』が起こされた。このキリストにある愚者は、その後の歴史の中で、繰り返し、繰り返し現れ、彼らを通してイエスの福音が伝えられていった」。
・キリストにある愚者とは、世の中が悪い、社会が悪いと不平を言うのではなく、自分には何が出来るのか、どうすれば、キリストから与えられた恵みに応えることが出来るのかを考える人たちだ。この人たちによって福音が担われ、私たちにも伝承された。私たちも、人生のいろいろの場面で、弟子たちと同じ体験を通して、イエスに出会った。もう、元の生活には戻れない。今度は私たちが、苦しんでいる人、悩んでいる人を招く番だ。今度は私たちが「キリストにある愚者」になる番だ。クリスマスは私たちにそのような決断を促す時だ。