1.イエスの宮清め
・今日から2月、寒い日が続くが、日差しは強くなり、気候は少しずつ、春に近づいている。さて、ユダヤの春は過越祭りで始まる。春分の日の後の最初の満月が祭りの時で、ユダヤ全土から多くの巡礼者がエルサレム神殿に集まる。神殿に神が住んでおられると人々は考えていたからだ。イエスも過越の祭りを守られるためにエルサレムに上られ、神殿に行かれた。神殿は巡礼者で混雑し、犠牲の動物を売る屋台の声や両替を求める人の喧騒で満ちていた。イエスはこの喧騒を見て眉をしかめられた。
・神殿には、犠牲として捧げるための牛や羊、鳩を売る店があった。また、ローマやギリシャの貨幣をユダヤ通貨に両替する店があった。それらの店は必要なものだった。当時の礼拝は動物の犠牲を捧げて、罪の赦しを求めるのが主であったが、巡礼者は遠くから集まるから、犠牲の動物を連れてくることは難しく、羊や鳩を売る店で動物を求めた。また当時流通していたお金はローマやギリシャの貨幣であり、他方神殿に納めるお金はユダヤ貨幣(シケム)でなければならないとされていたので、両替が必要であった。必要ではあったが、そこことが神殿を祈りの家から、商売の家に代えていた。神殿には牛や羊の鳴き声がこだまし、両替を求める客と商人のやり取りの声が祈りの声を掻き消していた。イエスはこのような有様を見て、怒りを発せられ、縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、鳩を売る者たちに言われた。「このような物はここから運び出せ。私の父の家を商売の家としてはならない」(2:16)。
・温和なイエスが何故、このように怒られたのか。神殿とは、本来はそこで祈り、神と対話する場所だ。それなのに動物の鳴き声で騒々しく、また両替をめぐる駆け引きの声が、神殿を支配していた。何よりも大切な祈りの声が、両替や犠牲を求める声に圧倒されているという本末転倒の姿があった。そして、そ野背景には、献金をおさめ、犠牲を捧げれば救われるのだという信仰の形式主義があった。献金をして犠牲を捧げれば救われるのか、救いとはそんな安易のものではないと、預言者たちは繰り返し述べてきた。イエスより、500年前にでた預言者エレミヤは、神殿に来て形だけの礼拝を守る人々に警告している。「私の名によって呼ばれるこの神殿に来て私の前に立ち、『救われた』と言うのか。お前たちはあらゆる忌むべきことをしているではないか。私の名によって呼ばれるこの神殿は、お前たちの目に強盗の巣窟と見えるのか。その通り。私にもそう見える、と主は言われる。」(エレミヤ 7:10-11)。犠牲を捧げ、献金をしても、それは救いとは何の関係もないのだと預言者は繰り返し警告したが、人々は聞かない。イエスの声もまた聞かれないだろう。「わたしの父の家を商売の家としてはならない」(2:16)。イエスの神に対する熱心な思いがこのような過激な行為を招いた。それを見て、弟子たちは詩篇の言葉を思い浮かべた。「あなたの神殿に対する熱情が、私を食い尽くしているので、あなたを嘲る者の嘲りが私の上にふりかかっています」(詩篇69:10)。
2.神は何処に住まれるのか
・イエスの行為は、神殿を神の住まわれる宮、聖なる所であり、その神に犠牲と献金を捧げることこそ礼拝だと信じている祭司たちには、耐えられない冒涜行為であった。彼らはイエスに迫って言った「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしを私たちに見せるつもりか」。神殿を侮辱する行為をして、ただで済むと思っているのかと、祭司達はイエスに迫った。イエスは後に祭司によってローマに告発され、十字架につけられるが、告発理由の一つはこの神殿冒とく罪であった。エレミヤも神殿冒とくの罪で捕らえられている。正に「あなたの家を思う熱意が私を食い尽す」(ヨハネ2:17)。
・祭司の言葉に対して、イエスは答えられた「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」(2:19)。あなた方は人の手で作った神殿に神が住まわれるとして、動物を捧げたり、献金されたお金で、神殿を豪華に作る。しかし、そんなものは礼拝でもなんでもない。礼拝とは、神の子として生きること、霊とまことを持って神の前に出ることだ。あなた方の体こそ神が住まわれる神殿であり、あなた方が神の子として相応しい生き方をすることこそ、真の礼拝なのだ。私はやがてそれをあなた方に示そうとイエスは言われた。イエスは御自分が十字架で死に、3日後に復活することを通して、何が真の礼拝であるのかを示そうと言われたのだ。聞いていた祭司は何のことかわからない。また、弟子たちでさえも理解できなかった。復活のイエスに出会ったとき、弟子たちははじめて、この時のイエスの真意を理解した。それがヨハネ2:21-22の記事だ「イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた」(ヨハネ2:21-22)。
3.真の礼拝とは何か
・パウロはコリントの信徒達に向かって、あなたたちの体こそ「神の神殿なのだ」と宣告する。その言葉が今日の招詞・第一コリント3:16-17だ。「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。神の神殿を壊す者がいれば、神はその人を滅ぼされるでしょう。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたはその神殿なのです。」
・パウロがこの言葉を送ったコリントの信徒達はどのような状況にあったのか。手紙の前後を見れば、彼らはパウロ派やアポロ派に分かれて教会の中で派閥争いを繰り返していたことがわかる。パウロは言う「私はあなたがたに乳を飲ませて、固い食物は与えませんでした。まだ固い物を口にすることができなかったからです。いや、今でもできません。相変わらず肉の人だからです。お互いの間にねたみや争いが絶えない以上、あなたがたは肉の人であり、ただの人として歩んでいる、ということになりはしませんか。ある人が『私はパウロにつく』と言い、他の人が『私はアポロに』などと言っているとすれば、あなたがたは、ただの人にすぎないではありませんか。」(〓コリント3:2-4)。
・パウロは教会の中で争いを繰り返している人々に向かって、「あなた方こそ神の神殿なのだ」と呼びかけている。現代の私たちも教会の中で争いを繰り返している。神に選ばれ、神の栄光を世の人々に示す役割を与えられている私たちが、世の人々と同じ人間の勢力争いを繰り返している。それにもかかわらず、神はそのような私たちの中に住まれる。ヨハネは言う「言は肉となって、私たちの間に宿られた。私たちはその栄光を見た。」(ヨハネ1:14)。神の子であるキリストが人となって,私たちの間に住まわれた。「人となって」は文字通りに訳せば「肉体となる」ということである。神の子が、仮の姿ではなく,現実に肉体をとって我々のうちに来られたのである。「住まわれ」るは「天幕を張って住む」の意で、神が人と共に住んで下さることだ。私たちの汚れにもかかわらず、神は私たちの中に住んでくださる。礼拝とはそのことを感謝する時だ。
・先週、岡山でバプテスト連盟の教役者会が行われ、私はそこで一人の牧師に出会った。彼の教会、新潟・豊栄伝道所はかっては大勢の人が集まり、立派な礼拝堂も作られたが、教会内の争いによって人が散らされ、現在は3名の人しか礼拝に集まれない。それでも礼拝は休むことなく続けられる。そこに神がおられるから、そして神は必要なものは与えてくださるから、日曜日の礼拝は続けられる。私はそこに信仰の原点を見たような気がした。たとえ3名になっても、礼拝を続ける。これが教会なのだ。私たちの教会も今再建途上にあるが、教会の将来は明るいと信じている。神が共にいてくださるからだ。これを信じ続けるのが、信仰なのであり、これを信じて、教会再建の動きを続けることこそが真の礼拝なのだと思う。