1.真理とは何か
・国立国会図書館本館の2階ホールの壁に「真理が我らを自由にする」という言葉が刻み込まれている。そこには日本語と共にギリシャ語の言葉も掲げられている。「へ・アレセイア・エレウセローセイ・ヒュマース」というヨハネ福音書8章32節の言葉だ。国会図書館は昭和23年に出来たが、創設にかかわった羽仁五郎の提唱でこの言葉が捧げられた。戦前の日本では、思想や学問は政治の統制下にあり、自由な学問研究は出来なかった。今、新しい時代になり、学問の自由が与えられた、「さあー学ぼう、真理が私たちを自由にするのだから」。その意気込みが、この言葉の中にある。それから60年が経った。学問の探求によって、いろいろな科学的真理が明らかになったが、私たちは自由になったのか。また、私たちは幸福になったのか。今日はこの「真理はあなたを自由にする」と言うヨハネ福音書の言葉を聖書の文脈の中で学んで見たい。
・この言葉は、神殿の境内におけるイエスと律法学者との論争の中で語られている。30節「これを語られた時、多くの人々がイエスを信じた」、イエスの力強い言葉を通して、多くの人が「この人はメシアだ」と信じた。その信じた人々に対して、イエスは語られた「私の言葉に留まるならば、あなたたちは本当に私の弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」(ヨハネ8:31-32)。あなたたちは私をメシアだと信じた。あなたたちが私の言葉に留まり続けるならば、あなたたちは自由になるだろうとイエスは言われている。
・ここで自由として使われている言葉は「エレウセロス=自由人」という言葉で、奴隷(ドウーロス)に対応する言葉だ。真理を知れば「あなたたちも奴隷ではなく、自由人になる」とイエスは言われた。だから、聞いているユダヤ人たちは反論した、「私たちは自由人です。誰の奴隷でもない」(8:33)。彼らは社会的には自由人だ。誰かの奴隷ではない。でも「あなたたちは本当に自由なのか。あなたたちは罪の奴隷ではないのか」とイエスは問われる。それが34節の言葉だ「罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である」。
・戦後、日本は自由になった。しかし、私たちは、その自由を「何でもして良い自由」だと誤解した。その結果起こったことは、みんなが勝手にやりたいことを行い、社会においては地域が崩壊して、隣に誰が住んでいるのかも知らない社会になってしまった。家庭においてもみんなが勝手に行為するために、家族はばらばらになり、離婚が増え、子供達の犯罪が増えた。私たちは行動の自由を得たかもしれないが、少しも自由になっていない。「あなたたちは自分が自由だと思っているが、実はまだ罪の縄目の中に閉じ込められているのではないのか」というイエスの問いかけに、私たちはどのように答えるのだろうか。
2.罪からの自由
・60年前の第二次大戦下では、600万人のユダヤ人が殺された。実際は戦争の前から、ユダヤ人迫害はあり、ヨーロッパでユダヤ人が平和に住むことの出来る地はなかった。大戦後、ユダヤ人たちは殺されなくとも済む安全な地を欲しいと神に願い、その願いがシオニズム運動(シオン=エルサレムに帰還する運動)となり、パレスチナの地にイスラエルが建国された。ユダヤ人の願いは聞かれた。しかし、その地には既にパレスチナ人が住んでおり、イスラエルの建国はそのパレスチナ人を押しのけて為され、今度はパレスチナ人が国を失くして難民になった。国を追われたパレスチナ人は、征服者であるイスラエルに対してテロや反抗を繰り返し、イスラエルは報復として、パレスチナ人居住区を爆撃し、住民を殺している。迫害される立場であったユダヤ人が、今では強者としてパレスチナ人を迫害している。
