1.ペンテコステの日に
・イエスが昇天された後、弟子たちは一つの所に集まり、神から力をいただくように祈って待った。そして五旬祭の日に、弟子達の上に聖霊が下った。弟子たちは聖霊を受けて異言を語り始めた。傍から見ると、弟子たちは興奮状態になり、何かに憑かれているように見えたのかも知れない。集まってきた人々は「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだと言って、あざける者もいた」(2:13)。その人々にペテロが立って話を始めた。「今は朝の九時だ。私たちは、あなたがたが考えているように、酒に酔っているのではない。聖書が預言したように聖霊を受けたのだ」(2:15)。そのペテロの説教が2章22節から始まる。それが今日、ご一緒に読む聖書テキストだ。
・ペテロは述べる「神はあなた方を救うために、一人子を遣わされた。その方がイエスだ。イエスはその言葉と業で神の子であることを示されたのに、あなた方はそれを受け入れず、十字架につけて殺した。しかし、神はこの方を死の苦しみから復活させられた。私たちはその証人だ」と(2:22-24)。ペテロは舌鋒鋭く人々に迫る「だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです」(2:36)。
・ペテロの説教には説得力があった。何故ならば、語る出来事を彼自身が経験していたからだ。イエスが捕らえられた時、ペテロはイエスを見捨てて逃げた。十字架でイエスが死なれたとき、ペテロはイエスに従ってきたこれまでの時が、徒労に終わったと思った。しかし、そのペテロに復活のイエスが現れ、残された人々を彼に委ねられた。そしてペテロは今、説教者として立たされている。まさにペテロ自身が一度死に、その絶望の底から復活したのだ。イエスの十字架と復活の出来事は、まさにペテロ自身が経験した出来事であった。だから、彼の説教は力に満ちていた。
・ペテロが語った内容は驚くべきものであった。ローマ人にとって十字架につけて殺された者は、軽蔑される犯罪人であった。ペテロはその犯罪人を救い主と呼んだ。ユダヤ人にとって十字架につけて殺された者は「神に呪われた者」(申命記21:22)であった。神に呪われた者をペテロは神の一人子と呼んだ。ペテロが行った説教は、常識的には気が狂ったとしか思えないような説教であった。
・それをペテロは何のためらいもなく説き、民衆はその説教に心を動かされてそれを受け入れた。ペンテコステの日に奇跡が起こったのだ。その奇跡は今日も続いている。パウロは「信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」(ローマ10:17)と言ったが、今日でも説教を通して、人々は心を打たれ、悔い改め、キリストの前にひざまずく。伝道の不毛地帯と言われる日本でさえ、毎年1万人近い人がバプテスマを受け、この教会でも数多くのバプテスマ者が与えられた。神の言葉は人を揺り動かす力を持つ。私たちはこの神の言葉、十字架と復活の言葉にのみ頼って、篠崎教会を立てていく。それが人間の目にはいかに愚かで狂信的に思えようと、私たちが語るべき言葉はこれしかない。何故ならば、ペテロがイエスの十字架と復活を自分の出来事として経験したように、私たちもまた十字架と復活の出来事を経験し、またこの教会も経験してきた。
2.悔い改めて、バプテスマを受けなさい。
・ペテロの説教を聞いて、心を打たれた人々はペテロに聞いた「私たちはどうしたらよいですか」(2:37)。ペテロは終わりの時は来た、そのしるしとして自分たちは聖霊を受けたのだと主張した。終わりの時、終末の時は来た、というペテロの言葉を、私たちはどのように聴くのだろうか。私たちはこの世の終末がいつかは知らない。しかし、私たち個人は遅かれ早かれ終末を、死を迎えることは知っている。もし私たちが殺人を犯し捕らえられたならば、私たちは死刑の判決を受けるかもしれない。刑が確定し、死刑囚房に入れられたら、私たちはどのようにして毎日を送るのだろうか。刑の執行が今日か明日かとおびえて毎日を送るに違いない。
・今私たちが置かれている状況は、基本的にはこの死刑囚の置かれている状況と同じなのだ。私たちが必ず死ぬと言うことは、私たちに死刑が宣告されていることを示す。刑の執行がいつかは知らないが、それは必ず執行される。私たちがそれを考えようと考えまいと、事実は変わらない。私たちは死につつある存在なのだ。私たちにとって今は終末の時なのだ。ペテロの説教を聞いて「兄弟たち、私たちはどうしたらよいですか」と尋ねた人々のように、私たちも尋ねるべきときなのだ「主よ、私たちはどうすればよいですか。どうすればこの死の縄目から逃れることが出来るのですか」。ペテロは答えた「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。」(2:38)
・私たちは聖霊を見たことがない。それは目に見えないからだ。ただ感じることは出来る。そして、自分自身の経験として確信を持って言えることは、バプテスマを受け、聖霊をいただくことによって死の縄目から自由になるのは事実だ。死の縄目から自由になる、すなわち平安を与えられることこそ、聖霊の重要な賜物だと思う。
3.自由になりなさい
・私たちが死の縄目から解放されたとき、私たちの生き方も大きく変わる。ペテロは説教の後で皆に勧めた「邪悪なこの時代から救われなさい」(使徒行伝2:40)。死の縄目から解放されるとは、この世の縄目からも解放されることだ。死の縄目が私たちの人生を束縛している。死を前にすれば私たちには二つの生き方しかない。どうせ死ぬのだから今を楽しもうという享楽的な生き方か、どうせ死ぬのだから何をしても意味がないという悲観主義だ。しかし、死の縄目から解放された時、生き方が変わる。死で私たちの生が切断されないので、私たちは自分たちの時間を超えた生き方が可能になる。たとえ自分の代に完成しなくとも、次の世代に望みを置くから、この世での業績をあせる必要はなくなる。この世は「何をしたか、何が出来たか」の業績、結果で人を評価し、私たちはその圧力の中で苦しめられているが、聖霊によって私たちは自由となり、結果を求めなくなる。その時、失敗した人生などなくなるのだ。
・また、聖霊は私たちに地上のものだけではなく天上のものにも目を向けさせる。地上の繁栄、成功は一時的なものであり、全て過ぎ去る。私たちがこの世的に成功し、お金や地位を得てもそれらは過ぎ去るものであり、それに人生を賭けると必ず失望することを私たちに教える。この世のお金や地位や誉れから自由にされた時、人は平安を得る。
・私たちはキリストを自分の人生に迎え入れることによって、死から、またこの世から自由になるのだ。イエスは私たちを招かれている。今日の招詞が有名なイエスの招きの言葉だ(マタイ11:28-30)。
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」
「悔い改めてバプテスマを受けなさい。そうすれば罪が赦され、聖霊の賜物を受けます。そして、自由になりなさい」。このペテロの招きを、今日、この教会もまた聞きたい。