・一体、どうしたのだろうか。ユダヤ人は、歴史の中で、人類の苦しみを一身に集め、どの民族よりも悲惨な扱いを受け続けてきた。どの民族よりも迫害され差別される苦しみを知っているユダヤ人が、状況と立場が変われば、今度は容易に迫害者になる。第二次大戦下でのあの苦しみが何故、愛と寛容に変わっていかなかったのだろうか。それは、私たちが苦しみにおいてさえ、エゴイズムのとりこである事を示している。自分達はこんなにひどい目にあったことは忘れなくとも、今、相手が同じ苦しみを抱えていることが見えない。これは日本人も同じだ。私たちは広島の原爆悲劇を訴え続けているが、同じ被爆をした在日韓国・朝鮮人の慰霊碑は広島の平和公園の外にしかない。私たちが死ぬほど苦しむ経験をしても、その苦しみはまだ「私のもの」に留まり、他者への思いやりに昇華していかない。苦しみの中においてさえ、私たちは自己のことしか考えられない。私たちはまだ罪から自由になっていないのだ。
・では罪とは何か。聖書では罪とは神から離れることだと言う(罪=ハマルテイアは的から外れるという意味)。神なき存在では、人間は人間しか見えない。他者が自分より良いものを持っていればそれが欲しくなり(=貪り)、他者が自分より高く評価されれば妬ましくなり(=妬み)、他者が自分に危害を加えれば恨む(=怒り、恨み)。神のいない世界では、この貪りや妬み、恨みという人間の本性がむき出しになり、それが他者との争いを生み出していく。罪の思いが争いとなり、争いが死を招き、死が新しい罪を生んでいく。神なき世界では、この罪―死―罪という悪循環を断ち切ることが出来ないのだ。この罪の縄目から自由になるためには、人間が再び神を見上げることしかない。
3.キリストを仰ぐ
・今日の招詞にルカ23:33-34を選んだ。次のような言葉だ。「『されこうべ』と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。そのとき、イエスは言われた。『父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです』。人々はくじを引いて、イエスの服を分け合った。」
・イエスは十字架につけられた時、自分を殺そうとする人々の赦しを祈って言われた「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」。イエスは、十字架の苦しみの中で、復讐を誓われたのではない。イエスの苦しみは「今に見ておれ」と恨みを内に持ったものではなかった。イエスは自分を苦しめる者たちの赦しを神に請われた。ここに罪−死−罪の終わりなき循環を打ち切る神の業が為された。赦すことにより、敵との和解が可能になった。私たちはこの十字架の言葉を聞くことによって、自分の心の中の思い=罪から解放されるのだ。「キリストはあなたを赦された。だからあなたもあなたを憎む者を赦しなさい」という声を聞く。「真理はあなたを自由にする」とは、キリストの十字架という真理が、あなたを罪の縄目から解放して、他者を憎まない、他者の悪を数えないという自由人にすると言うことなのだ。真理とはキリストであり、自由とは「キリストにある自由」なのだ。その文脈を離れて、「人間の自由」だけを歌ってもそこには何も生まれないのだ。
・イエスは言われた「私の言葉に留まるならば、あなたたちは本当に私の弟子である」(ヨハネ8:31)。私たちは、信仰を告白しバプテスマを受けた。これによって過去の罪を赦された。しかし赦されてもなお私たちは罪を犯し続ける。ヨハネ8章のユダヤ人たちはイエスの言葉を聞いて悔い改めた。彼らはイエスの言葉が説得力を持ったから聞いた。しかし、「あなたは自由ではない」とイエスが言われた途端にイエスから離れていく。この論争の最後には、ユダヤ人たちはイエスの言葉に怒り、石を取り上げてイエスを殺そうとした(ヨハネ8:59)。人間は信仰を持っても、都合の良い言葉しか聞こうとしないのだ。バプテスマを受けるのは比較的容易だと思う。しかし、信仰を持続し、死に至るまでキリストのうちに留まり続けるのは難しい。だが、留まり続ける時のみに、真理は私たちを自由にする。だから、私たちは毎週教会に来て、説教を通して、イエスの言葉を聞く。そして、私たちが、イエスの言葉を毎日の生活の中で実践しようとし始めた時に、私たちは少しずつキリストにある自由に近づいていくのだ。